山の上のランチに行って
昼時になると当然のようにアイファンさんが先導して、ランチへ出掛ける。トルコに来る前、こんな厚遇は夢にも思っていなかった。Kさんはじめ、日本の様々な人々のアイファンさんへの好意が、いま私に帰ってきている。まさにご縁だ。
試験場よりさらに高い所へ行く。実に見晴らしが良い。観光用のレストランがあるが、見るだけにして去る。きっと食事が良くないのだろう。その横に、茶葉の集積場があった。ちょうど茶摘みを終えて、茶葉を運んできた農民と会った。農民と言っても運び屋さんか。若い男性たちだった。
摘んだ茶葉をここまで運んでくるのは相当の重労働。それでも賃金は決して良くないという。茶の生産だけでは食べていけずに、農閑期には出稼ぎへ出る人もいる。国の政策で茶を作っているのに、そしてこれだけ大量の茶葉を生産しているのに、食べていけない、相当複雑な事情が垣間見えた。
ランチは昔ながらの木の家屋を使ったレストランで食べた。天井が高く、吹き抜けのお店。爽やかな風が吹くととても気持ちが良い。だるまストーブが中央に置かれ、民芸品が並ぶ。食べ物もちょっと独特で、チーズフォンディウのようなドロッとした物を鍋から救い出し、パンにつけて食べた。この辺りの食文化はイスタンブールとはかなり違うのかもしれない。
(2月24日) 広州へ行く②
翌朝はまだ眠かったが8時に起きる。I太太からホテル近くのレストランへ行くように言われていた。実はホテルにも朝食は付いていたが、ホテルの飯より外の飯の方がはるかに美味いと思い、その指示に従う。大きなビルの中に入るが、レストランの場所は分からない。エスカレーターで上がると他の店は見付かる。そこでもいいか、どうせ広州はどこでも美味い、と思っていると、ようやく目的地に到着。確かに朝から大勢が食べている。本当にこの街は皆が食べている。
Iさんは初めての経験なので、お粥ではなく焼きそばを取る。朝から焼きそばを食べるなんて、と思うが、香港でもかなりの人が食べている。中にはお粥とそばと両方の人もいる。この食欲、凄い。昨晩は散々食べて4人で180元、今朝は2人で53元。その感覚は到底理解できないほど安い。
歩きながら色々と思い出す。広州と言えば、1987年に初めてきた時は、驚きの連続だった。何しろ中国最先端都市。メーターを付けたタクシーが走っていたのは広州だけだったと思う。ホテルの部屋も簡単に確保できたし、黒いボールペンまで売っていた(当時中国では青いボールペンしかなかったが、ここではゼブラのボールペンを売っていた)。
1987年の旅
http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/china/mukashi08guilin.htm
そして2000年代前半、何回も広州に出張した。その時は香港のホンハムでイミグレを通り出国。広州東駅で入国した。直通列車は2時間ほどで、快適な旅だった。一番の思い出は2003年の3月、1泊2日で出張。香港を出た時は何も起こっていなかったが、広州からの帰り、ホンハムのイミグレ職員は全員ガスマスクをしていた。SARSの発生だった。実は広州で会った日本人駐在員からも「香港から来たんですか?」と名刺交換を断られたりしていた。まさかあのような大事件になろうとは想像できなかった。その時、「食在広州」、何でも売っていると言われた代表的な市場、清平街が一掃され、今ではきれいな通りになっている。
10時半にI夫妻と合流してメインの茶葉市場へ行く。芳村、名前からしてよい。昔何度も行ったが、更に拡大していた。道路の両側に茶城が出来、もうどこへ入ったらよいか、全く分からないほど。今回はI夫妻の捌きで、単叢とプーアールを商う店へ。オーナーはI夫妻のためにわざわざ今朝潮州より戻ったという。飲み易いお茶が手ごろな値段で売っている。私もこれからプーアールを飲むことにして、手で砕ける茶葉を購入。
次にユニークなオジサンがやっている店へ。店頭には相当に古びた竹に包まれた茶葉が青銅の馬の置物の上に置かれている。聞けばお茶関係の国有企業に勤めていたが、国有企業改革のあった2000年頃に退職し、今のお茶を開いた。雲南省にも事務所を持ち、明日から1か月は雲南で過ごすとか。ビルの3階へ案内される。ここにもオジサンの店がある。こちらは相当に広く、皇帝が使ったというベッドが置かれ、骨董類が並ぶ。相当の趣味人である。
昼は茶葉市場近く、線路脇の荷香居へ行く。本当にローカルなレストランだが、日曜日のせいもあり、人が入り口の外まで溢れていた。中庭部分は池になっており、屋根はあるが、開放感抜群。店内の混み方は尋常ではないが、何とか席を確保する。例湯は季節に合わせて具が入っており、健康的。鶏が名物ようだ。周囲の人々も懸命に食べている。食べることにこれだけ集中するのは簡単ではない。このパワーに圧倒された。
午後は紅茶屋さんへ。雲南省の紅茶を飲んでいると、いつか北京の馴染みのお茶屋さんで出された味がした。聞いてみると「清水三号」という改良種のようだ。お茶もどんどん進化している。ただお茶の飲み過ぎとランチの食べ過ぎで腹が痛い。苦しい。その後I夫妻と別れて、Iさんと二人で市場散策。しかしあまりに広くてすぐに迷子になり、困り果てて、先程の紅茶屋に駆け込む始末。何でこんなに広いんだ。やり過ぎだ、中国。
夕方ホテルに荷物を取りに行き、最寄りの地下鉄駅から広州東駅へ。そして元来た道を淡々と香港へ戻った。日曜日の夕方ということか、列車はかなり混んでいた。途中駅から乗り込む席なしの人で溢れた。それにしても今回の広州は、忘れていた広州を思い出させた。アメージング広州!
茶業試験場と茶畑
リゼの茶業試験場は1924年に創設された。その前年に、オスマントルコが倒れ、ケマルアタチュルクにより、トルコ共和国が建国される。これは偶然の一致ではない。その数年前に、ゼリヒ・デリンという人がグルジアへお茶の研究に派遣されている。当時グルジアはお茶の産地、今でも高級な紅茶のイメージがある。既に帝国末期、それまでの国民飲料だったコーヒーは手に入らなくなっていた。何故ならコーヒーの産地はイエメンのモカ。既に帝国内ではなくなっており、コーヒーは高価な輸入品となっていた。
建国直後のトルコにお金はなく、国民飲料として期待されたのがチャイ。試験場は苦難の歴史を歩みながら、茶樹を植え、製茶を行い、1930年代にはそれなりの商品となっていた。ただ最終的に国民に普及したのは50-60年代とも言われている。このような説明をしてくれたのは、この試験場の開発責任者、アイファンさん。彼は日本びいきのトルコ人の中でも日本への親近感が強く、実に丁寧に話をしてくれた。
試験場は研究室などがあり、お茶の研究開発を行っていた。外は公園のようになっていて、一般人も気軽に入って来てチャイを飲んでいる。この山の上からリゼの街と黒海が一望できる。そしてその急な傾斜地に茶が植えられている。何故ここに茶畑を作ったのか、それはこの急こう配では、普通の作物は難しく、この付近の人々は貧しい生活を強いられていたからだという。政府も貧困対策で茶を植えた。だから、他の地域には茶畑が無いということだろう。
そして茶畑を案内していたアイファンさんが突然「これは何だか分かるか」と聞いてきた。茶畑の上に黒い幕が張られていた。まるで日本茶の被せ、のような日差しを遮る物だった。「そう、これはセンチャ畑だ」。え、トルコに煎茶畑。一体なぜなのだろうか。トルコではチャイが国民飲料となったが、皆砂糖を大量に入れる。政府は角砂糖の大きさを半分にして、国民の健康維持を図ったが、それほど効果が無いらしい。
そこで政府はアイファンさんを日本政府の支援を得て、鹿児島の知覧へ派遣し、日本の煎茶の製法を取得させた。機械も一部持ち帰り、5年前から研究に取り組み、今では飲めるセンチャが出来て来ている。勿論土壌の改良なども行っている。国を挙げての取り組みなのだ。ここにも日本との繋がりがあり、そのご縁で今日の私がある。
(2月23日) 広州へ行く
今日は東京のお茶屋さんI夫妻に同行して、広州へ行くことに。本当は数日滞在したかったのだが、予定が入り1泊になってしまった。広州は実に5年ぶり。その時も1泊でバンコックへ行ってしまった。広州はあまりご縁のない所か。
2008年の旅
http://hkchazhuang.ciao.jp/chatotabi/china/guangzhou_1.htm
今回はI夫妻に従い、羅湖経由、和諧号に乗って広州東駅へ向かう。このルートは初めてだ。先ずはMTRウエストライン(昔はKCRだ)の九龍塘駅で待ち合わせ、羅湖へ。今日は土曜日だが、九龍塘駅はかなりの混雑。列車は3分に一本は来る、趙過密ダイヤ。未だに香港は土曜日半ドンが多いのだろうか。
羅湖のイミグレはそれほど混んでおらず、スムーズ。粉ミルク買占め事件後、荷物検査が厳しくなったと聞いていた中国側では、既にほぼ検査は行われていなかったが、大きな荷物を持つ怪しい人物はどんどん呼び止められ、別ルートへ連れて行かれていた。良かった、呼び止められずに。
I先生はいつも羅湖の茶餐庁でお休みするそうで、その間にI太太と私が切符を買いに行く。和諧号の切符を買うには身分証の提示が義務付けられているが、中国人や香港マカオ居民は、自動販売機で銀聯カード(又は現金)と身分証を挿入すれば簡単に買える。だが外国人はパスポート提示にため、窓口へ。その窓口は何と荷物検査を超えた所にあり、不便。そして途中で職員の交代などもあり、結構待たされる。更にはもうすぐ我々の番が来るという時になり、財布に香港ドルしかないことに気が付く。バッグは茶餐庁にあり、取りに帰る暇はない。すると目の前にハンセンバンクのATMが。HSBCのカードを差し込むと自民元が出て来て事なきを得る。
それにしてもすごい数の列車が動いている。15分に一本、もう少し遅くなると10分に一本、シンセン⇔広州間を和諧号が走る。16:40発の列車に乗る。北京で乗っていた車両とは明らかに違う。車両の真ん中に乗り口があり、席は左右に分かれている。トイレの付近が異常に広い。食堂車もゆったりしている。トイレの前には席が2つあり、何故かオジサンが座っていた。食堂車も満席。どうやら前の列車に乗り遅れた人たちが乗り込んできているらしい。私の隣は父親が幼稚園ぐらいの息子を膝の上に乗せ、2人で1つの椅子に。うーん。
列車は速度を150-160㎞程度までしか上げない。これは列車事故以降に規制が敷かれたせいだろうが、やはり遅いと感じる。しかも途中で3つの駅に停まり、広州に到着したのは1時間20分後だった。
10年前の広州東駅は周囲に殆ど何もない駅だったが、今回行ってその発展ぶりにビックリ。10年間ずっと進化している駅のようだ。タクシー乗り場も上手く機能しており、左程待たずに乗車できた。運転手も愛想がよい河南人で快適。北京などでは愛想などまるで期待できないが、広州は何故かよい。
私は松江でお茶屋をはじめるというIさんが予約した旧市街地のホテルに転がり込む。ここはビルの7階がホテルになっている。ツインで入れたはずの予約がシングルになっており、一瞬青ざめたが、直ぐに替えてもらった。部屋は狭いが清潔で便利。ネットも直ぐに繋がった。
毎年2度は来るというI夫妻は別の定宿にチェックイン。こちらは我々の倍の値段だが、相当に広い。これなら広州ライフは快適だ。夜は9時から陶陶居で夜飲茶。お粥、スープから点心まで本当に絶品だった。食べるだけ食べて、腹が一杯で動けないほど。こんな体験は久しぶりだ。10時過ぎても若者から年寄りまで大勢がひたすら食べて、飲んでいる。これは気持ちの良い光景だ。
繁華街にも人が沢山いる。何だか楽しくなる。I夫妻には「広州はそんなに面白い所ではない」などと言ってしまったことを後悔する。ホテルに帰ってもその余韻が覚めずに、Iさん相手に夜中の2時半まで話し込む。シャワーも浴びずに寝入る。幸せな生活だ。
5. リゼ 9月28日(金) リゼへ
いよいよ今日はトルコ唯一の茶畑の街、リゼへ行く。何だか気持ちが高鳴る。ここまで来るのは本当に長かった。イスタンブールに入ってから既に1週間以上が過ぎていた。ホテルには既にトラブゾンに長期滞在する唯一の日本人?Kさんが迎えに来てくれていた。
Kさんは、昨年日本の地方都市のお役所を定年退職した農業技師で、直ぐに海外での仕事を探し、ここトルコのトラブゾンへ赴任してきた。現在は野菜栽培の技術指導をしているとのこと。昔ヨルダンで一年滞在経験があるとは言うものの、大胆な転身に見えるが、ご本人は淡々としており、トラブゾン生活をエンジョイしているようだ。
Kさんご手配の車に乗り込み、黒海沿岸を一路リゼの街へ。と思ったが、途中で住宅街へ入り、男性をピックアップ。ウスマイルさん、現在は英語の教師だが、中央アジア滞在歴も長く、非常にユニーク人。Kさんとはバスの中で知り合い、それから交友関係が続いているとか。今日は英語の通訳として同行してもらう。やはりここでは英語は通じないらしい。
リゼの街はトラブゾンから車で1時間ちょっと。しかしもし私が単独でリゼを訪問しようとしていたら(実際トルコ入り時点ではそう考えていた)、バスでもっとかかっただろう。そしてリゼに到着しても、どこへ行ってよいやら、迷ったことだろう。全ては茶縁の世界。今日は真っ直ぐに、リゼの国立茶業試験場へ向かう。
トルコは世界5位の茶葉生産国と聞いているが、茶畑はほぼここリゼかその付近にしかない。そして茶業試験場も唯一ここにしかない。トルコでお茶を知ろうとすればここに来るしかないのだ。そして私は導かれるようにその建物に吸い込まれた。
(2月22日) 九龍城へ行く
2月に入り、東京へ2週間行っていた。東京へは既に「行く」であり、「戻る」ではない。東京では雪が2回降り、最低気温零度など寒い日が多かった。これも私のせいかと思っていたが、私が香港に戻った翌日雪が降ったと聞き、ちょっとホッとした?香港の生活は何故かスピードが速い。一日があっという間に過ぎていく。そんな日々は「暇が売り物の私には向いていない」と思いつつ、飲み込まれる。そこで今日はまったり香港を体感したい。
先ずは油麻地でお知り合いのKさんとベトナム料理を食べる。久しぶりのフォー、何だか温まった。そして近くの義順牛乳プリンへ。これまた実に久しぶり。昔マカオへ行っていたころ、時々食べたが、今や香港でもポピュラーなデザートだ。味や雰囲気は相変わらずだが、値段だけは相当上がっていた。1つ25香港ドル。昔はいくらだったんだろう。
そして旺角で中文大に留学している日本人学生Hさんと落ち合い、九龍城へ。九龍城へはこれまでも何度か行っているのだが、旺角から行くのは初めて。先日香港人に聞いておいたミニバス乗り場を探し、乗車。7香港ドルで、あっと言う間に着いてしまった。これまで尖沙咀からバスで延々揺られていたのはなんだったのか。新しいペンシルマンションが如何にも香港らしい。
そして行きつけの茗香茶荘へ。ここは50年に渡りお茶屋をやっている香港でも老舗。店に入ると良いお茶の香りがする。いつもいるお爺さんはちょうど故郷の潮州へ行っていたが、現在の主人であるマイケルがおり、香港事情やお茶事情に関して話し込む。留学生Hさんには訳が分からない話も多かっただろうが、偶にはリアルな香港も良いかと思う。
それから九龍城公園へ向かう。ここは1898年の九龍割譲に際して、実質治外法権となっていた香港の魔窟と言われた場所。1992年、香港返還を前に取り壊され、今はキレイな公園に変貌している。とても暖かな午後で眠気さえ覚えていたが、公園内の歴史展示場でこの街の歴史を見ると眠気も飛ぶ。
南門跡あたりを歩いていると、突然香港人のお爺さんがこの街の来歴を話し始める。広東語なので適当に調子を合わせていると、何と普通話に変えて説明してくれる。そして最後に我々が日本人だと変わると、「九龍城の調査は日本人がやってくれた」と満面の笑みで去って行った。
茗香茶荘へ戻る。東京のお茶屋さんI夫妻ご一行と合流し、お茶会となる。様々なお茶を飲み、話す。茗香茶荘は今や香港では少ない自家焙煎のお店。なかなか良いお茶がある。その後夕飯は近くの新しいビルの地下にある好彩で食べる。このレストラン、昔上環にあったお店だが、いつの間にかチェーン展開。香港の発展が見える。
トラブゾン散策
午前中仕方なく荷物を預けて、街へ出た。先ずは腹ごしらえで、近くのレストランで朝ごはん。店頭に並んだおかずから、鶏の煮込みとさやいんげんをチョイス。パンは食べ放題。店からハミだした路上のテーブルで食べていると、気分はヨーロピアン。味もまずまずで、眠気も吹っ飛ぶ。
そして歩き出す。私がトラブゾンという街の存在を知ったのは、沢木耕太郎の深夜特急。彼はトルコでアンカラ、イスタンブールを訪ねているが、もう一つ、ここトラブゾンにも寄っている。40年前のトラブゾンは、田舎の港町と描かれており、坂が多いとあった。実際に歩いてみると確かに黒海から直ぐに丘が連なり、平地は極めて少ない。その坂道を海と平行に歩いて行く。
40分ほど、歩き続けると、丘の上にアヤソフィアが見えてきた。イスタンブールでもその存在感が抜群のアヤソフィア。ここトラブゾンでは、相当小型であるが、やはり光を放っていた。基本的には教会であったが、今は博物館という名前で公開されている。建物の中には随所に宗教壁画が残されており、往時を偲ばせる。
トラブゾンは紀元前にギリシャ人の南下で作られた街。その後東ローマ帝国時代にキリスト教が入り、このアヤソフィアが教会として作られた。オスマントルコ時代にはモスクとして使われ、20世紀に入り、博物館となる。
外にはカフェがあり、観光客がチャイを飲んでいる。私もチャイを注文し、座る。実にゆったりとした時間が流れている。いや、一瞬時が止まったかのような錯覚を起こす。午前中の暖かな日差しが心地よい。チャイクル、というテーブルクロスに書かれた文字が、いよいよ茶畑が近づいてきていることを告げている。
帰りもまた歩く。相当に疲れていたが、モスクあり、サッカー場あり、公園ありで、楽しく歩く。この街は古い建物が多いが、比較的整備されており、きれいに見える。黒海床山に挟まれた狭い敷地に住む人々、皆が陽気に見えた。
4. トラブゾン1 9月27日(木) ホテルでトラブル
黒海沿岸の大きな都市、トラブゾンに到着した。実に11時間のバスの旅。気分は爽快だった。バスターミナルから街へは無料のミニバスで運んでくれるが、その出発は非常にゆっくり。慣れた人は公共バスなどで行ってしまう。本日私には全く予定が無いので、ゆっくりと待つ。
ミニバスで10分ぐらい行くと、降りろと言われて降りる。そこは旧市街地、石畳が良い。今回突然お世話になることになったトラブゾン在住日本人Kさんが予約してくれたホテルも直ぐに見つかった。
いつもの私の旅からするとかなり立派なホテル。夜行バスで疲れているので朝8時過ぎだがチェックインを頼むと「部屋は満室。12時にまた来い」とすげなく言われる。一室ぐらい空いていないのか、と聞いてみたが、フォロントの女性の態度は変わらなかった。まあ正規のチェックイン時間ではないので諦める。
そして11時半頃再度ホテルへ行き、チェックインする。ところがKさんが予約してくれたはずのシービューの部屋は満室だと言われる。先程のすげない対応もあり、私もここは譲らずに、「予約を受けたのに部屋が無いとは何だ」、と少し語気を荒げた。夜行バスでかなり疲れていたのだろう。するとフロントの若い女性も突然声を荒げて「私は嘘つきではない。あなたに嘘つき呼ばわりされる覚えはない」と涙目になり言い出す。これにはこちらがビックリ。私も中国に居るような感じでクレームしてしまったようだが、それにしてもホテルでこんな対応は初めて見た。
彼女と話しても埒が明かないと思い、Kさんから聞いていた旅行会社の社長に電話して事情を説明。彼は分かったとだけ言い、電話を切る。すると奥からマネージャーらしき女性が出て来て、丁寧な態度で「本当に申し訳ないが、今日チェックアウト予定のお客が延泊してしまった。ついては1泊だけ、別の部屋に泊まってもらえまいか」と聞いてきた。このような態度に出られると、対応しない訳にはいかないが、何となく釈然としなので、「部屋が違うのに料金が同じなのは納得できない」と言ってみると、「部屋代は旅行社と相談するが、何らかの割引をする」というので、こちらも収まる。
部屋は隣のビルの壁が見えるだけのビューだったが、非常に疲れていたので、シャワーを浴び、直ぐに寝入る。起きた時には既に夜で、ビューはどうでもよくなっていた。やはり相当に疲れていたようだ。
因みに翌日海がきれいに見えるシービュールームへ移動。景色も雰囲気も全然違った。3日後にチェックアウトする時には約束通り、1泊目を30%オフにしてくれた。これもKさんのお蔭だ。