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【ぶらぶらバンコック滞在記】   3月12日(火) ドムアン空港まで安く行く

今回のバンコック滞在は5日間。香港からエチオピア航空のリータンチケットで深夜に到着。前回と違い(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5374)、香港人が多く乗っていたので、ほぼ普通のフライトだった。スワナンプーンのエアポートリンクは既に終わっていたのでタクシーに乗ったが、親切で良かった。

最終日はエアアジアの片道切符で香港へ戻る。今度はドムアン空港だが、こちらは印象が良くない(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5239)。しかも市内からドムアンまで安く行く方法も分からない。どうしたものか。

今回は宿泊先から最寄りの地下鉄駅まで歩いて行き、地下鉄でチャドチャック公園まで乗る。もう夏の日差しで堪えたが、歩く。地下鉄代37バーツ。そしてチャドチャック公園脇に停まっているロットゥーを探し、「ドムアン」と叫ぶと、呼び込みのオジサンがドアを開ける。殆ど言葉が通じない世界であるが、そこはあうんの呼吸。




少しすると満員にならなかったが出発。ただ途中のバス停でお客を拾い始める。料金がいくらかも分からない。どこで降りるかもわからない。それがスリルと感じられる余裕がある。ドムアン方向の道路を走ったが、なかなか着かない。脇には鉄道の線路もあり、駅があればそれがドムアンだ。




ようやく空港ターミナルが見えたのは20分後。運転手にドムアンと告げると、丁寧に車を止め降ろしてくれた。25バーツぐらいかと思い、差し出すと、何と15バーツだった。何とも安い。これで地下鉄と合わせて52バーツで空港まで来た。後は道路上の通路を渡り、空港へ。




ところが空港のエアアジア、チェックインカウンターは大混雑。荷物検査台の向こうから大勢が並んでいる。そこで少し待つと何だか適当に3列に分かれる。フランス人の爺さんが「横入りするな」と睨む。何だかとても嫌な感じだ。慣れている若者たちは、最初からおしゃべりに夢中で待つことが苦でもない様子。だが一人で待つ身は辛い。しかもラインがぐちゃぐちゃで、良く分からない。それでも係員は乗り遅れそうな乗客を探すことしかしない。日本なら大クレームだろうか??




結局あのフランス人の爺さんと同時にチェックインできたのは40分後。そしてイミグレ、荷物検査を終わると、もう搭乗時間だった。空港のWIFIがなくても、必要が無かった。もうエアアジアには乗りたくないな、正直。


 

10月15日(月)  3.益陽2  安化紅茶を発見

翌朝は前日の疲れがあり、ホテルでゆっくり過ごす。それでも今日の工場見学の段取りが全く分からないので11時頃に、昨日のお礼も兼ねて、総代理店に顔を出す。今日は雨も無く、いい気分で散歩した。




  

総代理店に行くと、既に工場側には私の訪問が伝わっているので問題ないと言われ、そしてまた昼時となり、奥でご飯をご馳走になった。一昨日同様、実にうまかった。たらふく食べて、またお茶を飲む。実によいランチだ。


 

何気なく、店の棚を見ていると、殆ど黒茶しかないその棚の隅に、見慣れぬものがあった。安化紅茶、と書かれていたので興味を持つ。店の人曰く、「安化紅茶はほぼ全量がイギリスなどへの輸出であり、地元の人も殆ど飲まない」と。


 

実はこれから東京へ戻り、あるセミナーで「アジア紅茶の旅」という話をすることになっていた。まあ、話のタネにと思い、飲んでみると意外とおいしい。そこに売っていた箱を1つ買う。結構高かったのでビックリ。まあ、茶工場のアレンジやら、食事代やら考えれば、このお店に貢献するのもよいかという気分になる。

 

後日このお茶をセミナーで提供した所、少なからぬ反響があり、また驚いた。「安化と言えば黒茶、紅茶など誰も知らない」「安化紅茶を飲んでみたい、取り扱いたい」との話もあったようだ。日本人の新しい物好きか。

 

安化紅茶の資料は少ないが、調べてみると「1915年のパナマ運河開設記念万博(開催地はサンフランシスコ)で祁門紅茶と並び、金賞を受賞した」とある。何と歴史的な紅茶だったのだが、今では完全に忘れ去られ、ほぼ全量がヨーロッパに輸出されているとの説明を受ける。ごく一部の愛飲家ののどを潤すだけとなっているようだ。これも貴重な茶との出会いである。

 

安化の街

親戚の人の車に乗り、安化の街へ戻る。「歴史を知りたいのならXXへ行け」と言われ、車に乗ったのだが、意図はよく伝わっていなかったらしく、運転していた人は「俺はよく分かんない」と言い出す。私も行く先の名前すら知らないので、こちらは諦めて、適当な場所で降りる。

今日は安化の街に泊まるつもりでやって来たが、何となく目的を達成したような気分になっており、また適当な宿も見当たらないことから、益陽に戻る道を探る。来る時はタクシーだったから、どうしたものだろうか。その辺の人に聞くと、バスターミナルを教えてくれたので向かう。ちょうど40分後に益陽行き最終バスが出るというので、切符を買う。




まだ時間があるので街を散歩する。実に古めかしい瓦屋根の家々が点在している。本当に昔の町並み、という感じで、空気も時間を超えている。資江という河が流れている。山に閉ざされたこの地域の唯一の道だっただろうか。この河が益陽に流れ、洞庭湖に流れ込んで行く。安化の茶葉もこの河を通じて運ばれていったのだろう。実に歴史を感じる風景だ。




バスは午後5時前に数人の乗客が乗って寂しく出発した。河沿いに道を取る。しかしやはり来るとき同様、道路工事の影響か、田舎の農道を走り出す。そうなると大型バスのこと、対向車とのすれ違いなどに大いに時間が掛かる。その内周囲は暗くなり、益々危険な感じがしてくれる。安化に泊まればよかったのだろうか。




一度トレイ休憩があったが、バスは3時間半ほど掛かり、益陽の街に到着した。益陽鉄道駅前で下車したが、既に相当に疲れており、タクシーを捕まえて今朝チェックアウトしたホテルに戻る。ホテルでは顔を覚えており、「昨晩泊まったお部屋は如何でしたか?宜しければ本日もこちらでどうぞ」と笑顔で言われる。安化で見たあの歴史的な風景とこの近代的なサービス、どちらも良いと思うのだが、突然都会へ戻り、少し戸惑う。


 

安化千両茶の製造過程を見る

鄧さんは飲み過ぎで相当に気分が悪かったろうが、それから30分の山道を登り、工場に着いた。確かにここまで一人で来ることはほぼ不可能。これもご縁だな、と思う。雲っているが、空気も良い。

工場は思ったよりもはるかに大きかった。敷地内に入り、事務所で黒茶を飲む。何だかとても水が良いという印象。2009年頃までは普通の生産だったが、10年以降は生産が急拡大しているという。実はここでは黒茶だけではなく、春は緑茶、秋は紅茶も作っている。工場経営はそんなに楽ではない。




鄧さんはお父さんの工場を引き継いだ2代目社長。本日ちょうど40歳。私をどこかの茶商と間違えて、商売の話だと思って受け入れたようだ。本当に悪いことをした。だが、結果的には実によい出会いとなった。




そして工場へ入ると、何と千両茶を作っている所だった。これは滅多に見る機会がないと、写真を撮りながら見入る。千両茶は重さ千両からきた独特のお茶。茶葉を藁?に詰め、5人の男が足でそれを踏みつけ、転がして作る。これは大変な作業だ。伝統芸能的な雰囲気がある。殆ど作ることはなかったが、最近の黒茶ブームでニーズが復活、それでも毎日作っている訳ではないので、作業現場見学は貴重だ。










作業している5人のうち、熟練工は1人。後は若者。この作業は若者が良い。彼らは以前広東省などに出稼ぎに行っていたが、地元に職が生まれ、こうして故郷で千両茶を作っている。これが沿海部の人手不足現象の一端だと思われる。それにしても迫力がある。







鄧さんと工場前で記念写真を撮る。「来てくれて本当に良かった」と言ってくれたのが嬉しい。何だか鄧さん、泣いているように見えた。酔いのせいだろうか。


 

真昼の大宴会

どうしようかと又迷っていると向こうから女性がやって来た。こっちだ、という感じで、ずんずん先導していく。私が会うべき人物、鄧さんだった。レストランへ入る。既に人が沢山いる。一体何が始まるのか、そして私はどういう位置づけなのか、さっぱり分からない。

言われるままに奥の丸テーブルの席に着く。私の横に鄧さん、反対側には一番の長老であるおじいさんが座った。まさか私が主役ではいないよな、と不安に。今時どんな田舎でも外国人が来るからと、みんなが集まって宴会はないだろう。

おじいさんが何処から来たのか聞く。「日本人だ」と答えると、一瞬皆「え、」となる。良く見るとテーブルの向かい側には公安の制服を着た男性までがいた。あれ、どうしよう。するとおじいさんが「今回の野田(首相)のしたことは明らかに間違いだ」と言い始めた。これはまずいことになった、尖閣問題がこんな所で飛び出した。他の皆もどうしたものかと成り行きを見ている。




私は「政治的には日中は色々とあるが、私は純粋に皆さんの街のお茶の歴史を知りたくてやって来た者だ。安化黒茶について教えて欲しい」と率直に伝えたところ、誰かが「それはいいことだ」と発言、おじいさんも「好!」と言って、急激にその場が和んでいった。おじいさんも取り敢えず長老として、一言形式を述べたにすぎないという顔をして、その後は実に和やかに食事が進んだ。日本で報道されているような雰囲気ではなく、一つの儀式のようなものだった。




しかし鄧さんは今一つ浮かない顔で「そうか、お茶の歴史が知りたいのか、それなら街に詳しい人がいるかもしれない」などと言い出し、当初はあまり相手をしてくれなかった。というより、何故か皆が鄧さんに向けて白酒を突き出し、乾杯の嵐となる。これは凄い、真昼の大宴会だ。ようやくわかったのは、今日が鄧さんの誕生会だったこと。中国では誕生日の人が皆に御馳走するから、彼女も自分持ちで日頃世話になっている人、親せきなどを呼び集めたらしい。それにしても白酒のビンがどんどん空いて行く。恐ろしい。

料理も豪快だ。蛇の煮込みや虫の唐揚げなど、ワイルドな料理がテーブル中に並ぶ。久ぶりに辛い食べ物を堪能した。湖南省と言えば、辛い、というイメージほどではないが、程よい辛さの料理が多い。




鄧さんが酔っぱらって来た。するとしきりに私の方を向いて「よく来た、本当にこんな所までよく来た」と言い出す。そして「やっぱり、あんたは私のお客だ。私の工場を見に行く」と言い、宴会が終わると車に乗り込む。親戚数人がそれに続く。

 

安化への道

食後、私は明日どうすべきか聞いてみた。明日は日曜日、工場は月曜日にしか開かない。すると茶荘のオーナーが「八角茶業」と書いた。これはなんだ、と思っていると「じゃあな、俺たち、用事あるから」と言って、茶荘オーナーと茶葉局長は外出してしまった。取り残された私は茫然。「八角茶業」はどうなるんだ?

仕方なく店番していた奥さんに聞いてみた。「あ、ここは安化にあるよ、でも路線バスでは行けないね。うーん、地元の人しか乗らない乗り合いタクシーがあるから、明日の朝ホテルに迎えに行ってもらおう」と言い、電話してくれた。更にはこの「八角茶業」のオーナーにも電話し、明日の訪問の了解を取り付けてくれた。これで突然ながら、有名な安化へ行く道が開けた。何だかすごく簡単に事が運んでいる。

10月14日(日)  2.安化  安化まで




翌朝も天気は小雨。朝6時台に起きて、タクシーの運転手に確認の電話を入れたが、イマイチ要領を得ない。まあ、それでも待っていればいつか来るだろう。8時前にホテルをチェックアウトし、ロビーで待つがなかなか現れない。ちょっと不安。8時半前に普通の乗用車がホテル前にやって来て乗り込む。既に先客は3人、私は後部の真ん中に押し込められ、窮屈な旅となる。両脇は男女の若者。ちょうど街から村へ帰る所らしい。




最初は舗装道路を走って快適な田舎ドライブだったが、途中から本当の田舎道を走り始め、物凄く狭い農道なども走り、後部真ん中の座席はかなり大変な状況になった。後で聞けば、現在舗装道路の工事中とかで、已む無くこの道を通っているらしい。1年後ぐらいには益陽から安化までさっと走れるようになるのだろう。




およそ3時間、車に揺られた。これは結構堪えた。安化の街に入り、一人ずつ車を降りていく。実は安化に入る前に電話があった。女性からだったが、何を言っているのかよく分からずに、思わず隣の女性に電話を替わってもらった。彼女が受けた電話の指示を運転手に伝えた。そして・・。




川沿いの道でいきなり降りろと言われた。料金は70元だった。降りたがどうすればよいか分からない。キョロキョロしていると「八角茶業」の看板が見えた。助かった、と思い、中へ入ったが、そこにいたおばさんは無情にも「ここじゃない、あっちだ」という。


 

益陽茶代理店でいきなり

更に歩いて行くと数軒の黒茶屋さんがあったが、既に閉まっているか、薄暗い店内で寂しく商売をしていた。確かに雨の土曜日の夕方、人が来る気配もない。ようやく総代理店を探し当てると、そこには先客が2人いた。躊躇っていると「こっちに来て座れ」とのことで座る。「なんか用か」と聞かれたので、黒茶の歴史、新疆との関連などについて知りたい、と伝える。




すると隣に座っていたオジサンが、すらすらと答え始めた。時々中国ではそれほど知らないのに知ったかぶって大声で話をする人がいるが、このオジサンの答えは実に的確で、私の知りたいことを解説してくれた。特に新疆関連については「国策で作っており、儲けはそれ程ない。価格は政府の補助があり、新疆では安く売られている。文革中でも新疆やモンゴルの為に生産を止めることはなかった」という。

オジサンが「月曜日に工場は開くが、工場見学は一般人は出来ない。製造方法は一つの国家機密だ」と言い、店員が持って来たお茶に菌花のついた茶を指した。なるほど、菌が茶葉に付着し、独特の状況を作り出している。「だが、工場の隣に博物館がある。そこには入れるから月曜日に行くと良い」と言い、店のオーナーにアレンジを依頼してくれた。




このオジサン、一体何者だ。店内に黒茶関連の本が置かれていたので何気なく手に取ると、何とそのオジサンの顔写真が載っていた。黒茶の専門家で、かつ現在はこの益陽市の茶葉局の局長をしている人物だった。市政府に茶葉局がある、それで益陽市の支柱産業の一つに茶業があることが分かる。その局長と言えば偉いだろう。




オーナーが「飯だぞ」と声をかけ、局長たちが奥へ入る。「お前も食ってけ」と言われご相伴に預かる。ここの飯は実にうまかった。鶏肉は新鮮だし、味付けは濃いが、私に合っていた。湖南省の漬物はご飯に実によく合っていた。シーズンということで、蟹も沢山食べた。もう満腹だった。




食事の最中、私の経歴を話している中で日本人であることを告げると皆一瞬驚いていた。ちょうど反日暴動直後でもあり、「えっ」という雰囲気になる。私の中国語は決してうまくないが、その風貌と相俟って、日本人に見られることはまずない。局長が「日本とは色々とあるけれど、茶を飲んでいる人は友達だな」と一言言い、その場は和んだ。そして何故か一層食事が進んだ。そんなもんだ。

 

雨の益陽を歩く

今日は土曜日、そして夕方。小雨が降っており、ちょっと肌寒い。あまり外出したい気分ではなかったが、私にはレンガ茶の手がかりが無かった。唯一手にあるパンフの工場、当然土日は休みだろう。何故そんなことにも気が付かず、この日程で来てしまったんだろう。いや、今回私にはこの日程しかなかったんだ。私は呼ばれて湖南省に来ているのだから、きっと動けば何かが起こるだろう。

先ずは益陽の街で何か出来ることはないか、普段ならば、街をぶらつき、適当な茶荘に入り、情報を得るのだが、雨が降っていることもあり、ネットで益陽茶廠の総代理店を探す。ここなら工場の情報が得られると考えた訳だ。代理店はホテルか10分ぐらいの所あるようだったので出掛ける。



   

歩いて行くと、大きな卸市場のような所へ出た。建材屋などが軒を並べている。その脇に安化黒茶人文茶館と書かれた店があったので覗いてみた。黒茶の普及に務める、との謳い文句があり、黒茶が展示されている。担当者に黒茶の歴史を聞くと一通り説明してくれたが、細かいことは分からない、本に書いてあるとのことで、一般情報しか得られなかった。ここの2階はお茶を飲むスペースになっており、黒茶文化の普及と称して、商売をしているようだった。何だ、黒茶もただの商売道具か。








ある店の前には「尖閣は中国の物、日本商品排斥」などの幕が掲げられている所もあった。反日暴動から20日あまり、この田舎町でも何かあったのだろうか。私が温かく迎えられる素地はあまりないような気がした。


 

《湖南省お茶散歩》 2012年10月13-16日

8月に新疆ウイグルへ行った。その際、当地で飲まれているレンガ茶に関してその歴史を調べて欲しいと言われて、ウルムチで茶荘に入り、聞いてみたが、「俺たちは商売には興味はあるが、歴史には興味はない。もし知りたければ我々が仕入れている工場へ直接行け」と言われ、1枚にパンフレットを渡された。早速行こうかとその住所を見てビックリ。何と湖南省だった。ウルムチからは飛行機で3時間以上掛かる。その時点で「9月からはバンコック在住だし、湖南省なんて、当分は行けないな」とそのパンフを仕舞い込んだ。

http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5378


ところが、やはり、湖南省が私を呼んでいた。東京へ帰ると小説家のKさんから「中国に取材に行くが、一緒にどうか」とのお声が掛かった。9月はトルコへ行くので無理だと思ったが、10月中旬でもよいという。そして何と、その取材場所に湖南省長沙が含まれていた。これは行くしかないと心が傾く。

更には東方航空でバンコック‐上海‐東京のチケットを買うと、何と上海‐東京と料金が殆ど変わらなかった。これは安い、行こう、となった訳。Kさんと上海で待ち合わせ、尖閣騒動直後の南京を日帰り、そして翌日飛行機で長沙へ。2日の取材を終えて、Kさんは一人上海へ戻って行った。そして私は、あのパンフの場所、益陽へ向かう。

1. 益陽  益陽まで  2012年10月13日(土)

ホテルで聞いて、益陽行きのバスに乗るため、長沙西のバスターミナルへ。タクシーで20元以上掛かった。そこでバスチケットを買うと28元。これが中国だなと思う。バスに乗り込むとローカルバス。田舎へ向かう。1時間ほど走ると街へ入る。益陽東で皆が降りる。取り敢えず降りようかと思ったが、運転手に聞くと、私が予約したホテルの所まで連れて行ってくれた。実に親切。




ホテルはネットで予約したのだが、かなりきれい。そして何より、スタッフの態度が良い。きびきびしており、笑顔がある。これは経営者の運営の仕方が良いな、と感じた。最近中国の地方都市では、ホテルの質に相当の差が出てきている。これは当たりのホテルかもしれない。





 

ピエール・ロティのチャイハネ

タクシムから坂を駆け下りた。途中に高級ホテルがあり、サッカースタジアムがあった。海が目の前に見える。そのままガラタ橋までゆっくり歩いて行き、最後のサバサンドを食べた。美味かった。







そして最後に行く場所として選んだエユップ行きのフェリー乗り場を探したが、何故かフェリーは動いていなかった。仕方なく言われたバスに乗ったが、どこで降りてよいか分からない。すると横の若者が流暢な英語で教えてくれた。もし彼がいなければとても降りる場所は分からなかった。バス停付近から見る風景はまるで絵画のようだった。







エユップ・スルタン・ジャーミー、ここはモハメド2世が作ったモスクとして、参拝する信者が多い。きれいな公園になっており、神社の縁日を思わせるお店が出ていて、面白い。そしてロープ―ウエイで上へ。私は高所恐怖症、でもここまで来たら乗らざるを得ない。ここで持っていたコインを掃出し、チケットを買う。やはり怖かった。







上に着くと、金角湾がいい眺めだ。さすがにトルコを愛したフランス人作家、ロティが度々訪れた場所だけある。道なりにテーブルが広がり、チャイを飲みながら景色を眺める人々が大勢いた。チャイは1杯、3リラとリーズナブル。ここで風に吹かれているのはとても良い。イスタンブール観光を締めくくるのに相応しい場所だった。







ロープ―ウエイで降りようとしたが、大勢の人が待っていたので、どこか降りられる場所を探す。そして分かったこと、それはこの小高い丘は墓場だった。眺めの良い墓、それもまた人の人生。その墓の間を歩いて坂を降りていく。




そしてバスに乗って戻り、ホテルでしばし休息。私のフライトは夜中の1時。午後9時のミニバスに乗り、空港へ向かった。このバス、スルタンアフメット地区を回り、観光客を集めてから空港へ行く。まるで最後の観光をしているかのように、夜の闇に我々を連れ回す。その石畳み、やはりトルコはアジアではなかった、としみじみ思う。


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