2. ウランバートル1
誰もいないホテル
宿泊するホテルに到着。何だかやけに立派に見える。中に入ると人気はない。部屋はとても広かった。キッチンもあり、冷蔵庫もある。ここは長期滞在者用アパートらしい。インターネットも簡単に繋がり、何だか拍子抜けするほど、快適。
ただこの辺にはレストランがない。外へ出ると、観覧車が見える。遊園地があるようだが、動いてはいない。その付近はマンション建設ラッシュ。どんどん建物が建っていく。ウランバートルの勢いが分かる。
近所にスーパーがあるというので出かけてみる。4年前に比べて、品揃えが豊富に見える。モンゴルは基本的に輸入品が多いが、韓国製が目立つ。お茶も韓国製緑茶が売られている。ここでバナナと水を買い、ホテルに戻って食べた。
午後は何をしようかと思っていたが、何だかとても疲れてきた。昨晩の夜行便の疲れか、または最近の過密日程の旅の疲れか、いずれにしてもこれからの長いモンゴルの旅を考えるとここは休むのが一番と判断。ベッドに潜り込むとあっという間に寝入る。このような休息が私には必要だ。しかも部屋の環境が良いとよく眠れることも分かっていた。
夕方目覚める。そろそろN先生が到着しているはずだと電話してみるとちょうどチェックインしていた。N先生とモンゴル人のアレンジャーUさんは東京からソウル経由でやってきた。とにかくモンゴルは夏が旅行のかき入れ時。便数も多いが、料金も非常に高い。
夜はN先生と2人で食事をした。面倒なのでホテルのレストランへ行ってみたが、お客がいないばかりか、従業員の姿さえなかった。ようやく探してきて注文する。ビールを持ってきてと言ってもなかなか出て来ない。このホテルはどんなレベルのホテルなのだろうか。きっといい料金を取っているはずなのだが、この辺がモンゴルの課題なのだろう。
迎えが来ない空港
イミグレも実にスムーズ。だが預けた荷物が出て来ると、何とスーツケースが凹んでいた。え、と思い、職員に伝えると、マッチョな彼は『ケース開けて』と言い、内側から思いっきり叩き、一発で元に戻した。さすがモンゴル。
出口には沢山の出迎えが待っていたが、私の名前はなかった。周囲を確認したが、迎えの人はいなかった。そうなると突然途方に暮れる。ホテルの名前は聞いているが、電話番号すらなかった。勿論迎えの人に番号もなく、頼みの綱のN先生とモンゴル人Uさんも今こちらに向かっているので、連絡は取れない。
タクシーの運転手が近づいてきた。日本語ができる。空港のインフォメーションに相談したが、どうにもならない。仕方なく彼のタクシーに乗ろうとしたが、モンゴルのトゥグルグをもっていなかった。運転手が両替は2階だ、と連れて行ってくれた。案外いい人かもしれない。両替したが、公式の両替所なのに、レシートすら出さない。どうなっているんだ。
そして1階に下り、タクシーに乗ろうと進むと、何と私の名前が書かれた紙を持った男性が立っていた。彼は突然『探しましたよ』と流ちょうな日本語で言う。旅行会社のガイドか。車に乗ると彼自身が運転している。聞いてみると運転手兼ガイドだと答えるが、一人三役の活躍だ。
何とその彼は日本に5年間住んでいた。しかも通っていたのは防衛大。え、日本人以外でも防衛大に入れるの?『防衛大には中国以外のアジア各国から勉強に来ている』というではないか。日本人が知らない、意外ない事実に唖然。
空港からの道路は専用道路になっており、4年前とは違う。空も抜けるような青空。気持ちの良い空気。だが、市内に入るとことから渋滞が起こり、新しいマンションが見えてくる。『ウランバートルは急激に発展して、インフラが付いて行かない』のだそうだ。モンゴルの変化が既にっ随所に表れている。楽しみだ。
《モンゴル草原を行く》 2013年8月10日-24日
モンゴルへ行ったのは2009年3月。あの時の印象は強烈だった。N先生調査団に同行したのだが、私には時間がなくウランバートルしか行かなかった。そして実に寒かった。http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/sonota/ub01.htm
モンゴル草原はどうなっているのか、ゲルでの生活は?いつかは見てみたいと思っていたら、またN先生が調査団を出すという。今回は2週間、全日程に参加した。ウランバートルの変化、そしてウランバートルだけでは全くわからないモンゴルが見えてきた。
8月10日(土)
1.ウランバートルまで
北京経由で
バンコックの空港に夜向かった。午前1時発の飛行機に乗るのに、9時半に空港に着いてしまう。早過ぎた。チェックインは10時からしか始まらない。同じ便に乗ると思われる中国人が大勢待っていた。今夏休み、満員だ。
バンコックを深夜に発ち、北京を経由した。中国人乗客はタイで遊び疲れたのか、殆どが眠り込んでおり、異常に静かだった。4時間半で北京に着く。朝の北京は爽やかだった。空気が汚いと言われていたが、感じられない。ここで国際線乗り継ぎのイミグレを通るのだが、いつも1つしかゲートが開いていないので、長い列ができる。この辺のサービスはもう少し充実してほしい。何しろトランジットでも金を取っているのだから。
そしてウランバートルへ。欧米人の子供たちがサマーキャンプに行くらしい。大勢乗り込んでいた。非常に順調な飛行で定刻には着陸した。4年前に聞いた話では、このチンギスハーン空港は世界でも有数の『離発着が難しい空港』だそうで、私はえらい目に合ったのだが、素人にはどこが難しいのか全く分からない。一見何もない場所にしか見えない。風の関係が大きいようだ。
7月24日(水)
ラオセントラル
今日は朝8時の飛行機でバンコックへ戻る日。朝6時過ぎにホテルを出てタクシーを探したが、何と通りに車の気配がなかった。前日ホテルから『タクシーの予約は』と聞かれていたが、7ドルという料金をケチって予約しなかったことを悔いたが後の祭り。本当に途方に暮れそうになる。
よく見ると1台のバンが停まっていた。恐らくは客待ちの車だったが、運転手が空港なら行く、と言ってくれた。空港まで行って戻っても十分な時間がったのだろう。料金も6ドルで悪くはなかった。救われた。空港までは僅か15分程度。あっという間に着いてしまった。
今日は初めて乗るラオセントラル航空という飛行機。先日バンコックで新しいエアラインと聞いていたのでちょっと緊張していく。料金はLCC並の安さ。チェックインカウンター向かうと、私のパスポートを見た男性が『おはようございます』と流ちょうな日本語で言う。え、日本人、きちんとしたジャケットを着こんだその人はどう見ても日本人。
『こちらで働いておられますか?』と声を掛けると、なんとなんと『副社長です』との答え。外資系の航空会社を退職後、最近ここに入社したという。チェックイン後、2階の待合室にいると彼がまたやってきて話す。『とにかく新しい航空会社は安全第一です』という。搭乗時間になり、タラップを登ろうとすると副社長自ら、『行ってらっしゃい』とお見送りする。日本人がこれをすることが評判良いらしい。こんな人がいるんだ、とちょっと面白味を感じる。
飛行機は新しくはないが、サービスは悪くなかった。これで行きのバンコックエアーがガラガラだった理由が分かったような気がする。安くてサービスが良ければ客は流れる。この日の乗客はかなりいたことからも分かる。次回のビエンチャン訪問が楽しみになってきた。
7月23日(火)
ビエンチャンを歩く
翌朝は一人でホテルの朝食を食べる。私はこの朝食が好きだ。昨日予約していたのに、この飯が食べられなかったことは残念だった。でっかいフランスパンにオムレツ。今のホテルは基本的にビュッフェスタイルなので、このようにオーダーしてウエーターが運んでくるのが良い。
今日は夜まで予定がないので散歩に出る。先ずは直ぐ近くの文化会館の前を通ると何やらイベントが。なぜかパンダの着ぐるみが登場、結婚写真を撮るコーナーがあった。ベトナムやカンボジアを歩くと派手な結婚式に出くわしたが、ラオスも結婚式は派手なのだろう。
それからバトゥサイ(凱旋門)を見る。7年ぶりだが、この辺は特に変わった様子はない。ただ中国人観光客が目立っていたが。裏の道をどんどん行くと、立派な建物がいくつかある。役所だったり、ホテルだったり。更にその先はこれから開発される地域のようだった。最近の中国から急激な投資、ビエンチャンを変えていくのだろう。
ビエンチャンにも日本の銀行があると聞いていた。それがこのマルハン銀行。日本では考えられないが、パチンコ屋さんのマルハンがカンボジアで銀行を開業、今年ラオスにも進出した。ミャンマーにも出るようだ。
中に入るときれいな出来立てのオフィス。きちんと英語ができる女性が対応してくれ、日本語ができるスタッフもやってきて、丁寧に説明してくれた。基本的に口座が開設できるのは労働ビザを持っていることが条件。非居住者の私には無理だと分かったが、金利は米ドルで1年定期、6.25%と言われ、ちょっと心が動く。そういえば3年前にプノンペンで聞いたマルハンのレートは5%程度。開設記念キャンペーンなのだろうか。金融の世界では利益があるところにはリスクもある、ということは認識しておく必要はあるが、日本で預金しても0.1%などという実質0の国から考えると羨ましい。因みにその後見つけた中国工商銀行の支店にも立ち寄ってみたが、こちらは実質個人客お断り、の雰囲気が漂っており、金利もマルハンの半分だった。
歩いていると日本のお弁当を売っている店があった。後で聞くと日本人が経営しているという。ビエンチャンも着実に変化してきている。お昼はなぜかベーカリーでハンバーガー。このお店、7年前にもあって懐かしくて、入ってしまった。相変わらず欧米人が多い。
お寺にも行ってみようと思ったが、なぜかそこで足が動かなくなり、ホテルに退散。午後は旅行記を書いたりして過ごした。こういう時に快適なホテル空間が実にありがたい。日本人にとってホテルは寝る場所かもしれないが、本当はそこで過ごす場所。私のような者にとってはそこが住い。
日本のビジネスホテルはコンパクトで効率的だが、正直長くいるのに適さない。恐らくホテル側も分かってそうしているのだろう。逆に日本人に不可欠なのが風呂。だから日本のビジネスホテルは大浴場を併設するところが増えている。
夜は旧知のMさんと食事。何とホテルのすぐ近くに日本人が経営するレストランがあった。日本食レストランのイメージで探すとほぼ見落とすようなおしゃれな造り。ビエンチャン在住8年の日本人夫婦がオーナー。日本の家庭料理を思わせる食事が好評とか。
ビエンチャンの華人
ノイの車で市内へ戻る。今日は沖縄のNさんに紹介を受けた日本人Mさんに会う予定であった。Mさんはラオスと日本を行き来しているが、実質20年以上ビエンチャンに滞在しているという。実は昨日教えられた電話番号に電話したところ、女性が出て、何と中国語を話した。それが中国系ラオス人であるMさんの奥さんだった。
ノイの車で到着したのは中華学校。ビエンチャンにも中華学校がやはりあった。この付近は華人が多いのだろう。Mさんが迎えに来てくれ、ノイを簡単に紹介したが、暗くて分からなかったようだ。後で『え、あのアイドルのノイだったのか』と残念がっていた。我々は普通に接しているが、何といってもノイは有名人なのである。
Mさんによれば、ビエンチャンも最近開発ラッシュなどがあり、相当変化してきているが、まだゆったりと暮らせるという。実際Mさんの家は居心地がよく、翌日から忙しいと聞いていたにもかかわらず、ダラダラと長い時間話し込んでしまった。
奥さんは華人の2代目だったが、色々な地域の華人の地が混じっいているようだった。他の場所だと『広東系、福建系』などときちんと色分けされているようだが、様々な事情でラオスの華人はベトナム華僑やタイ華僑などとの婚姻もあるようだ。ビエンチャンに住む華人はそれほど多くないが、一定の影響力は持っている。
この辺、夜間にタクシーはないという。するとMさんが近所にタクシーを頼んでくれた。やってきたのは奥さんの弟さん。当然中国語が出来るので、話してみる。『最近の中国からの進出の恩恵はないか』と尋ねると、『私たちはラオス人ですよ、今の中国人とは全然違う。彼らは金儲けしか頭にない』と強調していた。
3. ビエンチャン2
ビエンチャンへ戻る
そしてついにビエンチャンへ戻る。全く思いもかけなかったノンカイでの1泊。これはこれで面白い経験だったが、さすがに疲れが出た。帰りは実に呆気なく国境を越えた。ラオスへの入国書類を2日続けて書く、香港から深圳に通っている気分だ。
ホテルへ戻ると、スタッフが『帰ってきたか』という顔をした。それはそうだろう、折角チェックインしたのにそのままどこかへ行ってしまい、1日以上戻ってこなかったのだから仕方がいない。
部屋は偶々Kさんと2人一部屋にしていた。Kさんはこの部屋に泊まりたかった、と嘆く?実は彼は今晩日本へ帰るのだ。『とにかく1時間でも2時間でも寝れば』ということでベットに潜るとすぐに寝てしまった。私は久しぶりのネットに取り組む。
夕方ノイが迎えに来て、Kさんを空港へ送る。その車の中で、今回の目的である支援の打ち合わせが始まる。今回はノイプロジェクトの現状が理解できたこと、実際のイベントを見学できたこと、など、収穫はあった。Kさんのノイへの支援の気持ちは固まったと思う。そして晴れ晴れと空港へ消えていった。
7月22日(月)
カオパンサー
目覚めは爽やか、とはいかなかった。何だか頭が重い。今は何時だろうか。鳥のさえずりが聞こえる。外で声がした。何と既に皆出発の準備が出来ていた。タイ時間ではないな、この速さは。周囲を見渡すと何もない田舎。ここはここで環境が良い。
ビエンチャンへ帰るのかと思いきや、昨晩の宴会場へやってきた。そこにはノイチームのメンバーがいて、朝ごはんを食べていた。我々も朝ごはんかと思ったが、なぜかそこを離れる。説明は何もなく着いて行くしかない。
朝市へやってきた。市場を見せてくれるのか、と思いきや、誰かを探しているようだ。何と昨晩のメンバーの数人が待っていた。そこで朝ごはんを食べるために。ようは連絡が上手くいっていなかっただけのようだが、これはこれで面白い。カオトーンと呼ばれるお粥が食べたかったが、なぜかなかった。目玉焼きの上にひき肉を散らした食べ物が美味しかった。
そしてビエンチャンへ、と・・、いやお寺へ来てしまった。そうか、今日はカオパンサー。その儀式に参加するようだ。これは願ってもないチャンス。Kさんははてなマークを顔に出していたが、従うしかない。
そのお寺は結構な敷地がある比較的新しい所だった。恐らくは地元の有力者が寄進したのだろう。真新しい仏像が屋外に設置されている。更に新しい仏像の建造も行われている。タイでは徳を積むことが重要であり、来世へのカギとなる。宗教については色々な意見があると思うが、今の日本を考えると、『来世思考』は必要ではないか、と感じることが多い。
儀式が始まった。えらいお坊さんが講話する。今日出家する人々が数人、袈裟を着て頭を剃り、並んで前に座っている。講話はタイ語で意味は分からないが、座って聞いているだけで心地よい。一生に一度の出家、これも両親に対しる功徳だというが、出家する気持ちはどうなのだろうか。
その後信者がお坊さんにご飯をサーブする。これも一つの功徳。出家者は一つの細い紐を持ち、食事をしていた。我々にも食事が振る舞われる。麺に汁やおかずを掛けて食べるが、これは美味しい。また食べ過ぎる。信者は偉いお坊さんの周りに集まり、また何か話を聞いている。この気持ちは大切だ。
そしていよいよノイ一行のショーが始まった。ラオスの伝統舞踊、歌が披露される。ノイ自身が中心となり、ショーが展開されるが、弟子の女性たちも日ごろの練習の成果を存分に出していると思われる。このような人前で演じること、それは彼女たちの実戦練習の場であり、同時に支援者との関係を築き、支援を受ける、それがノイの目的なのである。
1時間ぐらいショーは続き、観衆は大喝采。その後は会場の人々を次々に舞台に上げ、一緒に歌い、一緒に踊る。何と私とKさんにもお声がかかり、舞台へ。観衆の『日本の歌が聞きたい』とのリクエストに困っていると、ノイが『中島みゆきの時代、歌おう』と言い、歌いだす。酔いも手伝い、ノイの後について、大勢の前で歌を歌ってしまった。上手いかどうかではなく、日本人がわざわざやってきて、日本語の歌を披露したことに聴衆は満足したようで、人々が拍手してくれた。これも一つのノイマジック。人をその気にさせる、それは教育の基本だろう。
会がほぼお開きになり、皆が帰っても、歌い、踊りまくっていたタイ人のおばさんがいた。Kさんいわく『まるで大阪のおばちゃんのノリや』『吉本にスカウトしたい』と。確かに疲れしらず、ノリノリで人のことも目に入っていない様子。すごいの一言。
気が付くと時刻は夜中の12時。ノイが『イミグレは10時に閉まったから、今日はノンカイに泊まりましょう』という。え、折角ビエンチャンのホテルにチェックインしたのに。慌ててホテルに電話して、今日帰らないことを告げる。でもどこに泊まるの?この家の家主がホテルを手配してくれるという。
ところが、今晩は宿が結構埋まっていた。カオパンサーの影響かもしれない。2₋3軒車で訪ね歩き、ようやく1軒見つかる。ところが・・、その部屋には小さなベットが1つだけ。『ここに2人で寝て』と言われて、Kさんと唖然としているうちに、皆行ってしまった。辛うじてお湯が出来るシャワーがあったようでKさんはシャワーへ。既に1時半であり、オジサンの私は、ベットの端で丸くなるとすぐに眠りについてしまった。Kさんと私は1つベットで夜を過ごした。『一生忘れることのできない経験』をした、と後にKさんは語る。