11月3日(土) Mさん
翌日ホテルで朝ごはんを食べ、午前中は部屋でネットを触って過ごす。私は常に旅をしているので、旅先と言えども時々メール処理や原稿を書く時間が必要である。その場合、その環境で処理能力が大きく異なる。今回はどんどん処理が進む。嬉しい。
あっと言う間にお昼になる。外は日差しが強い。ホテルロビーでMさんが待っていた。彼はビエンチャン在住10年の日本人。この街では貴重な日本人だろう。色々とビエンチャン事情を聴く。ビエンチャンも旧市内は保存地区のような状況だが、郊外には新しいビルが建っており、それなりに発展しているようだ。中国からの投資も活発だが、ラオス政府は支援は貰うものの、ベトナム、タイとの関係、更にはアメリカも含めて、上手い外交のかじ取りを迫られている。今回開かれるASEMがその舞台になるだろう(Mさんも日本のマスコミの取材に付き合うため、明日からは忙しいようだ)。
ホテル近くのフランス料理屋でピザなどを食べる。フランスパンが美味しい。ビエンチャンと言えば、安くて美味しいフレンチのイメージもある。緑茶を頼んだが、ティバッグ。かなり薄めの雰囲気がフランス人的には良いようだ。ここに住んでしまうと、バンコックなどガチャガチャした街は落ち着かないだろうなと思う。
茶館
Mさんに教えられた中国茶館へ行って見る。ここは旧市内の外れ、空港から市内への大きな道沿いに面している。看板に漢字もあり、期待が持てる。店内にはお茶道具もあり、本格的な茶館のイメージがある。
だが、基本的にお茶だけを飲みに来る人は稀で、中国料理を食べるレストランであるようだ。茶葉は台湾産などと書かれた物があり、オーナーは台湾人だと聞かされるも、彼女は今ビエンチャンには居ないとのこと。片言の英語しか通じずに(中国語は出来ない)、あまり意味のある会話にはならなかった。
ラオスで一般の人が飲むお茶は、コーヒーを飲む場所でポットに入っている渋めの緑茶(無料)ぐらい。なかなか商売は難しいだろうが、この店は道楽なのだろうか。
焼き鳥
その後、旧市内を歩き回ったが、6年前と殆ど変化が無かった。アジアの各都市、特に首都はプノンペン、ヤンゴンなどどこも大きな変化を遂げているが、ここビエンチャンは違っていた。これはどうしたことだろうか。欧米人の観光客に混ざり、中国人や韓国人も見られるが、その数も多いとは言い難い。
ホテルに戻り、ベッドの横になると、そのまま寝入ってしまった。夜行列車の疲れはかなりあったのだ。ここは癒しの空間というやつだろうか。すっかり辺りが暗くなるまで熟睡した。
夕飯を食べようと外へ出た。爽やかな風が吹いて気持ちが良い。あまりお腹が空いてはいなかったので、麺を食べる。その辺の食堂に入り、「メン」というと麺が出てくる。これはタイ、カンボジア、ラオスどこでも共通で実に都合がよい。家族経営のようで何となく微笑ましい。
それにしてもビエンチャンの夜は暗い。街を歩いていても、相当昔のアジアのイメージがある。所々にきれいなバー屋カフェが見えるが、欧米人向けだろう。何とも素朴な街だと言える。河沿いも観光客が歩いているが、やはり暗い。
フードコートのような場所があり、店先で鶏を焼いていた。ビエンチャンと言えば、ガイヤーンを思い出し、そうすると何故か無性に食べたくなる。ここにはフランス人のオジサンがおり、欧米人に愛想を振りまく。私はビールも飲まず、ひたすら立派な、そしてジューシーな焼き鳥を頬張る。実に幸せな夜となった。
2.ビエンチャン 居心地の良いホテル
2人は適当な所で降りてしまった。私はトゥクトゥクの運転手に予約したホテルの住所を渡していたが、彼もよく分からないようで、その辺で降ろされる。まあ、まだ昼間だし良いか。すると運転手が、看板を指す。言われた方を曲がるとその路地にプチホテルがあった。
かなりきれいなホテルで驚く。土足厳禁。フロントの対応も実に丁寧。1泊35ドル、朝食付き。これは当たりのホテルだ。2階の部屋も広く、ベッドも大きく、シックな雰囲気。WIFIも繋がる。これは快適だ。夜行の疲れが出て、暫し横になる。
このホテル、実に心地よい何かがある。夜も静かだし、翌朝も鳥の囀りで起き、朝食も美味しかった。ロビーのソファーにボーっと座っていると、完全に時を忘れてしまう。ラオスの時間はこのように流れる。
外に出ると日差しが強かった。取り敢えず腹が減ったので、ランチへ。地図で見ると遼寧餃子館という文字があり、そこへ向かう。このお店、恐らくはバンコックにある餃子屋の支店だろう。中国系であることは間違いなく、ビエンチャンを知る取っ掛かりになると思った。
だが、いくら探してもその店は無かった。ようやく看板を見付けたが、店は移転したらしかった。ところがその文字が読めない。完全に手掛かりを失った。仕方なく、その辺で鶏ご飯を食べた。これも安くて美味かった。6年前にガイドといった店に雰囲気がとても似ていた。
たった15分の国際列車
乗客は待ちかねたように急いで降りていった。隣の爺さんも笑顔で出て行った。そして殆どの人が駅の外へ足早に出る。そこからトゥクトゥクに乗って国境を越えるらしい。私は周囲を見渡した。そこにはわずか2両の列車が見えた。これだ、私の乗るものは。駅舎の中にチケット売り場があった。2等車30バーツ、3等車20バーツの表示があったが、どう見てもそんな区別はない。20バーツ払う。そしてイミグレを通過。ただの改札を通るような感覚で、タイを出国した。
実は旅行作家のSさんから以前話を聞いていた。「たった15分の国際列車」この列車はバンコックから来る列車の乗客の為だけに運行されている。だから、列車が4時間遅れれば4時間待つ。Sさんは態々別ルートでノンカイに入り、朝から駅のベンチでこの列車を待ったが、その時は6時間遅れだったという。笑えない取材だ。
列車はとても国際列車とは思えない車両。昔の日本の私鉄を思わせる。乗客は大きなバックを背負った欧米人ばかり。この列車の価値を見出す人々である。そして全員のイミグレ通過を待ってようやく発車する。何ともローカルな国際列車。
すぐに川を渡り、国境を越えたことが分かる。タイもラオスも長閑な農業国。線路脇に結構きれいな住居がある。国境貿易で儲けたのか、それともタイからの投資か。ビエンチャンで開かれるASEM歓迎の看板が出ている。こんな所から入る代表団もいないと思うのだが。そんなことを考えていると、もう列車はブレーキを掛けた。何とも呆気ない旅だった。
全員がホームへ降りる。欧米人がビザ申請書を受け取り、書き始める。私も申請用紙を貰おうと思ったが、係官が「お前は日本人か、それならあっちいけ」と素っ気ない。仕方なくあっちに行くと、いきなり入国スタンプを押され、解放される。何と日本人はビザ不要となっていた。そんなことも知らないでやって来てしまっていたのだ。
この何もない駅からビエンチャン市内へはどうやって行くのか、全く分からない。しかし出口に付近にテーブルが出ており、看板にはビエンチャンまで車で400バーツと書かれている。何でそんなに高いのだ、完全に旅人の足元を見ている。何とかしたかったがどうにもならない。とそこへ、若い男女がやって来た。同じように困っていた。そうか3人で借りよう、ということになり、結局一人100バーツでトゥクトゥクをゲット。
ベトナム人の女性とフィリピン人の男性。ラオスでは日本などの他、アセアン諸国にはビザを免除しているらしい。ようするに我々3人だけがアジア人、残りの乗客は欧米人だったことが分かる。何となく愉快な気分になり、風に吹かれながら、旅を楽しむ。ノービザの3人、これはいい出会いだった。
11月2日(金)
この列車の所要時間はバンコックからタイとラオスの国境であるノンカイまで12時間。夜8時に出て、朝8時に着くはずである。ところが朝6時頃起き上がっても、一向に着く気配がない。というか、車内放送は全てタイ語で全く分からない。私はラオスのガイドブックは持っていたが、タイの物は持っていなかったので、地名が分かっても今どのあたりは分からない。まあ、終点まで行くのだから気にすることはない。
食堂車で朝飯を食う。カオトーン、にんにくの効いたお粥、雑炊?これはどこで食べても美味い。車窓から朝日を眺めながら食うとまた格別である。食堂車ではトーストやサンドイッチとコーヒー、紅茶のデリバリーが忙しい。皆、自分の席で食べているらしい。席に戻ると寝床はきれいに片づけられ、座席になっていた。
朝8時になったが、今どの辺だろうか。東京なら「ただ今3分遅れています。誠に申し訳ありません」などいう放送が流れるが、ここでは釈明も無ければ、勿論謝罪などない。皆、黙々と目的地到着を待っている。斜め向かいの爺さんが時々笑顔を送って来るが、何しろ言葉が通じない。それ以上進展しない。
ノンサット、という駅名が見えた。ノンカイに近いのかと思ったが、まだまだ列車は水田地帯を走る。ようやくウドンタニという駅名が見え、大勢が降りていく。どうやらもうすぐのようだ。最後に座席車両を見学したが、この固い椅子で10数時間はきつそうだった。
ついにノンカイに着いた。時刻は午前11時40分、実に16時間近くが経過していた。遥々来たな、そんな田舎の風景があった。
《ビエンチャン散歩》 2012年11月2-5日
2006年にラオスのビエンチャンへ行ったことがある。あれはバーンタオ氏に「行ってみたい」と行った所、「それじゃあ、ボランティアしてください」と言われ、ノートと鉛筆を担いで行った。あのノイちゃんはどうしているのだろうか。何となく、気にはなっていたが、その後行く機会もなく、ノイプロジェクトの消息も分からなかった。http://hkchazhuang.ciao.jp/chatotabi/laos/vientiane03.htm
バンコックに滞在を始めた時、バーンタオ氏より「日本のある自治体の人々がノイに会いに行くらしい」との情報を得て、俄然行って見たくなる。ちょうど中国・日本の旅からバンコックに戻り、スリランカへ行く間がぽっかり空いていた。これは行くしかない、が予定は良く分からない。
11月1日(木) ビエンチャンへ タイ国鉄の夜行列車
前回はバンコックから飛行機に乗ったので、今回は列車で行って見ることにした。ただ経験者からは「鉄道は遅れるからやめた方が良い」などと言われる。タイのような国の国鉄がそんなに遅れるわけがない、完全な思い込みである。2日前にファランポーン駅へ出向き、ノンカイ行きチケットを購入。混んでいるとは聞いていたが、案の定、寝台車の下のベッドは売り切れていたので、上段を取る。エアコン付にしたら、688バーツだった。
当日MRTでファランポーン駅へ。駅内で麺を食べて気分を出す。沢木耕太郎はここで7歳ぐらいの少年と出会い、その清々しい姿勢に感動していたと思う。しかしこの駅は改札が無い。ホームへの入場は全く自由だ。40分前に行って見たが、列車は入線していなかった。何だか既に嫌な予感が。それでも20分前には無事入ってきて、乗客も乗り込み、定時近くに出発かと思ったが。やはり・・20分は遅れた。夜のバンコックの街を走るといれば聞こえが良いが、暗闇をあまりにもゆっくりと行く。どうなっているのか、まるで交通状態の様相を呈している。ドムアン空港横の駅まで1時間半ぐらい掛かった。先が思いやられる。
あまりにやることが無いので食堂車を覗く。何人かがビールを飲んでいる。私はちょっとお腹が空いたので、野菜炒めとご飯を貰う。これで100バーツは高い。食堂車の従業員は家族かな。英語も出来て、会話も出来た。でも意外と忙しい。兎に角売り上げを上げないといけないらしい。飲み物のオーダーなどをひっきりなしに取ってては客車に運んでいく。
出発当初は座席となっていた下の段、車掌さんが来て、順次寝る準備に入った。先ずは上の段にシーツを敷き、枕を置く。下の段も椅子をたたみ、ベッドに。実に手際が良い。このスピードがあれば、列車は遅れないはずだが。本当にやることが無くて、寝る。ところが上の段は結構狭い上に、クーラーが効いていてかなり寒い。一応パジャマを持って来たので着込むがそれでも足が冷える。困った。列車の走行音も良い影響を与えず、眠りは凄く浅くなる。この季節はクーラーなしの車両を選択するのがよい。欧米人でもクーラーを嫌って、かつ安い車両に結構人がいた。失敗した。
(3月16日) 日本人墓地慰霊祭
本日はハッピーバレーにある日本人墓地の慰霊祭に行って見た。先日香港駐在時代からの知り合いが「花見はどうする?」と聞いてきた。何の話か分からなかったが、何と1年前の飲み会で「日本人墓地に桜を植えたらしい」との話題が出て、「それならコラムのネタになるかも」と答えていたらしい。凄く記憶力の良いNさんと2月下旬に行って見たが、既に花は散っていた。だが、ここに眠る日本人、そしてその墓にはかなりの興味を惹かれ、日本人倶楽部から本が出版されていること知る。シンガポールで最近会ったMさんが全ての写真を撮っていた。KさんやSさんが執筆していた。
この墓地はそもそも香港にやって来た外国人の為の墓地であり、日本人墓地という名称ではない。紅毛墓地と呼ばれていた。更に戦前日本人の墓はこの地になく、大杭道あたりにあったという。明治11年(1878年)から昭和20年(1945年)までの68年間、465名がここに埋葬されている。外交官、商店主、水夫、からゆきさんなど、実に様々な職業の人々がいる(戦争で犠牲となった軍人はここには埋葬されていない)。この直ぐ近くで料亭を開いていた夫婦が競馬場大火事で焼死した、ということもあったらしい。その子供達は別々に埋葬されている。どんな事情があったのだろうか。一人一人の墓石の文字は読みにくくなっているが、逆のその事情は薄らと浮かんでいるように見える。
日本のお彼岸に合わせて、慰霊祭はシンボルである萬霊塔付近で行われ、総領事館、日本人倶楽部、商工会などの挨拶があった。献花、焼香も行われ、一人一人が頭を下げて祈った。日本人小学校、中学校の児童生徒も祈っていた。さくらは散っていたけれど、これは良い光景だった。
実は香港に住む日本人の大半がこの墓地の存在すら知らない。私も駐在時代、聞いたことはあったが、訪れたことはなかった。本日も主催者サイドではない一般日本人の参列はほとんどなかったのではないだろうか。ここに眠る人々の在りし日を思うことにより、我々は何かを得られるような気がした。
因みにこの墓地周辺にはパルシー(ペルシャ渡来のゾロアスター教徒)の墓地があり、尖沙咀にあるモディロードのモディさんもここに葬られている。パルシーは人数は少ないが、経済を牛耳っており、現在のインドでもタタ財閥などの一族がそれに当たる。
他にもカソリックのお墓、シークのお墓など、この付近には様々な墓地が存在する。この地の歴史、とても興味深い。
10月16日(火) 益陽を離れる
本日は午後の便で長沙から上海へ行くことになっている。先ずは益陽から長沙までバスに乗り、長沙市内からまたバスを乗り継いで空港へ向かう計画を立てた。
居心地の良かったホテルと別れ、タクシーに乗り込む。長沙行きのバスは東ターミナル。30分に一本は出ている。雨が強くなってきて、何だか気持ちが乗らない。バスは大雨の中、1時間ほどで長沙西へ到着。雨に濡れながら、市内行きのバスを探すがなかなか適当なのが見付からない。
取り敢えずトイレにでも行こうかと、長距離バスの建物に入る。何故か荷物検査を経ないとトイレに行けない構造になっていた。ふと見ると、「空港行き」という表示があった。そうか、ここから市内へ行かずに直接空港へ行くルートがあったんだ。言われた場所へ行くと今にも出発しそうなバスがあり、それが空港行きだった。あっと言う間に空港に着いてしまった。
私の乗る飛行機の出発まで3時間以上あった。他に飛行機に振り替えることも出来ずに、喫茶店で軽食を食べながら、ネットをして過ごす。私の黒茶の旅は足早に、そして満足できる内容で終了してしまった。
(3月15日) 久々の上環散歩
本日は朝から上環散歩。メンバーはA大学から中文大学に留学している日本人大学生2人と香港で働いている日本人女性の3人。何だか若い女性に囲まれて嬉しい。天気はそれ程よくないが、気温は高くなく快適。
先ずはセントラルフェリーターミナルに集合し、ここからミニバスで香港大学へ。東門で降り、大学内を散策。広さは中文大学の方が広いが、迷路のようになっている香港大学は面白い。直ぐに疲れて(私だけ?)スタバで休憩。その後メインビルディングで歴史を感じ、更に新キャンパスまで歩いて行き、散策終了。
バスで上環へ出る。ランチは昨年ブログで紹介した街市内の日本食屋さん「家和」(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4914)。相変わらず日本人Kさんが頑張っている。凄いな。今日は鮭の頭定食を食べる。ご飯とみそ汁、マカロニサラダが付いて35香港ドル。今の日本では有り得ない値段。周囲は街市で働く人、周辺のサラリーマンなどで込み合っていた。家和で日本食を食べる香港人も増えてきているようだった。
そして向かいのビルにある茶縁坊でお茶を飲む。この店は2001年にハリウッドロードに出来た時からの付き合いだが、一昨年家賃高騰で街市の向かいにお引越し。かなり狭くなったが、自慢の鉄観音の味は変わっていない。実に日本人好み。あまりに馴染みで写真撮るのを忘れた。おばさんは先日故郷の福建省安渓(鉄観音茶の故郷)に帰った際、肘を怪我したようで、ちょっと辛そうだった。
キャットストリートをそぞろ歩く。昔ほどの賑わいが無く、寂しい。階段を降りて楽茶軒に寄ったが、スタッフがランチ中で、店に入れず。残念。ここら辺は10年前、私の週末の遊び場だったな。
下に降りて、上環駅近く。福建系の暁陽茶行を覗くと、馴染みのオジサンがいた。チープな茶器を見ようと思ったが、既にすべて売り切れ。この世界は「売り切れ御免」だから仕方がない。焙煎の効いた鉄観音を頂きながら、レトロな店内を眺める。1936年創業だから実にいい味出している。昨年はここのオーナーに香港の茶の歴史をヒアリングしたことを思い出す。
向かいには潮州系の林奇苑がある。ここは日本のガイドブックにも大抵載っていて、観光客が多い。日本語の出来るスタッフがいて、対応もバッチリ。日本人の観光客のおばさん達が「ソイシンが欲しいのよね」などと大声で言っているのがおかしい。
ここのオーナー、林さんのところには10年来通っており、色々とお茶について教えてもらっている。10年前、私が福建省安渓で貰って来たお茶を、見事に産地から茶工場まで説明してくれて以来、分からないとやってくる。昨年NHKのコラムを書いた時にも林さんから有益な情報を得たので、コラムに林さんの写真を載せたが、渡していなかったので、本日コピーを渡す。
お茶に関しては厳しい林さんが、3人の日本人女性を前に簡単な日本語を使って見たり、冗談を言って見たり、実はおちゃめな一面があることを知る。昔の香港人が普通に飲んでいた六安茶の話を聞く。今の安徽省の六安瓜片という名の緑茶とは全く違う花の香りのお茶が出てくる。やはり確認は重要だ。
上環は乾物屋など古い街並みが残り、歩いているだけでも楽しいが、やはり誰か知己がいると本当に楽しめる場所だ。
益陽茶廠
一旦ホテルに戻り、休息。2時半に再度お店へ行くと、何だか雰囲気が少し変。奥さんが申し訳なさそうに「実は急用が出来たので、一緒に工場に行けなくなった。あんた、一人で行って」という。一人で行くのは良いが、場所はどこでだれと会えばよいかと聞くと「工場はタクシー運転手なら誰でも知っているから問題ない。会う相手は私も知らないので、工場で聞いてくれ」という。
中国ではこういうことはよくある。決して相手に悪気はない。だが、振られた方はそれを無理難題と感じるだろう。その時の私もそうだった。それでもご縁で旅をする私、取り敢えず行ってみようと表へ出てタクシーを停めて「益陽茶廠」と言ってみたが、運転手は「それ何処にあるんだ?」とのっけから座礁した。結局タクシーの中から店の看板に書かれた電話番号に電話し、奥さんから運転手に行き先を告げてもらった。やれ、やれ、こういう所は中国的いい加減さ。
タクシーは街中を抜け、益陽郊外へ出た。そこには工場団地がある。そして何とその工業団地の一つの工場の前で停まる。ここだ、降りろ、と言われ、門の守衛さんに「工場見学に来た者ですが」と言ってみたが、「誰を訪ねて来たんだ」とつっけんどんにかわされる。こうなることも何となく想定内。
あーだ、コーダ、言っている内に守衛もどこかへ連絡を取り、ビルを指してあそこへ行けという。ビルに入っても受け付けも何もない、途方にくれ、適当なオフィスに入って聞くと、「それなら4階かも」と言われ、何とか辿り着いた。今は株式制に移行したようだが、如何にも国営体質。どう見ても客より工場の方が偉い。
それでも広報担当の女性はにこやかに工場の歴史を説明してくれ、概要を掴む。元々は安化にあった工場を1958年に益陽に移転。当時は何もなかったが、今では工業団地の中に入ってしまった。国営工場として、主に辺境茶の生産に注力、文革中でも生産を止めなかった。現在でも辺境茶のシェアは約25%で全国一。新疆を始め、青海、チベット、内モンゴルなどへ納入している。2010年の上海万博ではブースを出し、宣伝活動に務め、北京や上海でもブームを起こそうとしている。2005年に株式制に移行、工場に勤務していた人々が株を持ち合っている。従業員325人。殆どが地元の人間だ。2008年には国家非物質遺産に登録され、「茯砖茶」の加工技術は国家機密に認定されているため、工場見学が原則禁止となっている。
そして同じ建物の中にある博物館に行く。ここでは技術責任者が案内してくれた。湖南省の黒茶の歴史は500年あまりあるが、従来茶葉を作るだけで加工は陝西省あたりで行われてきた。1939年に加工技術が導入され、新たな歴史が始まったようだ。だが国営工場であり、国の指示でレンガ茶を作って来たこの工場は、最近になり漸く儲かる茶業を模索しているという。千両茶の生産も復活させるとか。
帰りはタクシーもなく、歩いて行く。途中でバスも走っていたが、1時間掛けてホテルへ戻る。夕飯は面倒なので一人でホテル内レストランへ。ところが何と個室しかないのか、一人で部屋を占拠する羽目に。これもまた面白い。ウエートレスも愛想がよく、本当に心地よいホテルだ、ここは。