ここでもウイグル人にお世話になる。今回はお医者さんだった。日が落ちると市内中心部で食事をした。「ここは小さな街で」と言うが、本当に小さな街だった。小さな店に入り、シシカバブーを頬張り、ラグメンを食べる。既に常態化した美味しい夕食だ。
お医者さんは言う。「地域医療は本当に大変だ。昔に比べて病気になる人が増えている。医師の数は足りない。若者は皆都会に行ってしまう」どこかで聞いた光景である。少数民族も以前とは生活形態が変化し、それに対応できずに病になるのだろう。病の急増は体ばかりではなく、心にも及んでいる。経済が発展すると言うことが本当に人間にとって幸せか、との問いにはっきりした答えが出せない。
「日本にも行って見たいが、忙し過ぎる」というお医者さん、実にしっかりした人物である。聞けば、今日泊まっているホテルで明日地区の共産党会議が開催されるが、そこのメンバーでもある。本当に忙しい中、我々の為に食事を付き合ってくれていたのだ。「明日会いましょう」と言って早々に別れる。その後ろ姿に、疲れと諦めを見たのは私だけだろうか。
昨日は第4回サロンが開催され、韓国について、そして
世界について、為になるお話が聞けました。
サロンの模様は以下のHPにアップしました。
http://hkchazhuang.ciao.jp/
中国及びアジアをもっと知ろう、ということで、
ゲストをお招きしてお話を聞く「寺子屋ティーサロン」。
第5回は主宰者自身が今年のアジアを旅を総括します。
2011年に訪ねたカンボジア、中国、台湾、インド、タイ、
ベトナム、バングラディシュに関して、実際に行って見えてきた
何かをお伝えできればと思います。
尚サロン主宰者は来年1月中旬より5月中旬まで香港に滞在し、
返還15周年を迎える香港の今を見て来る予定です。
従いまして、来年このサロンは原則開かれないと思いますので、
この機会に皆さん、是非ご参加ください。
・日時 12月10日(土)午後2-4時半
・場所 恵比寿
・発表者 須賀 努(アジアンウオッチャー)
・演題 「アジア各国最新事情」
・参加人数 12名まで(参加受け付けは先着順)
・参加費用 2,000円
ご参加可能な方は早めにご連絡ください。お待ちしております。
今後この案内が不要な方もご連絡ください。
須賀 努
http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/ (寺子屋チャイナ)
http://hkchazhuang.ciao.jp/ (茶旅)
sugatsutomu@nifty.com (アドレス)
(1) 西へ西へ流れ行く
石河子を出発し、一路西へ針路を取る。今日は博楽まで350㎞。いよいよ過酷な車の旅が始まった。昼からお酒を飲んでしまったこともあり、いい気持ちでバスに乗る。天気は上々、空も青い。
片道2車線の高速道路をスイスイ走る。途中路肩に大量のトラックが停まっていた。聞けば、トラックは日中、この道を走ることが出来ないと言う。確かにトラックがいないので、走りやすい。トラックの荷台に目をやるとものすごい数のトマトが積みこまれて、動き出すのを待っていた。このトマトがラグメンの具になるかと思うと、さっき食事をしたばかりなのに、腹が減る。それ程に美味しそうに見えるトマトであった。
道の脇に時々表示が出ている。第XX兵団、この付近も多くは兵団の開拓地のようだ。石河子は大きな街であったが、多くの兵団員は、更に奥地の未開の地を開拓していったのだろうか。そしてそこには少数民族は住んでいなかったのだろうか。バスから眺める限り、何一つ分からない。
ちょうど中間ぐらいでトイレ休憩があった。運転手は他のドライバーと言葉を交わす。どうやらこの先の道路事情を聞いているようだ。こんなにきれいな道路があるのだから、情報など要らなそうに見えるが、そこは昔の伝統か。いや、博楽市はこの幹線から外れた場所にあり、情報は重要だった。
右側に列車の線路が見えたと思ったら、長い長い貨物列車がバスと並行して走っている。この列車は一体どこへ行こうとしているのだろうか。一体何を運んでいるのか。我々もこの列車も何だか、流れに任せて西へ西へ流れていくようだ。
夕方ようやく博楽市に着いた。夕陽が見事に傾いていた。街の外れの立派なホテルにチェックインした。
(3) 日本人の寄付で出来たジュース
翌日は朝から石河子の招商局へ行き、当地の企業誘致状況を聞く。日系企業の進出はないとの事であったが、何故か「神内」と言う日本的な名前が飛び出す。10数年前、この地を訪れた日本人、神内良一という人が、この地に寄付をして、石河子大学との共同研究を開始。結果として当地で取れるニンジンや桃を使ったジュースが出来上がったと言う。試飲してみたが、なかなか美味しかった。
この興味深い日本人は誰なのか?帰国後ネット検索すると神内良一氏とは消費者金融「プロミス」の創業者、とある。東証一部の上場を果たした翌年1997年に、ご自身は金融から農業へシフトしたとあるから、その頃、何かのご縁でここへ来て農業関連事業に寄付を出したのだろうか。その事業が今も根付いている所が面白いし、素晴らしい。
もう一つ面白いと思ったのは、石河子大学。正直この田舎の大学の研究レベルはどんなものだろうかと思ったが、聞けば、ここは新疆ウイグル自治区でウルムチ大学と並ぶ、全国重点大学。北京大学などから教授が送り込まれ、レベルは相当に高いと言う。これは石河子と言う街が共産党にとって、いかに重要な場所かということを端的に表している。
そして今回我々の案内を買って出てくれた招商局の若者は実は山東省の出身。ウルムチ財経大学で修士を出た後、内地に帰ることをせずに、石河子市に就職した。「内地にチャンスはない。ここはいいですよ」と言い切り、既に住宅も購入、彼女も出来たとのこと。中国は広い、沿海部だけが良いのではない、ということを感じさせる彼であった。
因みに昼は女性招商局長を交えて大宴会となる。彼は飲めないお酒をがむしゃらに飲み、へべれけに酔い、それでも我々のアテンドを続け、最後に我々がバスに乗り込むと、その場にへたり込んでしまった。こんな若者、昔いたような。実に懐かしさを感じさせる漢族の街、それが石河子であった。
博物館に向かう。新疆兵団軍墾博物館。新疆兵団とは、日本では馴染みがないが、建国後、新疆での治安維持と開拓を進めるべく、組織された日本でいう屯田兵制度。軍の兵士が帰農し、国境などで変事があれば兵となる。この複雑な国際環境を持つ新疆で、特に建国直後は様々な問題があったであろうから、兵団の意味は大きい。同時に未開の地に、鍬を入れ、開拓した土地もかなりに達している。現在兵団の規模は相当数に達しており、兵団イコール街という図式となっている。
一方ウイグル族など少数民族から見えれば、共産党や兵団が有望な土地を取り上げて開拓した、と見るかもしれない。ある意味ではウイグル族にとっては自分の土地でも、漢族から見えれば未開の土地、という場所が多かったのかもしれない。
この博物館にその歴史がかなり多く展示されており、一般的な博物館より遥かに見ごたえがある。特に何度も起こった少数民族の反乱の歴史が漢民族の立場から語られている。また現在民主活動家として物議を醸しだしている艾未未とその父、詩人の艾青がこの地の労働改造所に送られていたことなども展示されている。
石河子がなぜ80年代の中国の街に見えるか、それはこの街が50年代の人工的に兵団によって作られ、そのままの状態を維持しているからであろう。ある意味では発展から取り残された革命の地、といった雰囲気である。
夏休みということもあり、多くの見学者が押し掛けてきており、入場制限がされていたほど。新疆観光の一つとして、石河子と新疆兵団は一般民衆にとっても欠かせない所らしい。と言っても石河子に宿泊することはなく、バスで通りがてらに立ち寄るだけ。
夜市に行って見た。これまたひどく懐かしい。まるで台湾の夜市と言った雰囲気もあり、娯楽が少ない当地では、相当の人出もある。薄暗い露店では、怪しげな物を売っていたり、親子連れがのんびりと夜景を眺めていたり。
2.石河子 (1)石河子は80年代の中国
翌日午前中はウルムチ市内の企業を3社回り、そのままウルムチを後にする。いよいよ新疆北路を行く、旅が始まった。この1週間は、小型バスを借り切り、J氏、S氏、そして運転手さんと共に旅を続けることになる。
道は真っ直ぐ西へ延びている。本日の目的地は150㎞離れた石河子市。何でこの街へ行くのだろうか。私は事前に各訪問地に関して何の予備知識も与えられてはいなかった。それが良いと思って敢えて聞くこともなかった。
片道2車線の高速道路をバスは疾走する。周囲の風景は原野、といった様相で、砂漠でもなく、耕地でもない。シルクロードと言うイメージからも少し離れている。双方向共に車は多くない。
少し緑が出て来た。水田が見える。空も青い。もうすぐ石河子市だと言う。都市の周囲に緑があるのは、オアシス。やはりここにはシルクロードのイメージがある。2時間弱で市内に入る。街は大きくはないがゆったりしている。どこかで見たような・・。
この風景を説明することは難しいのだが、何となくこの街には昔の中国の街のにおいがする。80年代、私が留学していた頃に旅した都市の香りがする。何故かはわからない。そんなことを考えていると、ホテルに到着。
ホテルの周囲も昔の雰囲気だった。冷たいコーラでも買おうと思って歩いたが、冷蔵庫があっても電源が入っていない。店の人もゆったりと構えていた。子供たちが楽しそうに遊んでいる。実に不思議な街だ。
午後はウルムチ市の経済開発区、開発区内企業を訪問。色々と参考になる話があった。尚日系企業の姿はここにはなかった。
実はこの先、新疆北路の旅を終えると、私一人は皆さんと別れて、青海省西寧市へ行くことになっている。全省制覇まであと2つ。いまだ未踏の青海省にはこの機会に行っておこうと思う。幸い元部下の知り合いが西寧に滞在しており、面倒を見てくれることが決定。フライトを取る必要が出て来た。
元々ウルムチ→西寧は一日2本程度しかなく、便がタイトだと聞く。その為、ホテルに入っている旅行社へ行き、急ぎ押さえる。お姐さんが丁寧に調べてくれ、何とか20日の夜便を買う。この時期割引はなく、結構高い。支払いも現金決済。横には札束を握りしめた地元のオッチャン2人が真剣にフライトを探している。高度成長期の雰囲気がある。そして西寧から北京に戻るフライトを聞くと、「夜中の12時に到着する便しかない。まだ十分席はあるから、どうするか考えてから買え」と言われる。確かに北京に夜中到着はきつい。
ところが翌日ネットでこのフライトを検索すると既にすべて売り切れており、22日に北京に戻る便の席は全くなくなっていた。一瞬唖然となる。23日の午後便で東京へ戻らないと、ノービザ期間の15日を過ぎてしまい、オーバーステイとなる。これは何とか避けたい。西寧は諦めて、ウルムチから北京に戻るか。
シートリップ(携程)という旅行サイトを眺めながら、思わず電話をする。事情を説明すると「直行便は満席ですが、西安経由でどうですか、ちょうどいいのがありますよ」と言うではないか。そうか、経由便は思い付かなかった。海外クレジットカードの決済も電話で出来た。料金も西安経由には割引があり、安く上がったし、時間も夕飯頃には北京に着いていた。中国語が出来ることが前提だが、便利になった物だ。既に現金を握りしめて旅行社へ行く時代ではない。
(5) 学院長は36歳
翌朝はJ氏やS氏が所属する新疆某大学にお邪魔した。同大学は1950年に党の幹部学校として設立され、現在は数校が合併、学生数3万人という大きな大学になっている。校内に案内されると流石に広い。立派なグランドは市の競技施設並み。そして学校の北側にはだだっ広い公園があり、これも学校の敷地だと言われて驚く。
経済学院のG学院長と面談。中国の大学は学院毎に分かれており、日本でいえばちょっと違うが学院長は学部長か。いや、学院毎に独立採算性、独自性が求められる中国では、経営者と言えるのではないか。そのG氏、僅か36歳でこのポストに就いた。これはこの大学でも異例らしい。全国の優秀教師にも選ばれている。確かに話し方はしっかりしているし、中国の幹部教育を受けた人、というイメージが強い。勿論漢族である。
大学の校舎内に張り出された紙。よく見ると、漢族とウイグル族の学生が喧嘩したようで、その処分が張られていた。双方ともに退学処分だったが、それが公平な裁きであるかどうかは、部外者には全く分からないが、新疆の複雑さの一端を見る。
学内に大学を紹介する展示室があった。日本の大学にはこのような場所があっただろうか。そこには大学の歴史が書かれていたが、海外の大学で最も早く提携したのは実は日本のA大学であると、式典の写真も掲示されていた。日本は80年代、その経済的な優位性を生かして、様々な活動を行ってきた。しかし経済低迷の今、その多くが忘れ去られている。一方中国では現在経済優先社会となっているが、それでも昔のことを忘れない姿勢はある。日中の基本的な姿勢の違いがすれ違いを生む場合もあると感じる。
夜はJ氏に連れられて、ウルムチの高級レストランへ。ここではウルムチの音楽や踊りが見られると言う。まだ陽が高い7時に到着、続々と観光客が集まってきて、徐々に盛り上がっていく。中国人の団体客が多い。我々は既に慣れた手つきで最初に出て来るスイカを食べながら、ビールを飲む。
ショーは意外に早く始まった。歌あり、踊りあり、楽器ありのエンターテイナーショー。結構迫力があり、面白い。子供の雑技なども披露される。途中から、皆さん踊りましょうと言うことで、フロアーで踊る。我々のテーブルでも遅れて来たN嬢とS氏夫人が大活躍。まるで西洋のようにカップルでフロアーに出ていき、見事に踊る。これは幼少期から事あるごとに踊る習慣があるウイグル族ならでは。N嬢いわく、「ウイグル人なら誰でも踊れます」、凄い。
同時にテーブルには羊から魚まで数々の料理が並んでいる。ビールの後は持ち込んだ白酒を2本開け、大宴会となっていた。まさに飲めや歌えや踊れや、でこれも凄い。飛行機が遅れて途中から登場したN所長などは、訳も分からずこの宴会に巻き込まれ、あわや倒れる寸前に。それにしても全員がしたたか酔い、踊り、実に楽しい宴会であった。新疆の底力を見た気がした。