11月5日(月) ホテルの庭でブレックファースト
翌朝はホテルの庭でブレックファースト。このためにこのホテルに泊まった訳だが、予想通り気持ちの良い朝となった。風が吹き抜ける、木々がかすかに揺れる。こういう環境で食事をするのは良いものだ。フランスパンにオムレツ、フルーツ、十分だな、これで。
このホテルにはスペイン人やドイツ人が泊まっていた。彼らは朝から賑やかに食べていた。それもまた良し。日本人と思われるオジサンが一人で新聞を広げている。それもまた良し。皆さん、思い思いの時間を過ごしている。
街に散歩に出た。今回はバトゥサイすら行っていなかった。だが歩き出すと意外と暑い。更には大きな道を歩いていると、先導車両に導かれて、各国代表団の車が続々と続いている。今日はASEMの開幕だ。あんまりウロウロしているのも何かと思い、旧市内の細い街などを歩く。
因みに野田首相は何故かこの小さなビエンチャンという街に3泊もするらしい。一体何をするためだろうか。日本から大勢の報道陣が来ているが、彼らの狙いもASEMではない。野田さんが衆議院を解散するのか、の1点に集中している。折角ビエンチャンまで来て、国内政局とは?一方温家宝総理は、3日後に5年に一度の共産党大会を控えていたが、1泊でやって来てパフォーマンスを繰り返していた。これが今の日中の東南アジア外交であろう。
昼はおしゃれないカフェで頂く。豪勢なランチプレート、ちょっとお金があれば、ビエンチャン生活は優雅かも知れない。コーヒーも美味しい。日本の報道関係者と思われる4人連れが入って来た。何だか少し雰囲気が壊れた。
インタビュー
そして再度学校に戻った。何と子供達にインタビューする機会を与えてくれた。子供たちは口々に言った。「ここに来られて幸せです」と。有名な歌手であり、ラジオのDJ、そしてミスビエンチャンでもある憧れのノイに会うだけでも幸せなのに、自分たちのことを心配し、一緒に歌ったり踊ったりしてくれる。そして自分達に自信がついてくる。昨晩の大舞台も相当緊張したが、楽しかった、嬉しかったという。ノイに対する感謝を口にする彼ら彼女ら。その声には「自分を理解してくれる人がいる」という喜びがあるようだ。
スタッフにも話を聞いてみた。やはり「子供達の成長が実感できる喜び」が大きいようだ。この学校は決して皆に支持されている訳ではない。誤解している人も多いという。そんな逆風の下でも支援できるのは、子供がそれを必要としているからだろう。生まれ落ち時、決して恵まれていなかった子らが、頑張っている姿は素晴らしいとも言う。
こどもの親はどうだろうか。「昨晩の舞台を見て、一家で泣きました。あの引っ込み思案で何もできないと思っていた子が、あんなに大勢の人の前で堂々と大きな声を出していた。信じられない。喜びで胸が張り裂けそうだった」とあるお母さんが言う。そして「生まれた時に障害があると分かると、誰もこの子を理解できなかった。最初はこの学校に連れて来るのも父親は反対した。諦めていたんです。でも・・・、無理して連れて来てよかった」と。
更には「この学校にはとても感謝しているが、自分達には支援するだけの余裕はありません。何とか寄宿舎を作ってくれれば、自分の子供も楽になるし、他の障害児たちの助けになると思います」と支援への期待を話す。
コラム: http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5327
既に日が沈んでいた。自分は無力だな、と思いながら、ノイの学校を後にした。
ノイの学校
学校はかなり立派になっていた。3階建てで屋上まである。屋上にはステージまであって、そこに集合した。子供達が現在の生活や学校の状況を説明してくれた。驚いたことに多くの子供達がかなり遠くから、しかも通常の学校が終わってから通ってきていた。ノイは言っていた。「どうしても寄宿舎付きの学校が欲しい」、その通りだと思う。障害のある子が遠くからやってくる、その困難さと必要さが痛感された。
ノイを支えているお坊さんたちも話をしてくれた。このような活動は一人ではできない。支えが必要だ。そこにお坊さんがいる、これも今や日本には既にない。羨ましいほどの信頼関係、フレッシュな若いお坊さんたち、いいな。
1階でお坊さんたちの祈祷があり、セレモニーがあった。昨日の緊張感とは打って変わった晴れやかなパフォーマンスだった。やがてみんなで踊り出す。ゲストも誘われ、踊り出す。面白い。
実はここには日本人以外にもノイの支援者として、シンガポール、マレーシアの実業家、タイのボランティア青年なども来ていた。彼女の活動は他の東南アジアの人々にも受け入れられている。特にタイの青年たちは黙々と裏方を務めていた。実にシャイ。好ましい。私はシンガポール、マレーシアの華人たちと中国語で会話していた。彼らも日本人と中国語を話す機会は少ないようで好奇心を持っていた。
そしてお開きに。実はそれまで私はノイに挨拶していなかった。彼女は忙し過ぎたのだ。最後に挨拶すると「ちょっと待って」と言って、私を彼女の車に押し込んだ。日本人支援者達もミニバスで同じ方向へ向かう。車内で彼女は最近の状況を説明し始める。どうしても200人以上が入る新しい学校が必要だ、と力説した。
そして何と新学校建設予定地に案内された。ここはお母さんの土地だという。私財を投げうち、プロジェクトを進めようとしている。そのパワーはすごい。子供達の機能が向上していく喜び、これは何物にも代えがたいようだ。誰か支援してくれる人を探さなければならない。
(3月29日) 九龍城のお茶会と上環街市の日本食飲み会
本日はイースター初日。昨日大阪から戻り、疲れが少々。歳のせいか、それとも日本が合わないのか。DBからバスでいつものようにサニーベイへ。サニーベイ駅前は全く何もない場所。そこに大勢の人々がバス待ちしており驚く。どうらやDBにハイキングへでも行くようだ。天気は大丈夫か。それにしても香港人のハイキング好き、凄いな。
MTRで旺角まで行き、そこからミニバスで10分。九龍城は意外と近いが、駐在時代は殆ど足を踏み入れることもなく、上環ばかり行っていた。ここも昔ながらの香港を少し留めており、本日の茶会会場である茗香茶荘も50年の業歴を誇っている。この奥の部屋を借りて、6名(+子供2名)の参加者を得、久しぶりの香港茶会を開催した。
参加者は全て女性。3人は10年前の私の香港茶会の時から参加頂いていたが、3人は初参加。何と6人中5人が香港在住15-20年というベテラン。永住組もいる。それでも殆どの人が九龍城には滅多に来ないというし、このお茶屋さんの存在も知られていない。香港は狭いようで、まだまだ広い。見る所も沢山ある。
お茶は手持ちの、白茶、鉄観音、大紅袍と飲んでいき、ダージリンの紅茶でアクセントをつけ?茗香茶荘の観音茶王を賞味し、プーアール茶で締めくくった。あまりお茶の話はせず、ゆっくりとリラックスした状態で、世間話に終始した。会場が広く、静かだったことも良かったと思う。店の奥の焙煎場も見学し、あっと言う間に3時間は過ぎてしまった。
それからミニバスで旺角、MTRで上環へ出て、街市へ行く。ここには以前も紹介した日本食屋さん「家和」がある( http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4914 )。ランチは行ったことがあったが、夜はお客さんが少ないとのことで、有志を募り、飲み会をしてみた。街市の日本食屋さんで飲み会をする、それだけでネタになる。
勿論街市は閉まっていたが、食堂は空いており、意外や人が来て食事していた。我が家和にも常連さんの日本人、香港人が来店、テーブルで酒を飲み、日本食を堪能していた。料理は全て老板にお任せした。一体どんな料理が出るのか。酒はビールで始まり、Nさん差し入れのワインを飲み、焼酎まで開けてしまった。
料理はマカロニサラダに始まり、蟹は出るは、何と立派な刺身盛り合わせも登場。ごぼうの天ぷらもお酒に合っていた。煮魚もなかなか。そして野菜が足りないというと、隣の店から通菜炒めを調達できる手軽さ。最後は酔っぱらってしまい、写真も殆ど撮っていなかった、残念。
街市という特殊な状況下で、このような日本食を食べられるなんて、これは本当にレアな体験だった。因みに料金も激安で。また飲み会を企画したくなった。
迷子になる
6年前に訪ねたノイの学校。その時は車で連れて行ってもらったので、うっすらとしか記憶がない。バーンタオ氏からもらった住所を頼りに歩く。ホテルで聞いても、主な目印だけを教えられ、後はそこで聞くしかないと言われていた。
厳戒態勢の大通りから一歩入ると、そこは田舎の風景。のんびりと歩いて行き、その辺の店で聞いてみたが、要領を得ない。また別の道を行く。どうしても思い当たる風景に出合わない。約束時間は2時。かなり余裕を持って出たものの、時間はどんどん過ぎていく。流石に焦りが出る。
1軒の店の女性は英語が出来たので話を聞くと「この村は広いのよ。これだけの情報ではとても行き着けない」と電話してくれたが、何とその電話番号は既に使われていなかった。一体どうなっているんだ。最後の手段として、今回日本からの一団を率いているYさんの携帯に電話するも誰も出なかった。これで完全に道は絶たれた。途方に暮れる、とはこのことだ。
やはり最初からタクシーに乗ってくれば良かった、と思っていると、何故か目の前にタクシーがやって来たので乗り込み、また住所を差し出してみる。運転手も携帯でどこかへ問い合わせてくれたが、首を振り、万策尽きる。取り敢えずホテルへ帰って出直すか、と車が動き出した瞬間、携帯が鳴る。Yさんからだった。後は運転手が場所を聞き、連れていってくれた。私が思っていたのとは全く違う場所だった。何と学校の場所は移転していたのだ。やはりご縁のある時は辿り着くものだ。ただ私の行動は無謀過ぎたかもしれない。
11月4日(日) ホテル移動
興奮冷めやらぬ翌日。今日はノイの学校を訪ねる予定になっていた。だが今日からASEMのデレゲーションがビエンチャン入り。野田首相も温家宝総理もやってくる。ということで、狭いビエンチャンは大騒ぎ。ホテルはどこも満室で、私の泊まっているホテルでも、今晩の宿泊は断られてしまった。そこで、最近ビエンチャンの行った台北のHさん情報で、「きれいな庭で朝ごはんが食べられるプチホテル」に移動することとなった。ここは文化会館を挟んで反対側。歩いて移動する。
確かに庭は素晴らしい。だが部屋はこれまでよりかなり劣った。ASEMメンバーもここまでは来なかったわけだ。明日バンコックに戻る方法を相談したが、何故か要領を得ない。結局分かったことは、「ホテルで頼むと手数料が高いから自分でやった方が良い」ということ。なかなか親切だった。
街に出る。河沿いを歩いていると、先日発見できなかった遼寧餃子館があった。場所を移転していたのだ。店には中国語が出来るウエートレスが一人いた。水餃子と野菜炒めを頼む。中国人観光客も来るようだが、お客は地元の華人が多いとか。バンコックの店の関連などを尋ねたが、オーナーしか分から無いとのことだった。
再び空港への道へ出る。今日は昨日と異なり、30mおきに兵士が銃を持って警備に当たっていた。もうすぐ野田首相がここを通るらしい。何だか北京の警戒態勢を思い出すが、暑いせいか椅子に座っている人もいて、まだまだのんびりしていた。
3.ノイプロジェクト 大発表会
夜はホテル近くにある文化会館へ行く。日本の某自治体の人々がノイを訪ねる。ところがノイは仕掛けていた。ただの交流ではなく、子供達が舞台に立つ一大イベントに仕上げてしまったのだ。それも訪問者には全く知らせることもなく。前日街を歩いていると、ノイの仕掛けたイベントの宣伝が張られていた。これは単に日本人の為のイベントではない。どうなるんだろうか、何だかワクワクする。
文化会館は実に立派な建物だった。2001年、中国の支援で建造されたとある。こういう所がしっかりと目立つ。中に入ると人が集まり始めている。その中に日本人の一団がいて、合流する。私は全く無関係だと思っていたが、何とその一団は私が通った学校のあった場所から来ていた。中にはその学校の先生だった人のお姉さんまで居た。やはりご縁はある、ということで溶け込む。
会場は広い、1000人以上は入れるだろう。そこに徐々に人が入り、席が埋まって行く。だが定刻が過ぎても始まる気配はない。その内に元大臣の一団が登場し、メイン席に座る。それから大分経って幕が開いたから、中では色々とあったのではないか。
そしていよいよパフォーマンスが始まる。初めはラオスの民謡、そしてお祈りなどもあった。歌って、踊って。それはとても障害を持つ子供達のものとは思えなかった。ノイを中心に、数歳から十数歳までの子達が、一生懸命歌う、踊る。これにはちょっと感動した。こんな大きな舞台で、普通の子でも上手く出来ないことが多いだろうに。いや、この舞台に立ってしまえば、障害も何も関係がない、ということだろう。「音楽と踊りで障害を克服する」、ノイのアイデアは確実に成果を上げていた。
初めは1時間ぐらいかと思っていたが、様々な出し物があり、何と終わったのは10時近かった。最初の予定も大幅にオーバーしていた。それでも子供達は溌剌としていた。ノイの活動が向上していることが十分に分かった。
中国市場
更に空港の方向に歩いて行く。茶館の北には中国市場という中国製品の市場があるが、空港近くに新たに新中国市場が出来たらしい。歩くと結構あるが、途中には中国料理屋の看板がいくつか見えた。中国人の流入がかなり多いことが分かる。また建材屋などの看板には大きな文字で漢字が書かれている。Mさんによれば、政府はあまり漢字の看板が目立つのを良く思っていないようだが、商売上必要があればやむを得ない。それ程、中国の影響力が強まっているということだろうか。
かなり空港に近い場所に新市場はあった。規模は相当に大きい。だが、人は殆ど歩いていなかった。そして店舗も埋まっていなかった。看板には「昆明、南寧、広州⇔ビエンチャン」という表示があり、バスなどで繋がっていることは分かる。
店舗には中国製の雑貨類が多く置かれていた。傘やビニールなど中国製品はアジアで最も安くて質もまあまあ。ラオスのような国にはドーッと商品が流れ込んでいる。中国の存在感は道路や橋などの経済支援と、このような日用品の両面からなされている。
三江国際商場と書かれた大きな建物もあった。中に入ると驚いたことにラオスの民族衣装から日本人形まで並んでいた。中国は何でも作っているという印象と同時に何故ラオスに持ち込まれているのか、実に不思議であった。
帰りは川沿いを歩いてきた。まだ日が高かったが、西に傾く様子はなかなか良かった。近所の子供達が屈託なく遊んでいた。
(3月17日) ラマ島ハイキング
本日は懐かしいラマ島にハイキングに出掛けた。メンバーはヨットマンでラマ島見学を希望したWさんと27年前一緒に上海に留学していたHさん。Hさんは先週香港に赴任してきたばかり。以前香港に住んでシンセンで勤務した経験があるが、ラマ島には来たことはなかったという。
セントラルのフェリーターミナルで待ち合わせ。昨年私はいつも榕樹湾行きフェリーに乗っていたが、今回は島の南側にあるもう一つのターミナル、索罟湾へ行き、そこからハイキングして榕樹湾から戻ることにした。フェリーは日曜日28ドルと通常より高いが、それでもDBの33ドルより安い。乗客は海鮮を食べに行く、またはハイキングに行く香港人でほぼ満員。我々は何とか2階の一番後ろの席を確保し、風に吹かれながら船旅を楽しむ。
索罟湾は相変わらず鄙びた場所であった。ターミナル付近のいくつかのレストランを除けば、後はあまり人も住んでいない場所。日本人はここのレインボーというレストランに海鮮を食べに来るケースが多く、索罟湾=ラマ島だと思っている人も多いが、それは間違いだ。
索罟湾から歩き出す。直ぐに日本兵が占拠していた洞窟がある。その先からは上りとなり、ハイキングらしくなる。日差しが無く、絶好のハイキング日和に皆、一様に「ラマ島はいい」という。更には蘆鬚城というビーチに降りていくと、人は殆どいないプライベート状態。バーベキュー施設も完備しており、Wさんは「ここまで船で来てバーベキューしよう」と言い出す。小型のヨットなら可能らしい。
それからおおむね上りが続き、ハイキングが続く。徐々にすれ違う人が増える。彼らは榕樹湾から来ているようだ。普通話も聞こえてくる。欧米人、インド系の顔も見える。皆、狭い香港で日頃のうっぷんを晴らすように楽しげに歩いている。
小1時間も歩いただろうか、懐かしの洪聖爺湾ビーチが見えてきた。前には相変わらず発電所の3本の煙突も見える。ここは私が昨年1-4月の間、暮らした場所。水もきれいで海に足を入れる観光客もいる。住んでいたビーチ裏に家は今も空家のようだ。大自然と生きる、という生活には色々と思い出がある。
ビーチ前のハーブ園にも観光客が多く訪れていた。午前中は曇りだったが、晴れ間ものぞき、ハイキング客などが相当に増えてきたようだ。ビーチ近くのトイレも売店も変わりがなかった。この島は基本的に変わっていない。
それから昨年毎日通った25分のハイキングコースを行く。途中発電所近くへ寄り道して、ボート置き場などを見学。そして元の道に戻った所で、ばったり知り合いに会う。昨年私の島暮らしをサポートしてくれた林さんの弟さん。シャイだが、いつも気に掛けてくれていた人。突然の出会いにも、「おお」と普段と変わらない挨拶。いいもんだ。
フェリーターミナル付近も昨年と変わりがなかった。1つ2つレストランが潰れていた以外は。いつものレストランへ行くと既に点心が終了していたので、もう一つの店へ。午後2時頃だが、どこの店も混んでいる。ビールを飲んで疲れを癒す。何だか気分が良くなる。最後はフェリーの時間を間違え、30分ほど待つ羽目に。それもまた楽しい。
Hさんは毎週ハイキングしたい、と言っていた。私も住んでいた時は常にハイキングだったので、気が付かなかったが、これは実によい運動で、ストレス解消にもなる。とてもお勧めの健康法だ。