ホテルに戻ったが、時刻はまだ2時台。何となく腹も減るが、それほど沢山食べたくもない。そこで麺を食べようとホテル内のレストランへ向かう。ところが・・「四川の担担麺ならあるが、ウイグルのラグメンはない」と言われてビックリ。仕方なく、ラグメンレストランの場所を聞き、向かう。歩いて5分、
店を覗くと沢山の人が食べていた。入り口で先ず食べる物をオーダーし、金を払う。私は迷わずナス肉ラグメンを注文。10元。ついでにシシカバブーも頼んだが、「1本なんて焼けないよ」とお姐さんに冷たく言われる。しかし後ろで順番を待っていた女性が「あたしも食べるんだから、一緒に焼こうね」と実に優しく言ってくれた。これだけも感激。カバブー1元。
昔の学生食堂のように、厨房が見える。自分のオーダーした物をその前で待つ。なかなかいい雰囲気だ。スープ麺もあり、こちらは出て来るのが早い。これも美味そうだが、熱いのだから、汗が出そうだ。10分近く待ってようやく、私の麺が出て来た。
ナスと羊肉の具と麺は皿が分かれていた。具を麺に載せ、思いっきり?かき混ぜる。ナスの香りが飛ぶ。食べなくても、既に美味い。麺は本当にしっかりしており、実に満足できるスパゲッティーである。日本では食べられないのだろうか。カバブーが遅れて到着。こちらも肉が柔らかい。
食事が終わってレストランを出ると、そこは下町の風情。ちょっと散歩。道沿いに木々が緑に映え、その下でカバブーを食べながらビールを飲む人々。昼からビアガーデン状態だ。N先生に早速知らせねば、と思う。
脇道を入ると果物を売っている。スイカにハミウリ、ブドウ、何でもある。一人ではスイカ一つでも多過ぎる。諦める。横を見ると携帯ショップがあった。そうだ、デジカメのカードリーダーを持ってくるのを忘れていた。店で聞くと、おにいさんが親切に私のカードに合うリーダーを探してくれた。価格は僅か10元。何となくその優しさに癒される。
更に歩いて行くと、靴磨きのおばさんと目が合う。そうだ、昨日砂漠に足を突っ込み、靴を汚していた。試に足を出して聞いてみると「これは革靴じゃないから、ちょっと高いよ」と言われる。いくらか聞くと「3元」との答え。磨いてもらう。磨くと言うよりクリームをつけて落とす感じか。
おばさんは河南省から出て来た出稼ぎだった。ここでの生活を聞くと「生活はどこだって同じだよ」と。でもウルムチは景気が良いそうで、商売は繁盛しているとも言う。僅か2-3元の商売だが、彼女は実に明るい。話していてもよく笑う。隣の2人も同郷らしく、話に加わり楽しく過ごした。
先生達はもう一つの新華書店に向かう。不熱心な私はここで別れる。そして折角なので市内のバスに乗ってみる。ところが地図を忘れてしまい、停留所の名前を見ても、どのバスに乗ればよいか分からない。仕方なく適当に乗り込む。1元。
日曜日の昼間、バスは意外と混んでいた。ラマダンの時は家でジッとしているのかと思い込んでいたが、どうやら違うらしい。数駅乗ると紅山公園にやって来たので、ここが市内の中心であると思い、降りる。ところが、この公園は相当の広さの上に高さもある。ここを登るのは大変だと思い、目の前にやって来たタクシーに飛び乗る。
運転手は漢族ではないが、どの民族かは分からない。最近は景気も良いし、給与も上がっていると上機嫌で言う。「ウルムチは田舎だと思ってきただろう」とズバリ言ってのけたりもする。「最近この辺のマンションは8,000元/㎡はするよ。一番高い所は18,000元」街の発展を喜んでいる。「俺たちは民族なんかどうでもいい、平和に暮らせればそれでいいんだよ」とも言う。確かにその通りだ。
道を歩いているととても雰囲気のよさそうな茶店があった。入ろうとしたが残念ながらラマダンで休業中。店の入り口からするとトルコチックなお店。どんな茶が出て来たのだろうか。
次に向かったのは新華書店。大学の先生、研究者は常に資料収集を行う。これは意外と大変な作業だと思う。ウルムチ、新疆の資料を探す。ここの新華書店もご多分に漏れず、どこに何があるかは分かり難い。しかしN先生などは初めて来たとは思えないほどの素早い行動力で、次々と関係資料を掘り出している。私が新疆の歴史に関する資料を手にすると「これは日本語版がここにあります」などと教えてくれる。凄い。取り敢えず1冊購入する。
今回驚いたのはバックを預ける保管箱。コインロッカーのようになっており、すべて自動化されている。最近北京に行っても書店に入ることは少ないが、北京や上海もそうなのだろうか。そして一番驚いたのは、取り出す際に預けた時に出て来たシートをかざすだけでロッカーが開いたこと。日本にこんなのあるかな。
また道を歩く。昨日来た大バザールを通過。その先にCDショップあり。いい民族音楽が流れて来て、N先生思わず中へ。「ウイグル音楽で一番人気があるもの」とのリクエストを出すと、CDを掛けて聞かせてくれるから有難い。周囲には物珍しそうに人々が、「こっちの方がいいぞ」などとちゃちゃを入れながら、皆で聞く。
それから民族博物館へ。ところがその場所に博物館はなかった。あったのは大きなビル。中では和田(ホータン)の玉が売られていた。ここは玉の市場かな。新疆民街と書かれており、政府がここを10年前に整備したことは分かったが、その後博物館は閉鎖し、市場になったようだ。
玉と言えば、ホータンの玉の値段はどんどん上がっており、石炭などで巨額の富を得た漢族が高値で買っていくと言う。たった一つの玉を4000万元で売り、その金で市内中心にビルを買った、などという豪勢なエピソードも飛び出す。今や博物館など儲からない、といった雰囲気が漲る。とても残念なことだが、これが現実。
毛沢民
翌日は日曜日、夕方まで自由時間となる。N先生、M先生と街の探索に出た。M先生は実は歴史フェチ。タクシーで街の南にある八路軍新疆駐在事務所記念館へ向かう。ホテルからは30分ぐらい掛かった。突然道の脇にレンガ造りの独特な建物が出現。共産党の秘密基地といった雰囲気は全くないモダンな造り。
観光客でここを訪れる中国人はいないようだ。入り口のおじさんも暇そう。「写真は撮らないように」と言って中へ引っ込む。2階建ての建物に入ると意外と展示物が多い。新疆における共産党の歴史がきらびやかに書かれているが、恐らく当時は相当に大変な状態であったはずだ。
同時にここが同盟国ソ連との最前線になっており、何と初代の所長は陳雲。陳雲と言えば改革開放後、鄧小平に対峙した経済理論をもっていた人物。その後も共産党設立メンバーの一人陳潭秋が所長を務め、1942年に逮捕、翌年新疆軍閥の盛世才によって毛沢民・林基路らとともに殺されている。
毛沢民、毛沢東と一字違いのこの人物は実弟である。元々財務金融に明るかったのか、初代国家銀行総裁、経済部長などを務めていたが、1938年に新疆に派遣され、犠牲になっている。毛沢東はこの弟のことをどう思っていたのだろうか。
今の心境の情勢と当時の情勢は全く違っていたかもしれないが、漢民族である共産党がこの地に入り込み、そして制圧していく過程は1つのドラマかもしれない。毛沢民は華やかな共産党の勝利を見ることもなく、ましてや自分が毛沢東の弟して、飾られることなど想像すらしていなかっただろう。
夜、ホテルの部屋を移動した。元々の予約は今日からであったので、予約した部屋に移った。昨夜の騒動もあり、これでネットも繋がるだろうと期待していたが、何と部屋にケーブルが無いばかりか、ケーブルを繋ぐジャックすら見当たらない。またフロントに電話を掛けると、困った声で「没法子」と言う。一体どうなっているのか?
部屋に若いマネージャーがやって来て事情を説明される。そしてやって分かった。このホテルには元々僅か10部屋にしかネット設備が無いのだと。今時中国でこんなホテル、あるのだろうか??昨日の部屋に戻せと言った所で、今日は全室満員で移りようもないとのこと。何でそれを昨日言ってくれないのだ。
マネージャーも困った顔をしていた。彼が悪いんじゃないのだ。自分にそう言い聞かせて寝ようかと思った瞬間、彼が「PCを持って下に来てくれませんか」と小声で言う。何故?よく分からないが、着いて行くことにした。彼は私を1階フロントに案内し、フロントで使用していたPCからケーブルを抜き、「これを使って下さい」と差し出した。
呆気にとられたが、折角なのでPCに接続し、メールをチェック。こんな時に意外と大事なメールが入っており、助かった。夜中の人気のないロビーに背を向けてフロントに向き合い座る。何だかとても滑稽だが、ちょっと感動。
部屋に戻ろうと3階でエレベーターを降りると、何故かそこはカラオケ屋。受付の男女スタッフが私を見て「なんでそんな恰好でPC持っているんだ。PCよりカラオケだろう、この時間は」と笑いだす。私は初めて自分が短パンにTシャツの寝姿であることに気が付く。確かに真夜中にPCを持ってこの格好で歩く異邦人は滑稽以外の何物でもない。
そして一行は火焔山へ向かった。火焔山と言えば、西遊記が思い出される。山とは言いながら、かなり広い範囲を指すらしい。我々は一路、ベゼクリク千仏洞を目指した。山が傾斜する砂漠に見える。その空が広がる渓谷に千仏洞はあった。
この千仏洞は6世紀の高昌国の時代に作り始められ、9世紀に最盛期を迎えた。13世紀のイスラム侵攻により破壊されたが、現在いくつかの石窟が残っている。しかしその内部は19世紀末にやって来た外国探検隊に殆どをはぎ取られている。正直見学できるいくつかの石窟に入っても、どこに壁画が描かれているのか分からない。係員が下の方を指さし、足の部分だけが辛うじて見えた、と言った状態。また僅かに全景が見える壁画が薄く残っているのみ。
千仏洞の入り口にウイグル人と思われる老人が一人で楽器を弾いていた。その音色がこの風景のマッチしておりなかなか良い。顔も日焼けして如何にもこの辺りの人。音楽好きで大バザールでタンバリンを購入したN先生、老人に近づき、その音楽に合わせてリズムを取り、タンバリンを忘れたことを悔やむ。老人にチップを渡すと、何と「昴」を演奏してくれた。お客の国籍をちゃんと把握している。
外に出ると「火焔山」と書かれた石碑の横に駱駝が待機している。観光客を乗せて、斜面を登るようだ。まるで月の砂漠を想起させる景色。そして火焔山の中心に。トルファンでも最も暑い所であり、50度を超えることもしばしばとか。火焔の由来は砂岩の浸食によりできた山肌の赤とその形状。
そしてウルムチへ。帰りの道路に検問があった。以前は全員の身分証を確認するなど厳しいチェックがあったようだが、今回は運転手だけがチェックされ、後ろのトランクを開けることすらなかった。中国政府はウルムチ市の治安に問題が既に無いことを確認しているようだ。
第6回寺子屋チャイナを以下の日程で開催いたします。
今回は「中国の小売りと物流」といったテーマで
山田さんよりご報告を頂きます。
出席の方は「出席」とのご連絡を頂きたく、
お願いします。もし12名を超えた場合はウエイティングと
なりますので、早めにご連絡をお願いします。
terakoyachina@gmail.com
テーマ:「中国の小売りと物流」
講師: 山田 大人さん
開催日: 11月22日(火)19:30~
場所: 恵比寿
定員: 12名
会費: 2,000円
尚次々回は12月13日(火)に藤田圭子さんより
「世界のCSRの動向と、その中における中国の動き」
という題でお話頂く予定です。
寺子屋チャイナのご案内は以下のブログで見ることが出来ます。
また11月19日の寺子屋ティーサロン、26日のミニ読書会への
ご参加もお待ちしております。
既に午後3時、昼食場所へ向かう。J氏の教え子と言う男性が現れ、先導してくれる。先生はいいな、どこにでも教え子がいる。しかし教え子とは言っても堂々とした人。市政府に務めているらしい。
少し郊外の雰囲気のよいレストランに到着。観光客も外で待っている。中に入るとぶどう棚、その下に桟敷?があり、とてもいいムードで食事が出来そうだ。ところがどっこい、追い出される。何とラマダン中で昼間店はクローズ。期待は大きく裏切られる。
ようやく街中のレストランに入ったのは午後4時。しかし新疆時間ではまだ昼ごはん時間だった。地下へ降りていくと数組が食事中。我々のテーブルには薬缶で茶碗にお茶が配られる。冷たい物が飲みたい気分だが、それは仕方がない。ところがもう一つ薬缶が出て来た。白湯かな、と思っていると、冷たい。そして色はお茶のそれだが、何故か泡が立っている。N先生の目が輝いた。外国人待遇が得られたようだ。
腹が減っていたことはあるだろうが、ここのラグメンは本当に美味しかった。ニンジン、ピーマン、キュウリ、インゲンなどの具が程よく上に乗り、麺も細いがしっかりしていて、味わいが深い。思わず、お替り、というか日本のラーメンでいう替え玉を頼む。具は残しておいて、麺を追加する。いくらでも食べられそうな。
次に訪れたのが、トルファン市内から西に10㎞、交河城址であった。ここは2つの川の交わるところ、交通要衝の地であった。三蔵法師も訪れたと言う高昌国の隣。現存する城址は唐代以降のものだというが、見ると一面の廃墟。遮るものもまるで無し。今日はそれほど暑くはないと言われたが、それでも38度はある。何故なら夏のトルファンの昼間、38度を下回ることはないらしい。
しかもこの廃墟、説明文はどこにもない。行けども、行けども何もわからない廃墟を歩く。これは1つの修行ではないだろうか。いや、その昔三蔵法師はこのような砂漠を延々と歩いてインドへ行ったと言うことを我々に語っているのだろうか。
何事にも熱心なM先生を除き、皆かなりの疲労を覚え、出口へ向かう。まさに兵どもが夢のあと、といった感じだ。のどの渇きがすごい。この荒涼とした感じは如何にもシルクロードだが、直射日光と乾燥には耐えられない。砂漠を行くとは大変なことだ。
出口の所に博物館がある。中に入るとこの城址の由来その他が説明されており、初めて意味が分かる。我々は順番を間違えた様だ。先にここを見ておけば、あの暑さにも耐えられただろうか。いや、それはないだろう。
交河城とは我々には想像もできないし、現在見てもピンとは来ないが、陳舜臣氏によれば、「彫刻都市」なのだそうだ。交河というぐらいだから、2つの河に挟まれている。しかも20mの絶壁が城壁を作る必要性をなくしている。交河城は上から彫られた世界でも稀にみる都市なのである。上から彫られたと言えば、以前訪れたインドのエローラ石窟を思い出す。
実はトルファンには交河城址の他にもう一つ、高昌古城という場所がある。こちらの方が規模は大きいが、街は殆ど残っていない。理由として交河は日干し煉瓦を殆ど使っていないこと。農民は古い日干し煉瓦が肥料としてよいことを知っており、かなり掘り出して使ってしまったらしい。
尚高昌国は唐の時代、玄奘が立ち寄った場所。国王麴文泰は玄奘を気に入り、この国に留まるよう無理に要請。自ら給仕までしたらしい。天竺行きの使命を帯びる玄奘は4日間絶食し、対抗したという。結局1か月滞在し、国王はじめ300余人に講義をしたと言う。
当時高昌国は唐と突厥に挟まれて、苦しい立場にあった。王はこの難局打開の一つの方策として仏教の導入を進めたのかもしれない。結局麴文泰は玄奘が去って10年後には死を迎え、高昌国は唐に敗れて滅びる。唐は強国といえども、建国直後でまだ勢力が弱いと見ていたところ、それが誤りであったと言うことらしい。玄奘の「大唐西域記」には1か月も滞在したのに、高昌国のことは一言も触れられていないと言う。
交河城には高昌国滅亡後、唐の太宗により安西都護府が置かれ、唐は直接西域経営に乗り出した。玄奘はインドの帰路、この道を通らなかった。因みに後年マルコポーロも南道を通り、トルファンには立ち寄っていない。
180㎞、約2時間のドライブでトルファンに入る。先ず訪れたのが、カレーズ。カレーズとは地下水路のこと。イランでは「カナート」と呼ばれるらしい。トルファン名物のぶどう棚の下を通り、博物館へ。
博物館で一通り説明を見る。そしてそのまま地下へ。カレーズは新疆全体で1700本以上存在するが、トルファンだけで400本を超える。2000年の歴史を持ち、今でも一部農村では飲料、灌漑用水などとして使用されている。
この地下水路、2000年も前にどうやって作ったのだろうか。説明を読むと、勾配を利用していかなる動力も使わず、地下水を地上に組み上げていると言う。「トルファンの母なる川」と評されているが、それは本当にそうであろう。この水が農作物を育て、人々の生命を維持し、オアシスを繋いできたのである。
しかしなぜ地上ではなく地下だったのか。一つは極度の乾燥地帯であるため、地上では砂に水分を吸い取られること、もう一つは地表の塩分を吸った水は農業に適さなかったかららしい。この地区では富がたまれば水主になる、と言われていた。それ程水は重要だったのだ。水枯れはイコール滅亡である。
地下へ降りると、狭い空間があり、柵が施された僅かな合間に水が流れている。我々が狭いと感じるのであるから、この工事をした人々は大変な苦労をしただろう。治水とは命懸けであり、それほどまでに重要である。
上に上がると明るい陽射しに包まれて目がくらむ。外では民族衣装を着た女性がブドウジュースを販売。飲みたかったが・・。ウイグル人にとっては観光地でジュースなど飲みたくないだろうな。駐車場脇に水が流れている。見るときれいな水だ。思わず降りて手を洗う。少し冷たく、そして心が洗われるような気がした。