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女性社長は担ぎ屋さん

 

 

午後はセレンゲで大規模農業をしている会社を訪ねる。小麦が主体のこの会社、社長は女性だった。彼女はソ連が崩壊した20年前、農業大を出てコルホーズに勤めていたが、物資の欠乏に目をつけて、ロシアとモンゴルの間の所謂担ぎ屋を数年やったらしい。これをモンゴルでは『豚を引っ張って歩く』と称するとか。


 

今回訪問した多くの経営者が、実は90年代豚を引っ張っていた。そこで蓄積した資金を元に事業を始めている。ここの社長も90年代後半、コルホーズが行き詰るとそこの株を買い、農地を買い、成長してきている。そして『民間初の女性社長』として取り上げられ、最近はJICAの支援で、農業設備を購入したりしていた。

 

オフィスから出て小麦畑に行った。道は途中からなくなり、ランドクルーザーでなければいけないような悪路となる。流れている小川を横切ったりする。ワイルドだ。そして一面の小麦畑。何だか楽しくなる。








 

帰りに大きな池の側で停まる。ここは夏の間、子供たちが泳ぐ遊び場となっていた。ここセレンゲは一般的に思うモンゴルとは違う。普通の畑があり、水がある。淡い色の花が咲いていたりする。実に良い所だと分かる。





 

《プーケット散歩2013》  201399-11

 

 

タイに滞在して数か月。ある日中国人の知人が「プーケットで中国語が通じて驚いた」と話していたのを聞き、急に行ってみたくなった。何しろプーケットへ行ったのは1994(http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/thai/phuket1.htm)と翌年1995年(http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/thai/phuket2.htm)の2回。いずれも幼い息子たちを連れた家族旅行だった。18年ぶりのプーケット、どのような変化があるのだろうか、そして華人は居るのか、さてどうなることか。

 

99日(月)

1. プーケットまで

タクシーが捕まらない

 

 

今回はドムアン空港へ行く。前回同じ時間にスワナンプーンへ行った時は非常にスムーズだったので、今日も高をくくっていたが、それは大きな間違いだった。宿泊先から道路へ出て行ったが、タクシーは全く捕まらない。午前7時半、段々交通量が増えてくるが、タクシーは益々やってこない。他にタクシーを待つ人が出始め、これは本当に捕まらないのでは焦り始める。フライトは午前9時半、国内線だから間に合うはずだが、車がなければ空港へ行けない。仕方なく、5分以上歩いてスクンビット通りへ出る。この道はさすがに朝のラッシュが始まっており、車が多い。

 

空車は直ぐに見つかった。だが、運転手に「ドムアン」と告げると、首を横に振る。ここで乗れないと困るので、もう一度頼むと「うーん」となり、仕方ないかとなった。この運転手のリアクションが正しかったことは直ぐに分かった。スクンビットを抜けるだけでも大変なことになっていた。高速に乗ったが、完全な渋滞にはまった。動かない。これでは今来た道すら戻れない。どうする、いや、「着くときは着くもの」と思い、考えないことにした。


 

途中何度もダメかと思ったが、なぜか最後はスムーズに行き、フライトの40分前には空港に着いていた。驚いた。しかも前日Webチェックインしていたので、すぐに荷物検査を通ると、搭乗時間までにはまだ間があり、ネットを見る余裕すらある。信じる者は救われる、ということか。

 

何もない自由貿易区

 

 

実は今日国境を訪問したのは、単なる旅ではなかった。今回の調査の目玉の一つ、モンゴル-ロシア国境における自由貿易区の発展状況を視察することにあったのだが、現場に案内されて驚いた。10年前から計画されているこの貿易区、殆ど何もなかった。プレハブの事務所に計画のパネルなどがあったが、何ともむなしい。





 

なぜこのような状態なのか。このプロジェクトを担当していたのは20代の若者2人。『毎年予算は付くが、お金が届いたためしがない。当初基礎工事で地中のパイプなど水工事は行ったが、そこまでだ』と本人たちも残念そうだ。

 

外に出ると、骨組みだけ出来た倉庫が一つ、ポツンと建っていた。これは今の貿易区を象徴していた。多少の従業員がいるとのことだったが、昼休みで誰もいない。何とも寂しい。ここは産物のないモンゴルが、世界各国から物資を集め、貿易を進めるはずの場所だったが、計画倒れ。モンゴルの現状がよくわかるプロジェクトとなっている。





 

因みに貿易区には柵が設けられている。これはロシアとの国境を示すもの。『ロシアはどんどんモンゴルの土地に侵入してきている。何も対抗しないと、奴らは更に進んでくる』、昔は気が付くと、ロシアの柵が前進してきたそうだ。確かに広大な草原、全てを守ることは人口の少ないモンゴルにはできない。またロシアは入植と言う形で、ロシア人をどんどんこの地に放り込み、彼らが国境を動かしていることもあるようだ。島国日本から来たものには、全く想像もできないような、領土争いがそこにある。


 

またモンゴルには精霊信仰がある。この大地にも祭られている場所があった。一見無造作に置かれている石、布で周囲を囲われている。そして驚くべきことに、捧げられているのはお茶の葉。日本ではレンガ茶と呼ばれるブロック状の磚茶。これはモンゴルの人々が日常飲むミルクティの原料だ。中国茶は仏教との兼ね合いが強いが、ここでは精霊。





 

ローカルランチ ロシアから卵

 

 

昼ごはんはかなりローカルな店に入った。まんとうと羊スープ、これは私が望んだものだったので満足。この辺に店はあまりなく、国境を越えてロシアから来たトラックなどが引っ切り無しに前を通り、または停車していく。レストランの隣はちょっとした何でも屋。トラックの運転手が下りてきて、水などを買っている。


 

運転手に何を運んでいるのか聞いてみると『卵』との答え。材木などを積んだ車もあるが、食品を運んでいる車も当然ある。卵はモンゴルでも何とか生み出せないのだろうか。ロシアでも条件は変わらない筈だから。大量生産した方が安い、と言う資本主義の原理だろうか。こうした輸入形態がモンゴルの伝統だとよくわかる。


 

日本と中国に3週間ほど行っていた。気が付けば今年も残りわずか。一体私は何をしていたのだろうか?旅は続いているが、私の心は定まらない。そんな年の瀬に、インドのチベット、ラダックから尼僧のパルモ師がやってきた。パルモさんとは200612月、ふとしたきっかけでご縁を得た。その時の言葉が心に突き刺さり、その後、サラリーマンを辞めてすぐ、20117月にラダックを訪ねた。その時の衝撃も人生で忘れられない出来事となっている。その時の旅行記はブログで。

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/category/683/page/14

 

そして本日、2年ぶりの再会を果たした。これはA師一行が10月にラダックを訪れた結果実現したプログラム。タイの大学で、講演会が開かれた。タイ人、特にA師にヨーガを習っている人々は、このチベット仏教に興味津々。数十人が集まり、熱心に聞き入った。


 

パルモ師はラダックで尼僧の地位向上のために様々な活動をしている。少し疲れているように見えたが、益々貫禄が付き、既に仏教界の重鎮という雰囲気が出ていた。ただ相変わらず気さくな人で、冗談など混ぜながら話す。


 

『今この世に人として生まれていること自体が大変な幸運』、そんなことを考えたことがあるだろうか。『世界にはネガティブなニュースばかりが流れているが、もっとポジティブな心で生きていくべき』、『自らの心が抑えられないから、憤懣やエゴになる』、『人間は自己のエネルギーの発散を押さえ、心穏やかに生きるべき』。


 

『物事を受け入れること』『自らを尊重すること』、そして『苦しみをシェアすること』が大切だと、淡々と説く。全く当たり前のことを言っているだけだが、その当たり前のことを日々自問し、『自分と向き合う姿勢』が必要だ。

 

参加者の中にご主人を殺されたタイ人がいた。師は話を十分に聞き、そしてただ彼女を抱きしめた。それだけで彼女の表情は明らかに変わり、穏やかになった。パルモ師のような人から時折話を聞く、そして話す、そんなニーズが人々にはある。日本の宗教界はその役割を果たしているのだろうか。

 

2年前ラダックで分かれる時、『すぐまた来ます』と私が言うと、パルモ師に『あなたは当分来ないわ』とさらっと言われた。だが今回は『すぐまた会いましょう』と師の方から言われた。来年はラダック再訪のチャンスが訪れるのだろうか。


 

『よい死に場所』に言及した師に向かい、『私は3年間、死に場所を探してアジアを放浪してきたが、まだ見付かっていない』と告げると、『それならラダックへいらっしゃい』と言われる。ただ『あなたは冬のラダックの厳しさを知らない。零下20度の中、人々と寄り添って暮らして、初めて分かる』と。『満足がよき来世への道』と言うニュアンスの言葉も出て来る。

 

取り敢えず来年2月に零下35度の黒竜江省行きが決まっている。少し様子を見るか?来世への準備、そろそろ始めよう。

 

814日(水)

幻の茶城発見

 

 

朝ごはんはビュッフェスタイルではなく、オーダー。オムレツとパン、野菜が少ししかないのがモンゴル風。テーブルにキッコーマンの醤油が置かれている。羊肉にかけて食べる人がいるようだ。これは意外に美味いだろう。さすがキッコーマン、モンゴルの果てまで営業していると思ったが、これはシンガポール製。恐らくはモンゴル人の誰かが日本人と関係なく輸入したのだろう。うーん、モンゴル市場は確かに小さいが、親日的でファンは多いと思うのだが。





 

セレンゲ県の税関を訪ねた。役所のビルの目の前に鉄道の線路があり、ロシアと繋がっている。モンゴルにとってロシアがどんな存在であったのか、よく分かる。ただセレンゲの貿易に占める地位は低下してきているらしい。ロシアではなく中国の影響があまりにも大きくなりすぎた。


 

そして車で国境に向かった。呆気ないほど簡単に到着。車が列をなしており、国境を越えてロシアに向かうことが分かる。イミグレの人に話を聞くと、『毎日数百台が通る。日帰りも多い』と。気軽な国境だった。





 

ちょうど自転車に乗った人たちがやってきた。聞けばフランス人の50代の夫婦。何とフランスから自転車でやってきて、モンゴルを回り、これからフランスへ帰るところだという。既に1年半の旅をしている。半端じゃない。驚きだ。


 

そして何より驚いたのは、国境の柵の向こうに見えた白い建物。何気なく聞いてみると、何と百年以上前の茶城だった。ここはモンゴルではヒャクトという地名だが、ロシア語はキャプタ。1727年に清とロシアで結ばれた、あの歴史の教科書にも出て来るキャプタ条約の場所だったのだ。Nさんが言う。『今朝、「茶葉の道」という本を読んでいたでしょう。あそこに出ていた茶城ですよ』と。意図せず持ってきた本の写真が目の前に。歴史が厳然と存在している。全く驚きだ。


 

茶葉は中国からここを経由してロシアに運ばれ、拡散し、人々は茶を飲むようになり、やがては生活必需品となった。この地は清国の商人とロシアの官僚がパーティーをしていたところでもある。是非とも国境を越えて茶城跡を見学したかったが、『ビザを持っていないなら行けませんよ。こっちは出てもいいが、ロシア側で罰金とられますね』というイミグレの一言で現実に帰った。

 

これは茶縁なのだろうか。きっとそうなのだろう。旅には意外性が付き物だが、今回の意外性はスケールが大きかった。

 

 

県庁訪問

 

 

セレンゲは静かな田舎町だった。だが、ホテルは結構立派で驚く。最近できたようだが、それだけ需要があるということだろう。ネットもちゃんと繋がるし、何よりきれいだった。ホテルから歩いてすぐの所に県庁があり、訪問した。セレンゲの現状について聞いたが、『農業県』ということだった。またロシアとの国境貿易も盛んのようで、この県はかなり豊かな感じがした。


 

お昼はホテルに戻り、県庁の人々やセレンゲ商工会のA会頭も参加して会食した。このホテル、食事もしっかりしており、益々よい。餃子の皮のようなものが入ったスープが特に美味しい。昼からしっかり儀式としてビールを飲み、歓迎された。先方のトップが女性だったのでこの程度で済んだのかもしれない。





 

部屋に戻り休息。今回は全てNさんと同室だが、彼は早々探検に出るという。やはり私などよりは10歳以上若い。モンゴル族と言っても外モンゴル、特にロシア国境には初めてやってきた。興味津々のようだ。こちらは車で疲れたので、ベットに横になるとすぐに寝てしまう。環境が良いせいか。ここは空気もいい。UBの喧騒もない。

 

草原のBBQ 

 

 

午後5時に車に乗り、草原へ出発。牛や羊がゆったりと歩く草原を見ると心が休まる。車で30分ほど行くと、突然丘の斜面を登る。そこにはゲルが。そして濛々とした煙が上がっていた。A会頭より『今日は旅行会社の社長のインタビュー』と聞いていたが、何と草原のゲルで行われるという趣向だった。というか、このゲル自体が観光用で、BBQを食べるというプランだったのだ。


 

一人の女性が近づいてきて『ビール、飲みましょう』と何と日本語を話した。聞けば3年前まで千葉県の工場で働いていたという。そして『この3年間で初めて日本人と会った。日本語が話せて嬉しい』とも言う。彼女は思い出すように日本語を使っていたが、すぐに流暢になった。

 

このゲルツアーは今年から始まった。ロシア国境から7㎞、外国人の観光客に期待している。日本人はほんの数組が泊まった。このような民間による新たな試みがモンゴルに芽生えている。

 

BBQは美味かった。だが羊ではなく豚肉。モンゴルの地方に行ったら毎日羊だと脅かせれてきたので拍子抜けした。青空の下で食べるBBQ、ビールや馬乳酒を酌み交わし、気分も爽快となる。そうなると歌が出る。N教授も特にロシア民謡を披露。先方は日本語の話せる女性とその旦那が日本語の歌を歌う。そして踊る。最後にはモンゴル相撲まで披露された。これは決してショーではなく、素朴なもてなし。それがとても良い。


 

この近所には周囲を一望できる丘もあり、景色もよい。丘に登れば、河が見え、遥か国境付近まで見渡せる。思えば遠くへ来たもんだ、と思う。こんな観光、したくてもなかなかできるものではない。


 

 

813日(火)

3.     セレンゲ

セレンゲヘ

 

 

今日はいよいよモンゴル草原を行く。2台のランドクルーザーに分かれ、北を目指した。ウランバートル市内を抜けると、後はずーっと草原。道は一本道で舗装道路、快適だ。天気も良い。恐らくはモンゴルで一番良い季節なのだろう。ただゲルや羊の姿はなく、もっと遠くへ行っているように思えた。


 

途中にガソリンスタンドがあり、給油。簡単な店があり入ってみると、缶コーヒーなどが売られていた。これは台湾製。モンゴル人もコーヒーを飲むんだな。車を所有している層は当然海外慣れしている。因みにガソリン代は日本並み。





 

鉄道の線路に出くわす。列車が来るので足止め。列車が来るまで相当の時間がかかり、周囲を探索。この辺りは草原と言っても、家があり、区画が割られている。聞けばモンゴルでは全国民が700㎡ずつの土地を貰う権利があり、誰も使っていな土地は自由に使い、届をすれば自分の物となるようだ。自分の土地には柵などをして、使用していることをはっきりさせるらしい。最近はUB付近の土地は確保できないようだが、田舎は便利なところを選んで貰うという。


 

列車は基本的に貨物。それも延々と続く。石炭や石油を運んでいるようだ。これがモンゴル経済を支えているのかもしれない。勿論トラックも走っていたが、その数を見れば、鉄道輸送の重要性が分かる。


 

4時間ほど走ってセレンゲ県に入る。ここは草原ではなく、小麦や野菜の畑が見えてきた。農業県セレンゲ、UBの市場で見た野菜などもここから運ばれてくるらしい。内モンゴルの草原出身のNさんは『ここの小麦は悪くない』などと、自らの故郷を懐かしんでいるようだ。作物や草花を見て、一瞬で名前を言い、種類を見分ける、草原で生きてきた証を見るようだ。


 

合計5時間ほどで、セレンゲ県の中心都市、セレンゲに到着。ここはもうロシアとの国境の街だ。当然北に進んだので涼しくなると思っていたが、何とどんどん暖かくなる。実はUBは標高が高く、我々はどんどん坂を下っていたらし。『北へ行く=寒くなる』という固定概念ではアジアは語れないと痛感した。UBの市場でわざわざ購入した上着の出番はとうとうなかった。





 

812日(月)

ウランバートルはお金持ちが多い

 

 

翌朝はUさんが所属するモンゴル商工会議所を訪問した。我々の調査団はこちらの会員企業などをアレンジしてもらい、企業訪問、インタビューを実施、調査を遂行する予定である。その為の表敬訪問。会頭Dさんはかなりのやり手。先日国会議員にも当選したという。商工会も彼の牽引で地位が向上しているらしい。関係部署を回り午前中が終了。


 

お昼はスフバートル広場横のモダンなビルへ。このビルはルイビトンなどもテナントとして入り、モンゴルでは最も先端的なオフィスビルと言える。その中にあるレストランはカフェ風。香港にいるのと同じ気分になる。クラブサンドイッチも美味しい。お客はお洒落な30代が多い。





 

因みにこのカフェと同じフロアーには鉄板焼き屋とラーメン屋が入っていた。モンゴルも日本食ブームなのだろうか。残念ながら入って食べる機会はなかったが、料金はモンゴルとしては結構高い。

 

昨晩からホテルの部屋が同室になった、内モンゴル人のNさん。彼の帰りのフライトチケットを買いに航空会社オフィスへ。そこはかなり昔の中国のオフィスも思わせるスピード感。チケット1枚買うのに30分以上かかる。

 

そして今度はNさんと一緒に携帯ショップへ。モンゴルのSIMカードを買うためだった。ランチをしたビルにあるというので行ってみたが、そこはVIP専用。さすがビルが良ければ客も選ぶ。何とか一般向けのオフィスを探し当て、無事カードを購入。僅か数百円で通話とショートメッセージが出来る。よしよし。このショップ、結構スマホなども売っている。


 

話しによるとウランバートルの車の修理工はベトナム人が多いという。何故だか知りたかったが、行く機会を逸してしまった。メイドはフィリピン人から来るとか。モンゴル人もメイドを雇える層は英語ができるということだろう。人口の少ないモンゴルだが、意外とお金持ちが多いことが分かる。

 

 

スーパーで

 

 

夕方、高級スーパーへ。ここも以前来たことがあるが、かなりきれいになっていた。この4年間の変化、特に消費の伸びは十分に感じられるほど、モノの値段も上がっているし、地元モンゴル人の買い物客が増えている。我々は今晩、ホテルの部屋で宴会?を開くための食べ物を買い出した。


 

海苔巻、キムチなど韓国製が食べやすそうだ。ビールなどは世界各国の物が揃っていたが、中には地ビールもあり、牛乳のボトルに入っていた。面白かったことは割り箸がなかなか見つからなかったこと。モンゴルでは基本的にフォークやスプーンで食べるヨーロッパ風。ようやく見つけた箸もやはり韓国製。





 

カップヌードルも買ってみた。よく考えてみれば箸もなく、どうやって食べるのだろうか。この間インドでも同じ問題があった。解決方法は麺を短く切り、スプーンで掬って食べること。カップ麺も日本製は少なく、韓国製が圧倒していた。


 

外国産が圧倒しているこのスーパーで、日本が目立っていたのは何と日本茶コーナーがあったこと。それも棚3段。そしてティパックや『日本煎茶』『静岡茶』といった一般的なお茶だけではなく、知覧茶、屋久島茶なども並んでいたことには正直驚いた。一体誰が輸入し、誰が買うのだろう。日本人でないことだけは確かだ。モンゴルの日本びいき、日本のゆかりのある人が増えている証拠だろう。また日本側の事情としても、海外輸出を進めたいということの表れだろう。その夜はホテルの部屋でパーティー。東京からA先生及び内モンゴルからNさんも到着し、今回のメンバーが揃った。


 

 

811日(日)

ザッハで モンゴル産野菜

 

 

翌朝朝ごはんを食べに1階のレストランへ行くと、欧米人と韓国人のお客がいた。このホテルには誰も泊まっていないのかと思うほど静かだったので、意外な感じがした。やはりモンゴル、野菜は少ない。なぜか海苔とキムチはある。韓国人が多いのだろうか。昨晩長野から到着したOさんも加わって食べた。

 

今日は外出。これからの旅の準備をする。先ずは両替所へ。空港と比べて多少レートが良い程度。ただ人民元のレートが非常に良く見えたので、両替した。今や人民元はメジャー通貨扱いだ。


 

それからザッハと呼ばれる市場へ向かう。ここは庶民が買い物をする巨大市場。私はここで厚手の上着を購入した。それはこれからロシア国境まで北へ向かうとかなり寒いだろうという予想があったからだ。ここの服は殆どが中国から持ち込まれたもの。勿論輸送代の分だけ中国より高い。


 

服だけではなく、雑貨もあれば、化粧品もある。食べ物は専用の建物に入っていた。野菜を売っている場所に異変が起こっていた。我々はモンゴル文字が読めないが、多くのモンゴル産野菜が並んでいたのだ。4年前は基本的に中国産が並んでいたが、その後『中国食品の安全性』にスポットが当たり、拒否する人が増えたという。


 

芋でもキャベツでも、モンゴル産が好まれる。これは食の安全性もあるが、モンゴル人の中国に対する嫌悪感を表している。歴史的に複雑な隣国とはそのようなものだが、かなり中国からの投資圧力があるのだろう。

 

そして昼食へ。以前も行ったきれいなレストラン、外国人が多かったが、今では地元の人で込み合っていた。出てきた羊肉は美味かった。内臓系のスープも抜群。やっとモンゴルに来た、と言う実感が湧いてきた。





 

このレストランで頼んだのが『Sencha』。キレイなパッケージであり、中は使いやすいティパックになっていた。裏を見るとドイツ製となっている。何故ドイツ製のティパックがモンゴルに?この謎は後々解けていく。味はまあまあ。でもこれ煎茶なの?


 

午後はスフバートル広場へ行く。観光は夏がかき入れ時、と言われてが、この街の真ん中の名物広場に人はあまりいない。天安門広場なら人で埋まっているだろうに。モンゴルは本当に不思議な国だ。


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