10月2日(火) トプカプは門を開かず
とうとうトルコ滞在最終日がやって来た。ここまで色々なことがあり過ぎて、あっという間に過ぎて行ったが、少し疲れも覚えていた。2週間、ちょうど良かったのかもしれない。流石に山盛りのパンも食べ飽きた。
昨日の流れで、トプカプ宮殿へ向かう。「トプカプは広いだけで何もない」と言われたので行っていなかったが、昨日の城壁を見ていると、そこにいるだけで何かが感じられたので、宮殿でも何かが感じられそうで行って見た。ところが宮殿前の門が開いていない。聞けば「火曜日は開放していない」というではないか。まさにご縁が無かったんだなとすごすごと坂を下る。
実は午後タクシム近くにある軍事博物館にも行ってみたが、こちらは「月曜日、火曜日は休み」と言われ、入れてもらえなかった。週2日も休むとは、怪訝に思ったが、これもご縁の成せる業と諦める。
博物館にも行っていなかったので、行って見る。ここにはアレキサンダー大王の柩があるという。これが本物であるかどうかは疑わしいが、きれいな装飾には目を奪われた。他の柩や彫刻なども素晴らしく、珍しく見入ってしまった。
そして路面電車に乗り、カバタスへ。そこから一駅だけの地下鉄に乗り、タクシムへ。先日のガラタ塔とは別方面から丘を登った。そして地下鉄で数駅行き、初日にあったTさんのオフィスへ行く。この辺りは完全なオフィス街で、ランチタイムには人が溢れ、活気があった。ただ皆やたらとタバコを吸っていること、特に若い女性がミニスカート姿でタバコをスパスパやっている脇のモスクからコーランがガンガン流れて来ると、一体この国はどうなっているんだ、と思ってしまう。
Tさんのイスタンブールでの任期は実は本日までだった。何たる偶然、いや必然。しかも次の赴任地はモスクワ、と聞かされて、本当にびっくり。その忙しい最後の日にお邪魔して、しかも知り合いを紹介してもらった。そのお知り合いはトルコに20年住んでいる日本人で、非常に面白い話を連発してくれた。トルコを私の頭の中で整理するのに、これ以上の僥倖は無かった。Tさんには感謝したい。
イシドロスの城壁
船を降りると午後4時を過ぎていたが、心は昨日路面電車から見た城壁の風景に飛んでいた。とにかく路面電車に乗り込み、あの城跡風景を追う。いくつ駅が過ぎただろうか。城が見えてきた。トプカピという駅で降りる。思ったより更に大きい。そして南北にずーっと続いている城壁。
イシドロスの城壁と呼ばれるこの地区は、コンスタンチノープル攻防戦の際、枢機卿イシドロスが守備した場所という。イシドロスと言えば、スルタンの侵略に対して、カトリックとギリシャ正教の東西教会統一を模索した人物。どのような思いで戦いの臨んだのだろうか。そして捕虜となり、命永らえたと伝えられるが、どのような思いだったのだろうか。
この戦いではモハメッド2世はまるで織田信長のように見える。ハンガリー人ウルバンの大砲を採用し、城壁を破壊する様子は日本でいえば信長の鉄砲。現在私の前に広がる崩れた城壁も大砲で破壊されたのだろうか。
隙間から城壁に上る。周囲が良く見える。夕陽が眩しい。ゴミ拾いのオジサンたちの基地があり、裕福とは思えない子供達の格好の遊び場となっている。ここには時代を超えた空間が存在している。500年以上前の戦闘後、何も変わっていないのかもしれない。例え周囲がきれいな公園になろうとも。
夕方の涼しい風が吹き抜けて行った。帰りの路面電車からモスクが見えた。ブルー・モスクに寄ろうかと思ったが、既にその気力は無かった。
(3月6日) DBの交通
香港でスカバリーベイ(DB)に拠点を移してから既に1か月半。だが半分はDBに居なかった。昨日もシンガポールから帰って来たが、明日はまたバンコックへ。どうしてこんな生活になってしまったのだろうか。暇が売り物だったのに。
昨年はラマ島に滞在した。ラマ島は自然が豊かで、ゆったりとした落ち着いた島だった。DBはきれいで、緑は豊かだがだけれどもどこか人工的。ただラマ島には車が全く走っていなかったので、全て徒歩で過ごしたが、DBはバスが走っており、実に便利。夜フェリーで島へ戻ると、バスが待っている。この環境に慣れてしまうと、もう戻れない。
特に便利なのが、空港へ行く時。宿泊先のマンションから歩いて1分の所にバス停があり、そこから30分で空港へ行ってしまう。乗っているのは、空港利用者とキャセイの職員。これだけ便利だと航空会社の人が多く住むのも分かる。バスは30分に一本。夜中でも直通はないようだが、DBに帰ることができる。同じ島(ランタオ島)というのは如何に便利か。ラマ島なら、フェリーでセントラルへ出て、そこからエアポートエクスプレス。夜中は島へ帰れない。料金も100ドル以上掛かるが、DBバスは32ドル。
でもフェリー代は高い。同じ30分でセントラルへ行けるのに、ラマ島16ドル、長洲島24ドルに比べて、33ドルは明らかに高い。島内のバス4ドルを足すと37ドルにもなる。毎回だとかなり高い交通費となる。
ただラマ島や長洲島のように、交通手段がフェリーしかない状況と異なり、バスで市街地へ行くこともできる。マンションの前からサニーベイまでバスで15分。そこはディズニーランドへ行く線が走る。そこから尖沙咀まで1回乗り換えてMTRで30分は掛からない。シンセンに行くのも、一度乗り換えで1時間はかからない。交通に関しては、満足しているDB生活である。
因みにDBで自家用車として、ゴルフカートが走っている。老人でもこのカートで移動できる。また使ったことはないが、乗り合いタクシーのようなバンも走っている。ある程度の所得層が住むDBにはそれなりのバリエーションがあるが、如何にも香港らしい。
10月1日(月) ボスポラズクルーズ
朝、散歩に出た。昨日はかなり疲れが溜まっており、今日は一日休日にしようと思っていたが、起きてみると体調が良いので出掛けた。トプカプ宮殿の横の道を海の方へ下り、海沿いを歩いて見る。何となくスルタンアフメット2世のコンスタンチノープル攻略の地を歩いて見たかった。この付近は最後まで破ることが出来なかった場所。相当高い城壁と迫る海、天然の要塞だ。ここを今は電車が通っている。
20分ほど歩くと、フェリーターミナルへ出た。本当に偶然にボスポラズクルーズに乗らないかと声を掛けられた。ふらふらと乗り込む。そして気が付く。このクルーズは片道1時間以上かけて、アナドルカヴァウまで行き、そこで3時間休息し、戻ってくることを。しかし既に船は出てしまった。
ガラタ橋を横に見る。いい天気だ、本当に。風も爽やか、気持ちが良い。大きな客船が停泊している。流石国際港、イスタンブール。スルタンの居城、ドルマバフチェ宮殿。立派だ。アタチュルクはここで亡くなったようだ。オルタキョイ・ジャミイ、白いモスクは海に映えている。第一ボスポラス大橋も潜った。大きい。
そしてとうとうルメリ・ヒサリを見た。ヨーロッパ側の城、対岸にはアジアの城もある。 アナドル・ヒサリ。1452年3月マホメッド2世自らが指揮して建造。3班に分けお互いを競わせ、4か月で完成させた。全長250m、高さ15mの城壁、70mの塔が3つ。大砲で両岸から威嚇した。この城塞がコンスタンチノープルの運命を決定した。私は何故かこの風景だけが見たくて、この船に乗ったのだ。血が騒いだのは何故だろうか。
12時過ぎにアナドルカヴァウに到着した。折り返しの船は午後3時発。皆真っ直ぐに歩き始める。私は後をついて行く。ひたすら坂を上り、そしてレストラン街を抜けると頂上に到達する。そして遠くは黒海まで見える丘の上の立ち、遥かなる時を思う。僅かな城壁を残すのみだが、それはそれで風情がある。
船の乗客は思い思いのレストランに入り、ランチを取る。眺めの良い上のレストランで一人で食べるのは何故か憚られ、下に降りて、魚やイカを食べる。勿論ここは海鮮が売り物だが、観光客向けの食事というのはどこもそれほど美味しくはない。残りの時間を付近の散策にあて、時間を潰す。帰りは来た道を帰るだけで面白味はあまりない。
7. イスタンブール2 チャイナタウンの無い街
イスタンブールの空港は2回目で慣れたので、電車に乗って市内へ出る。初めは地下を走るが直ぐに地上に出る。今日もいい天気だ、イスタンブールは。途中で路面電車に乗り換え。ここも意外とスムーズ。
陽が西に傾く中、昔の城壁跡が見える。かなりの規模だ。電車を降りて見に行きたい衝動に駆られたが、荷物もあり、断念。そして懐かしいスルタンアフメットに戻ってきた。今回はこの前泊まったホテルの2倍の宿泊代を払い、部屋を取った。だが、それでも部屋は広いとは言えず、イスタンブールの物価の高さを実感した。
部屋に居ても仕方がないので、外へ出た。どうしても気になることがあった。この国際都市、イスタンブールで中国料理屋を1つも見たことが無かった。チャイナタウンはない、と初日に言われたが、まさかレストランが1つもないことはあるまい、きっとどこかにあり、少なくとも中国人観光客は食べているはずだ、と思った。
そして観光地区をくまなく歩いたが、発見したのは、たった1軒だけだった。トルコ人店員に聞けば、オーナーは中国人だというが、不在で会えなかった。中国人の存在が薄い街、それもありかもしれない。豚肉の調達も難しく、中国人向きではない。
因みに翌日街の旅行会社で「中国語で来ます」という張り紙を見て飛び込んでみた。香港等に滞在したというトルコ人が普通話を話していたが、二言目には「絨毯、買ったか?」と聞いてきたのを見ても、中国人は単なるいいお客さんなのだな、と感じた。
9月30日(日) トラブゾン空港
翌日は午後の便でイスタンブールへ戻ることになっていた。疲れも出ていたので、休息を前提に街をぶらつく。トルコの街の良いところはどんなところでも街頭にテーブルがでており、誰かがチャイを飲んでいること。私もつられて腰を下ろし、チャイを頼む。この雰囲気は実によい。チャイを飲んでいると皆が笑顔で話し掛けてくる。
空港へはタクシーで行けるが、敢えてミニバスに乗ってみる。ホテルからほど近い広場の裏道にバス乗り場があった。特に空港行きのバスは無く、昨日行ったリゼの方面へ向かうバスに乗り込む。トラブゾンも土地が狭いため、黒海沿いに住居が広がっている。
昨日空港までアイファンさんを送っており、空港の風景も分かっているので、安心して乗っていたが、乗客はどんどん降りていき、なかなか辿り着かないので、ちょっと不安になった頃、ようやく海沿いの空港が見えた。バスは道路沿いに停まり、後は歩いて道を渡り、空港へ入る。空港の端から端まで歩くと結構な広さであることが分かる。この地で飛行機に乗る人々は殆どが車で来るのだろう。
ターミナルは新しく、きれいで広々しているが乗客の姿は殆どない。バスの時間が読めない為相当早く出て来たので、時間が余る。ラウンジに入れてもらうが、誰一人おらず、スタッフもまだ営業前といったムード。国内線のラウンジであり、パンやお菓子程度しかないが、それで昼ごはんとする。
何とこのラウンジに人が集まり始めたのは、出発時刻の30分前。普通ならラウンジに寄らず搭乗口へ行く時間だが。出発時刻の20分前になると突然、滑走路に面したドアを開け、乗客が歩き出した。ラウンジから直接飛行機に向かうシステムだった。タラップを上り機内へ。トルコでも最近いくつかのLCCが出来ているようで、色々な飛行機が駐機しているのが面白い。
機内での1時間ちょっとはあっという間だった。何しろこれまでのバスの旅は5-11時間、飛行機が如何に速いかを実感したが、同時に味気なさも残った。私はトルコのバスの旅に何故か強く魅了されていた。
9月29日(土) スメラ修道院
翌朝はKさんが是非行った方が良いと言って、わざわざツアーを予約してくれたスメラ修道院へ行く。トラブゾンには観光地が殆どなく、皆必ず行く場所と言われたが、一体どんなところだろうか。
10時前に指定された旅行社前に行って見たが、バスは見当たらない。数人外国人がいたので、同様に待っていると、時間ちょうどにミニバスがやって来て、観光客を収容する。半数は欧米系、後は中東系とアジア系、アジア系と言っても何人か分からない。日本人ぽい人は一人乗っているだけ。料金はスメラ往復で20リラ。これはKさんの予約で5リラの割引があったらしい。感謝。
バスはマチカという街を通り過ぎ、かなり深い山に入る。急な上り坂をグルグルと上り、トラブゾンから小1時間ほどで修道院が見えた。このスメラ修道院、断崖絶壁にはへばり付く建物、という表現が妥当なほど、切り立った山の斜面に建っている。一体誰が何のためにこんな建物を建てたのだろうか。高所恐怖症の私には信じられない。
1時間の自由行動で、各自思い思い、坂を上り、修道院へのアプローチを開始する。観光客、特に女性が多いので、写真を撮りながらゆるゆると歩いて行く。15分ほど歩くと、修道院の前に到着。だがここからさらに厳しい階段を登らなければならない。4世紀の建てられたとも言われるこの建物、作業には途方もない時間が掛かっただろう。
中はいくつもの洞窟があるが、今は殆ど開放されていない。カッパドキアと同じような宗教壁画が描かれており、その後の破壊の爪痕を見ることができる。修行の場として作られたという修道院だが、こんな山の中に敢えて作る必要があったのか、やはりこれは迫害を逃れた人々がいたということだろうか。どうも歴史はよく分かっていないらしい。非常に興味深いのだが。
建物を一通り見学すると、後は待ち合わせ場所である下の駐車場まで降りていく。この下りの道は本当に林に囲まれ、静寂の中を歩く。目を瞑って木々の声を聴こうとしても何も反応しない。それ程に深い山の道である。まさに思い思いに降りていく。時折写真を撮ってくれと依頼すされるほかは、一人の空間に浸る。
駐車場に降りつくと軽い疲労を覚える。小川のせせらぎの中、木の椅子に腰掛ける。向こうの男性がIpadを触っており、日本人だと分かり声を掛ける。彼は1年半ほど、バックパッカー生活を送っており、アジアのみならず広範囲に旅を続けている。会社を辞め、また社会の戻るための道を探しているのだろうか。彼からスリランカの情報を得たが、これはのちに役に立った。生の情報は非常に貴重であり、また重要だ。
帰りが元来た道を淡々と戻る。午後2時ごろトラブゾンに着いたが、空腹感もなく、そのままホテルに帰って昼寝する。夜はベッドから這い出し、昨日の食堂で別の魚を食べ、満足する。既にトルコに入って10日、疲れが出て来ていた。
6. トラブゾン2 夕飯
トラブゾンの街に帰って来た。今日は本当に充実した茶旅が出来た一日であり、満足した。これも全てご縁であり、Kさんのお蔭であった。Kさんはトルコに来てわずか11か月だというが、既に相当のトルコ語を話しており、驚く。「周囲に日本人が一人もいない環境がそうさせた」とのことだが、それにしても凄い。
ホテル近くにKさん行きつけの店がある。地元の人が行く小さな店だが、そういう所が美味い。夕方5時過ぎだというのに客が続々と入ってくる。入り口には生の魚が並べられ、客は魚と野菜を選ぶようになっているが、常連が多いようで、一声かけて席に着く。
Kさんが「ここには美味いスープがあるが、すぐに売り切れる」というので注文すると幸いあった。レモンを絞り、香菜に似た物を入れるせいか、非常にさっぱりした味で、飲み易く、そして何故か後に惹く。魚ベースだったろうか。実は後日もう一度このスープが飲みたくてやって来たが、その時は6時前でも売り切れていた。
魚は豪快に焼かれ、どーんと出てくる。ここトラブゾンが元々漁港であり、魚を食べることに慣れていることが分かる。塩味で新鮮な魚を焼いただけ、と言えるが、その鮮度からしても美味である。玉ねぎとししとうを混ぜて食べると良い。食べ放題のパンを入れると直ぐに腹が一杯になる。
食後は街を散策。夕暮れ時、多くの人々が歩いている。きれいなお店も増えているようだ。一軒のカフェに入り、トルココーヒーを頼んでみた。ドロッとしており、かなり濃い味で、決して飲み易いとは言えない。それでも若者などはコーヒーを飲んでいる者もいる。一つのファッションだろうか。
Kさんと私、年齢も現在の境遇も違うが、お互いに日本から飛び出した人間として、様々な話で盛り上がる。それにしてもKさん、定年退職後、未知の国トルコへやって来ただけでもすごいが、そこでその生活をエンジョイしていることが羨ましい。一つの理想的な形ではないだろうか。
茶工場と博物館
午後はアイファンさんの案内で、茶工場見学に向かう。トルコの茶業者は、国営のチャイクル1社でほぼ市場を独占している。最近民間企業も出てきたようだが、それでも85%以上のシェア握る。茶業試験場も国営なら、チャイクルも国営。アイファンさんの名刺にもチャイクルの文字が見える。実質的に一体なのだ。リゼの街には当然のようにチャイクルの工場がいくつもある。先ずは海沿いの最新鋭のきれいな工場に行って見た。だが、現在製茶は行われていないということで、何も見ずにあっさりと立ち去る。何だかもったいないが仕方がない。
次の工場は結構年季が入っていたが、工場は稼働していた。最初に工場の責任者を訪ね、挨拶する。するとやはりお茶が出てきた。そのお茶は例のセンチャ。日本人にはセンチャだろうと気を利かしてくれたのだ。だが、このセンチャには砂糖は入っていなかったが、ミントが交ぜられていた。「どうだ、味は」と聞かれたが、正直、うーん、という感じだ。「トルコ人は砂糖を入れない茶は飲まないが、ミントを入れれば飲むのではないかと期待している」とは責任者の弁だが、どうだろうか。
工場の責任者は広い個室に陣取り、如何にも街の名士といった雰囲気で貫録がある。リゼの街でチャイクルの工場長と言えば、相当の地位だろう。いや、全トルコでもかなりのステイタスかもしれない。ただ、その時代がかった対応は、トルコの茶業の前途を少し暗示しているようにも見えた。
工場に案内された。どこにでもある紅茶工場、ほぼ機械化され、人手はそれほどかかっていない。トルコのチャイは、細かく砕いて飲む。それ程厳しい基準で製茶しているようには見えなかった。一方センチャは日本から持って来た蒸機なども使い、力を入れて作っているように見えた。より美味しいお茶が出来、トルコの人がそれを飲むこと期待するばかりである。
一端試験場に戻り、また庭でチャイを飲む。兎に角一日中、チャイを飲んでいる。隣では格好いいお姐さん達がタバコをふかしながら携帯をいじり、チャイを飲む。今のトルコの一般的な風景だ。
街の中心部にある博物館へも行った。ここはチャイクルの博物館であるが、国の博物館と言ってもいい。初期の製茶機械など様々な物が展示されていたが、残念ながらトルコ茶の歴史についてはそれ程展示は無かった。もし一人でやって来て、ここへ来ても何も分からなかったと改めて思う。茶縁に感謝するばかりだ。
アイファンさんが時計を気にした。実は彼はこれからイスタンブールへ出張する。そんな最中に我々と一日付き合ってくれた。感謝してもしきれない。彼をトラブゾンの空港まで送り、我々も帰路に着いた。