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2. ノンカイ

簡単なイミグレ

 

 

元々の予定では午後3時頃にノンカイで活動をするとあったが、既に時間は午後4時。これがラオス時間か。だが出発したら、30分ぐらいでタイとの国境に着いてしまう。この近さは何だ。しかしイミグレで誰かを待つ。タイ式のラーメンを食べる。日が西に傾く。





 

今日のショーに出演する女の子たち20名と合流した。彼女らはビエンチャンから1時間ほど離れた場所に住んでおり、このためにやってきたのだ。車が遅れてこの時間となる。20数名のイミグレ手続きは意外と時間がかかる。みな楽しそうに待っている。


 

でもタイとラオスの国境が簡単に越えられることが分かって収穫だ。ラオス人が車でどんどんタイへ入り、買い物などしてまたビエンチャンへ帰る。確かにビエンチャンの日本人も『必要なものはタイで買う』『病気やけがはタイへ行く』という意味がようやく分かった。

 

大宴会へ

そしてイミグレを越え、ノンカイの街に入り、更には住宅街へ。今朝タイから来たのに、また今タイにいる自分に少し驚く。目の前に立派なお屋敷が見える。庭には沢山のテーブルが出され、人々が食事していた。どうやら我々を待っていたようだ。ノイたちはここではプロのパフォーマー。楽屋へ向かい、着替えや化粧を。私とKさんはいきなりファーストテーブルへ案内される。


 

見渡すと、個人の住宅の庭にテーブルが十数個、100人以上が食事をし、酒を飲んでいる。入口にちょうど頭の毛を剃った若者がいた。実は明日彼は一生に一度の出家をする。カオパンサー、雨安吾入り。タイでは大事な行事、ましてや有力者の一族にとっては盛大なお祝いの日なのであった。そんな日であるから、ラオスの有名人、ノイ一行を招いて、舞台を盛り上げようということだろう。


 

舞台では歌手が歌を歌い、テーブルではお客が大量に出された料理を食べる。実は暗くて、何が置いてあるのか、よく見えなかったが。テーブルのおじさん達が、何となく興味津々でこちらを見ている。英語が話せるおじさんがビールを持ってやってくる。田舎の宴会、楽しそうだ。


 

 

ビエンチャンでトランジット

 

 

イミグレはスムーズに通過した。空港にはノイが迎えに来ているはずだったが、見当たらない。携帯に電話するともうすぐ着くという。一瞬焦ったが、5分ほどで合流し、ノイの運転で市内へ。先ずはいつも泊まるホテルへチェックイン、荷物だけ置いてすぐに昼ご飯。陽光飯店という中華系のレストラン。ノイの教え子の女性2人も参加する。外国人と一緒に食事をする、それも彼女らへの教育の一つなのだろう。でも彼女らは恥ずかしがってなかなか話さない。食事はラオス式?の鍋。これはこれで美味しいし、面白い。





 

それから車はスラム街へ進んだ。一体何のために?ノイは車を下り、我々には車内で待つようにと告げる。ある家へ入り、女の子を連れて出てきた。彼女はノイの教え子で、このスラムに住む。歌と踊りが上手く、近所の子供たちを集めて歌ったり、踊ったりしているという。若き指導者なのである。


 

『彼女は家庭環境には恵まれていないが、才能はある』という。実は本日はこれからタイのノンカイでショーがあり、ノイ一行と我々はそこへ向かうのだが、彼女は家庭の関係でパスポートを持っておらず、一緒に行くことが出来ない。それが残念だと、わざわざノイは彼女に会いに来て抱きしめた。このような交流、愛情表現が大切なのだと分かる。

 

さて、そろそろノンカイへ向かう時間だが、と思っていると見慣れた家の前に停まる。ノイの実家、家具屋さんだ。ノイが是非お父さんに会ってほしいという。彼女のお父さんは、元教育者で、昔は王家の人にものを教えたこともあるという。だが2年前に脳こうそくで倒れ、現在お話はできるが麻痺が残っている。


 

お父さんは英語が流暢。必ずしもノイの活動に賛同している訳ではないことが分かる。それはそうだろう、ミスラオスでオーストラリア留学にも出し、おまけにトップアイドル。こんな娘が困難な障害児、女性支援をしなければ、優雅な生活が約束されていたはずだ。ラオスは母系社会の末子相続。実はノイが末の女の子であり、結婚して跡を取って欲しかった、との強い願いがあった。

 

それからノイの新しいオフィスへ向かう。昨年11月にあった学校は家主からの立ち退き要請があり、既に閉じていた。集まっていた子供たちも今は10人程度しか収容できない。困っていた。ラオスは本当に難しい国だ。オフィスはお母さんの土地に建てられていた。ここに数百人を収容できる寄宿舎付きの学校を建てることが彼女の目下の課題だ。その夢はいつ実現できるのだろうか?今回の我々の使命はそのための準備。


 

《ビエンチャン散歩2013》  2013721-24

 

 

昨年11月に訪れたラオスのビエンチャン。そこで見たノイの活動は衝撃的だった。http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5327

 

 

私は何らかの形で彼女の支援をしたと思っていたが、具体的な策はなかった。そこへ大阪のKさんが忽然と現れた。私の話を聞き、『支援したい』と申し出てくれた。だが、実際に現場も見ていない、ノイに会ってもいない人に支援を要請するのはどうだろうか。そういうとKさんは『ビエンチャンに行きましょう』と言い出し、当然のこととして紹介者である私もビエンチャンに飛ぶことになった。

 

 

721日(日)

1. ビエンチャン1

ビエンチャンまで

 

 

Kさんはバンコックにやってきて2泊した。費用節約のため、無料で泊まれる場所に2人一部屋で泊まった。これにより、色々な話が出来て、よかった。当日朝タクシーでスワナンプーム空港へ向かった。空港までは順調だったが、空港内が大混雑。バンコックエアーのチェックインカウンターはいつものように長い列が出来ていた。それでも2人で待つとそれほど苦痛ではない。ようやくチェックインしたのは45分後。それからイミグレを通ったが、これまた滅茶苦茶混んでいた。

 

バンコックエアーの特徴の一つに、エコノミークラスでも使える空港ラウンジがある。Kさんにもこの話をしており、興味を持っていたが、何とイミグレを抜けた時は既に出発30分前。搭乗のアナウンスが聞こえてきて、慌てて搭乗口へ。搭乗口には既に人影もない。乗り込むと、なぜか殆ど人がいない。





 

てっきり皆イミグレで手間取っていると思っていると何と飛行機が動き出す。数えてみると乗客はたったの18人。こんな飛行機、初めて見た。バンコックエアーにチェックインする人はあんなにいたのに、ビエンチャンに行く人はこんなに少ないのだろうか?機内食は朝からしっかり出たので食べているとすぐにビエンチャンについてしまった。





 

717日(水)

黒虎泉

 

 

翌朝もホテル周辺を散策。すぐそこに黒虎泉と呼ばれる泉があるということだったが、そこは川が流れており、その川辺の各所に泉が湧いていた。これはなかなか壮観。観光客も柳の下を歩いているが、地元の人々は泉の水を汲みに来ている。中には水着を着て、温泉のように入っている人、体を洗っている人までいる。


 

ここが市民の憩いの場、生活の場であることがよくわかる。そしてこのような場所が市内の中心にある街、済南は古き良き中国を残していると言える。だが、開発の波はきっとこれからこの泉たちをも襲うだろう。その時、市民はどうするのか、その辺が中国の次のステップを見る材料ではないかと思う。





 

その他にも古き良き町並みには残っていた。北京の胡堂のような狭い路地、小川を眺める老人、ここにも泉がある。観光地でもなく、ただただ昔を残している。中国はこれからどうなるのか、そんなことを考えながら歩く。


 

そしてホテルに戻り、チェックアウトして駅へ。来た時駅にはあんなにタクシーがいたのに、ホテルの前にはタクシーがいない。昼前はタクシーが捕まり難いらしい。ちょうど乗客を降ろす車を見つけ、何とか乗り込む。が、この女性ドライバー、あまりに訛りが強くて何を言っているのか、ほぼ分からない。

 

山東と言えば26年前に行った烟台、青島でもほぼ言葉が聞き取れずに『中国は本当に広い。そして上海でいくら勉強しても、他の都市で使えない』を実感したことを思い出す。最近はテレビなどの発達で、若者は標準的な中国語が話せるが、この辺りの年配者、村から出てきたような人は、未だに標準語が使えないと分かり、懐かしいような、困ったような。


 

駅に着くと、すぐに北京行の切符が買える。相変わらず便利。ただ高速鉄道の新駅はどこも同じような形でだだっ広いのは不便でもあり、またつまらない。そんなことを考えているとあっという間に北京へ戻っていた。中国の発展スピードは速いが、できれば古き良きところも残してほしい、それは部外者のしがない望みであろうか。

 

中国人上司

 

 

帰りは夕方の帰宅ラッシュにぶつかり、タクシーは捕まらず、バスでホテルに戻る。ホテルからまた出て、夕暮れの街を歩く。そこは昔の路地を観光化したような場所。狭いスペースにたこ焼き屋や寿司屋などの屋台が出ており、大勢の人で賑わっている。でもなんで、寿司。勿論て巻き寿司や海苔巻だが、済南の人々はかなり好きなようで、何軒もあった。





 

そして夜はOさんの上司と部下と一緒に食事をした。その場所は香港系企業が開発した大きなショッピングモールの中。ユニクロとMUJIもしっかりと店舗を構えていた。魚を丸ごと煮た料理が登場。皆で思いっきり食べる。





 

普段は上海に居るOさんの上司は、何くれとなく話し掛け、巧みに部下である中国人の愚痴や疑問をかぎ分けて、誉めたり宥めたり。中国の上司の仕事は部下と仲良くして仕事を進めること。日本とはかなり違う。

 

また彼は日本に関しても相当に詳しく、日本企業とも多くの取引をしてきていた。『中国人は元々日本を知らない人が多いが、日本人でも中国を知らない人が増えている』と嘆く。そして『日本人は何でも謝り過ぎ。あれでは中国に対して過去を謝罪した、と言っても誰も信じない。日系企業に勤める中国人は自分の上司が毎日10回以上、電話に向かって「すみません」と言っているのを聞いているのだから』なるほど、全くだ。

 

食事を終えると彼らはカラオケに向かった。上司はきっとカラオケでも部下の愚痴を聞くのだろう。それが重要だ。それが上司の仕事だ。勿論部下も上司との関係を重視して、食事にも付き合う。昔は日本もこうだったのではないか。日本のシステムは確実に崩れている。

 

 

黄河と歴史遺産

 

 

午後はOさんが黄河へ行こうという。黄河、そうかこんなところに黄河があるのか。市内中心からタクシーで20分ほど行くと、大きな河が見えてきた。済南黄河、確かに川幅は広い。ただ昔からここを流れていたわけではないようだ。1855年にこの流れになったとある。


 

平日の午後だが、観光客がそこそこいる。ただ河が大き過ぎて、人がいるようには見えないが、よく見ると浜辺?に見えるような部分で水遊びしたりしている。魚を釣っている人もいるかもしれない。よく考えてみると私は黄河をこれまでに見たことがなかったようだ。長江は三峡下りの経験もあるのだが、黄河は幻だった。断流だ、何だと騒ぎがあったが、今回見てみて、水があることは分かった。これで良しとしよう。Oさんに感謝しよう。


 

それから牛さんに教えてもらった日本が建てた建物を見に行く。Oさんも仕事柄、同行してくれた。済南飯店、そこへ行けばある、ということだったが、見た目はただのホテルだった。ホテルの人に念のために聞くと、裏に回れという。裏へ行って驚いた。そこには何と日本領事館の建物がそのまま残されていたのだ。


 

中へ入ってみると、人がいた。ここを管理している会社の人だという。強い山東訛りでよく聞き取れないが、元々領事館は1918年に作られた。これは第一次大戦時の青島占領後の処置だろう。その後、1928年に済南事変で一度焼かれたが、1939年に再建された。目の前にあるのはその建物だった。解放後、毛沢東をはじめ、劉少奇、宋慶齢など多くの共産党幹部がここに泊まったという。


 

建物の中はそれほど傷んでおらず、当時の雰囲気を残している。むしろ少しきれいにし過ぎたようだ。今後レストランにでも使うのだろうか。2階に上がると毛沢東も泊まったという寝室がそのまま残っていた。そこの窓ガラスは当時のままだという。うーん、相当な観光資源だと思うのだが、どうなんだろう。

 

外へ出ると建物の横に庭がある。その向こうはビアガーデンになっている。まだ時間が早いので、営業はしていないのだが、こんなところで夕暮れ時にビールでも飲むといいだろうな、と思う。領事館時代はここでガーデンパーティーが開かれたかもしれない。他にも2号楼や事務所など、昔の建物が多く残っている。


 

済南飯店を出て、歩いて行く。この付近はやはり、旧市街地。古い建物がいくつも見える。教会もあれば、今は博物館になっているところもあった。済南は本当に雰囲気のある街だな、と感じる。


 

そして最後に探し当てたのが高島屋の跡。高島屋がこんなところにあった、ということが信じられないが、当時は日本軍の占領地の景気は良かったのだろう。大連や天津にも百貨店は進出していたのだから。ただ気になるのは高島屋のHPなどに戦前中国に進出したことなどは書かれていないこと。何か後ろめたいものがあるのだろうか。この建物は交差点の角にあり、立地は良かったのではないか。現在は何と建物の正面に入口が見付からない。一体何に使われているのだろうか、と近所の人に聞くと、何と『公安』だった。写真を撮るのも遠慮した。

 

716日(火)

趵突泉

 

 

翌朝散歩に出る。夏の朝は爽やかだ。ホテルの向かいには泉城公園があり、そこをずっと歩いて行くと観光名所の趵突泉公園があった。済南は泉の街、街中いたるところに泉があるが、ここは公園になっており、観光客も訪れるし、市民の憩いの場ともなっている。


 

園内に沢山の泉がある。済南は別名を泉城というらしい。亀や魚が泳ぐ泉、ボーっと見ているにはちょうど良い。柳がちょうどよく、枝垂れており、絵になる風景だ。万竹園という竹林もあった。公園の中にミニ公園がいくつもある。





 

実はこの公園の中には日本に関するものもある。それが『済南惨案記念堂』だ。19285月、日本軍の山東出兵により、この地で中国の外交官など17名が惨殺されたとされる事件。中国ではこの事件を日中全面戦争の序幕、と捉えている。日本の歴史の教科書にも出て来るが、あまり詳しく勉強した記憶はない。因みに日本側は居留民12名が殺害されたため出兵したとしているが、この辺りの歴史は闇の中。中国側は日本軍の占領後、数千人が殺されたとしているようだが、こうなるとどうだろうか。この事件、済南が交通の要所であったことは分かる。





 

お昼前に昨日の旅行会社に行き、再度副社長と会う。今日は済南市の旅遊局の牛副局長を紹介され、歓談する。特に済南・青島などの歴史建築物に詳しい牛さんより、済南に残る数々の日本時代の建築物について聞く。ここ済南には戦前数千人の日本人が居留しており、領事館を始め、何と高島屋まであったというから、青島ほどではないが、重要な場所だったことが分かる。


 

因みにここで山東の日照緑茶を飲む。特に特徴は感じられなかったが、牛さん達が急須に持参の茶葉を入れ、湯を注いでも蓋をしなかった所に感心した。やはり緑茶は急須で淹れるものではないのだろう。次回日照を見てみたい。


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