開発ラッシュ
あまり長い時間お茶屋で座っていたので、腰が痛くなり散歩に出た。市政府があるこの周辺は梧州の街の中心街であり、オフィスビルとマンションの建設ラッシュとなっていた。特に河沿いは軒並み掘り返されており、タクシーで走ると、その様子がよく分かった。この街にはどう見ても不釣り合いな43階建てのコンプレックスビルまで登場しており、その過熱ぶりが分かる。
『全ては高速鉄道のお蔭だよ』とタクシーの運転手は自嘲気味に話す。広州から南寧までを通す高速鉄道の駅が梧州郊外に出来ることから、ここ数年開発ラッシュに沸いている。もっとも当初の予定では既に開通しているはずだったが、前鉄道部長の逮捕に絡んで、多くの鉄道案件が遅れており、この線に関しても完成は1年以上遅れている。一時1㎡1万元を超えていた不動産価格も、最近は8000-9000元まで値を下げていたが、それでもこの田舎町としてはかなり高い。金融引き締めもバブル崩壊もなんのその、中国の遅れた地方都市は起死回生の一発を狙っている。
タクシーの運転手は東北遼寧省の出身だった。こんな南の方まで何で来たのだろうか。『何となく流れて来たんだ。でもこの辺はいい所だから居着いてしまった。大都会は性に合わないし、東北に帰るにも仕事が無い』。中国は広いが、それにしても故郷を離れている人のなんと多いことか。
夕飯は李さんと牛肉鍋を食べる。単に鍋に牛肉を入れるだけだが、この生姜ペーストのたれが美味しい。梧州は牛の産地なのだろうか。店はこの街で人気のあるところだと言っていたが、なるほどどんどん人が入ってくる。地方都市ほど食事にお金を掛ける比率が高いというが、全くその通りだ。
4月13日(土) 朝飯 でかい粥
翌朝もホテルで朝食。昨日の量の多さに懲りて、お粥だけを持ってきてもらう。ところが、そういうお客もいるのか、お粥のどんぶりが半端なくデカい。これと豆乳で朝から完全に腹一杯。昨日は悪口を言ったこの店だが、いい所もある(変わり身が早い私)。
ホテルに李さんがやって来た。今日は嫌がる李さんを説き伏せ、六堡茶の産地へ向かうことになっていた。車は弟さんが運転。彼も別の店で茶を扱っているという。若干雨模様の中、いざ出発。
http://www.myconcierge.jp/yy/terakoya_china/nikkeiken201308.pdf
李さんの店
市内にある李さんの店へ行く。この店はオジサンがオーナー。オジサンは何と80年代に安徽省にある農業大学、通称お茶大学を卒業して、地元に分配(配属)で戻ってきたが、六堡茶及び梧州茶廠の低迷により、直ぐに飛び出し、自ら商売を始めたらしい。お茶の知識は相当にある。この店は私の泊まっているホテルとは街の反対側にあり、市政府などがあるので、街の中心と言えるが、茶城が我がホテル周辺に移っているため、少し不便。常連客は沢山訪れるが、観光客が来るような場所ではない。勿論彼らの主業は卸しだから、それでよいのだろうが。
昼時になると当然のように飯へ行く。近くの地元レストラン。先ずは例湯が出る。この辺が実にいい。しかも美味い。李さん曰く、「我々両広人は、スープが無ければ始まらない」と。両広人とは広東、広西の2つを指すと思われるが、何だか清朝時代の両広総督を思い出す。それ程にこの2つは密接なつながりがある。ましてやほぼ広東省に近い、ここ梧州は広東の影響を大きく受けているのは当然であろう。それから白切鶏が出て、大腸ときくらげの炒め物が香ばしい。うーん、私の味覚に合っている。嬉しい。オジサンもジョインして、飯を何杯も食う。
日がな茶を飲む
午後も雨模様。今日は何もできないね、とばかりに、店で茶を飲み続ける。六堡茶といっても相当沢山の種類がある。レンガ茶もあれば茶餅もある。可愛い籠に入れた散茶もある。店には大きな古い木の桶に散茶が入っている。良く見ると葉っぱのまま、発酵させた茶まである。
時々常連客が入って来て、茶を飲みだす。ある客が入って来た時、李さんが『70年代の散茶だ』と言って、取って置きの茶葉を取り出した。それはまるで枯葉。そして信じられないほどにマイルドで、心地よい。その客も気にいって、クレジットカードを取り出し、決済を始める。1斤、3000元以上もする茶を何気なく買っていく。聞けば別の街の不動産業で成功したオーナーだとか。
お客も入って来るが、物を売り込みに来る者もいる。南寧から来たという女性二人組、お茶ではないが健康に良いという飲み物を持ってやって来て、店で実演販売を始めた。お客もちょうど良い話題が出来たということか、興味津々で話に加わっていた。が、彼女らが去ると『最近あんなのが多いんだよな』と。田舎の人は人が良いのか。
梧州茶廠
ホテルからタクシーで5分、梧州茶廠に到着。入り口の門が何となく古めかしくてよい。この工場は1953年に作られ、今年がちょうど60周年。60年間、この場所で茶を作り続けている。正面に陳列館と書かれた博物館がある。何故か工場長が正面に居て、挨拶する。
陳列館には創業以来の歴史が飾られていた。特に驚くのは六堡茶でも1950年代からプーアール茶と同様の熟茶の製法が行われていたこと。熟茶は1974年に雲南省の茶葉研究所が製法を開発したと言われているが、六堡茶の世界ではそれ以前から作られており、実は民間では解放前からあった製法だと言う。陳列館2階の事務所で李さんのオジサンから話を聞く。
また1971-79年の文革中には、湖南省益陽と同じ、茯茶(茯磚茶)を作っていたこと。これは政府の命令だったようで、その後は採算が合わないことから製造を止めている。益陽では政府の補助があるから作っていると言っていたが、実際には補助があっても儲からない、場合によっては赤字になるらしい。
この付近では基本的には現在六堡茶しか生産していない。80年代、黒茶は全く売れなかったようで、廃業した所も多かったようだ。梧州茶廠は実質的に国営であり、生産が続けられたが、長い間低迷が続いた。2005年のプーアール茶ブームで、同じ種類である六堡茶にも少しずつ関心が向けられ、生産が向上したらしい。
ただ梧州茶廠は未だに株式制などへの改組が行われていないため、商業意識がもう一つで、市場の波に乗れない、との話もあった。この辺は益陽茶廠が2005年に改組し、収益重視の生産体制になったのとは異なっている。工場に入ることは禁止されている。説明によれば、倉庫なども木の板が使われており、60年間の六堡茶の茶香が漂っていて、とてもいい匂いがするらしい。このような伝統ももし収益重視になれば替えられてしまうかもしれないので、変革が全て良いとは限らない。
ちょうど我々が工場へ行った時、市の書記が視察に来ていた。だから工場長が正面玄関に立っていた訳だ。市政府の支援ももう少し欲しいとのこと。この視察を機に市を揚げて六堡茶の売り込みに努めてほしい。
4月12日(金) 李さん登場
朝、船の動く音で目覚める。ここは河沿い、カーテンを開けると曇り空ながら、河と向こうの山が見える。何とも長閑な景色、今回私はこの景色を見るためにここへ来たかのようだった。梧州は歴史的には古い街、広東省へ流れる珠江の源流である西江を要し、以前は交通の要所として、商業で栄えた。お茶の集積地がここにあるのも頷ける。
何だか体調も良くなり、朝飯を食べる。お粥を探そうとしたが、ここは最初からセットメニュー。お粥と焼きそば、野菜炒めとフルーツ、それに豆乳が付く。これは多過ぎた。お粥と豆乳で満足。ここの従業員は非常に若く、接客業には全く不慣れな若者ばかり。セットメニューを持ってくる以外、何も考えられないようで、何となく微笑ましいが、やはり困る。ここにも労働力不足の一端が見えた。
9時過ぎにバンコックのポーラから紹介された李さんがやって来た。想像していたより若い。35歳。角刈りでちょっと怖そうな印象があるが、日本の俳優にもいそうななかなかいい男だ。最近結婚したと言う。オジサンと一緒に店をやっており、既に10年選手だ。部屋で六堡茶について色々と聞き始めたが、六堡鎮という産地へ行くのはかなり大変であるという。道が悪いらしい。特に今は雨季、車で進めるかどうか。茶の歴史については先ずは何はともあれ、茶工場へ行くことに。そこで分かると言う。
2.梧州 ホテルの周囲は茶屋だらけ
麗港酒店は思っていたより、ロビーが立派なホテルだった。料金表も500元以上したので、どうしようかと思ったが、体調も考え、泊まることにした。ただ料金を聞いてみると338元、そして部屋へ行って見ると、何と、相当広い部屋で、かつ横を流れる西江が良く見える良い部屋だった。浴槽も付いていた。朝食付きでこれなら安い。
逆に広すぎて、寒く感じるほど。兎に角4月だと言うのに、気温は20度以下。今日は雨も降っていて、一層肌寒い。ネットはケーブルで繋がったが、スピードは遅い。まあ、繋がるだけマシか。体調を考慮して、李さんの夕食の誘いを断ってしまった。申し訳ない。夕食を抜くことも考えたが、朝も昼も食べていないので、粥でも食べようと外へ出た。驚いたことにこのホテルの回り、お茶屋ばかりなのだ。何故だろうか。そしてレストランはあるが、海鮮ばかりでとても食べられない。この辺は観光客が多い所なのだろう。
少し歩いて見たが、この街は川沿いにかなり細長い。粥屋は見付からない。帰ろうかと思った時、牛排粉という字が見えた。何となくウマそうでその半屋台の店へ入る。牛排粉とは、きしめんのような麺に、文字通り骨付き牛肉がドカンと入っているスープ麺だった。腹が減っていることもあったが、このスープが腹に浸みた。美味い。麺も結構量があったが、あっと言う間に平らげる。これで8元。安い。帰りは気分よく戻る。寒さも感じなかった。
《梧州お茶散歩》2013年4月11-15日
2012年、バンコックでお茶会を始めた。その時、バンコック市内でプーアール茶の店を開いている中国人、ポーラと知り合った。彼女は英語もタイ語も出来たが、普通話でお茶の話をするとすぐに意気投合した。これもお茶の力だろう。ポーラの出身地は雲南省ではなく、広西壮族自治区玉林。この近くに梧州という街があり、六堡茶と産地なので行って見ると良い、と言われ、行くことにした。アレンジはポーラが梧州のお茶屋さんに連絡してくれ、受け入れてくれることになった。だが香港から梧州までどうやって行くのか?何となく佐敦を歩いていると、偶然にも梧州行き直通バスを発見。これで行くしかない。
4月11日(木) 梧州まで 直通バス
実は前日は体調がすぐれなかった。梧州行きを一日延期して、今日にした。バスで7-8時間掛かると聞けば、体調が悪いととても耐えらないと判断した。それは正解で体調は回復傾向になったが、今度は雨が降っていた。DBからバスに乗る。いつもはサニーベイでMTRに乗るのだが、何故かその日は東涌行きに乗る。それ程時間は違わないと思っていたが、それは大きな間違い。東涌まで5分程度余計にかかり、東涌からサニーベイまで7分かかる。そんなことが積み重なって気が付いてみると、バスの集合時間が迫っていた。雨の中何とか走って集合場所へ。
バスは12時半に乗り場にやって来た。流石香港は正確だ。その後九龍駅のターミナルを通過、ほぼ満員の乗客。だがこの人々、香港人なのか、広西人なのかよく分からない。運転手も含めて、皆が広東語を話している。因みに運転手は2人いて、交代で運転していた。これも珍しい。安全対策だろうか。1時間弱で境界線のあるシンセン湾に到着。ここは以前も通ったが、通行者が比較的少なく、スムーズに越えられる。今回は特に人が少なく、あっと言う間に中国側へ出てしまった。ここでゆっくりとトイレに入り、これからの長旅に備えた。約1時間待って、全員が集合し、出発。
広東省内をバスは走る。相変わらず雨が降っており、景色は良く見えないが、家が並んでいる所あり、水田地帯あり、でなかなか面白い。1時間半ほど経つと、乗客の女性たちが騒ぎ出す。どうやらトイレ休憩を要求しているようだが、運転手は何とイヤホンをして運転。最初は聞こえていないようだった。運転中にイヤホン、有り得ない。結局それから40分ほどして休憩。ところがそこで何故かバスの修理が始まる。これはハプニングかと思ったが、20分ほどで終了。その間、乗客はマントウや団子などをゆったりと食べて待つ。
あたりが暗くなりかけた午後7時、無事梧州に到着。私は今回の受け入れ人、李さんの言うとおり、最後までバスに乗り、麗港酒店で降りて、そのホテルにチェックインした。
4月7日(日) フィリピン人と間違えられる
マニラ最終日。何となく慣れ親しんだこの街、離れがたいが、疲れも相当に溜まる。今日は夜便なので時間を潰す必要がある。しかしもう歩く気力はない。午前中はホテルでゆっくりして、チェックアウト、荷物を預けて、ショッピングモールグリーンベルトへ。もうすでに行った場所だが、ここならホテルからも近く、何より涼しい。
先ずは腹ごしらえと、先日Fさんから勧められた地元のレストラン、Max'sへ行く。どこのモールにも大体あるようだが、このグリーンベルトのお店は大繁盛でお客が溢れていた。ちょっと待って店内へ案内される。普通は4-10人がけのテーブルだが、ちゃんと1-2人用シートがあり、便利。何だか幅広い顧客を念頭に入れているようだ。一番驚いたのは、ある意味でファーストフード店であるこの店で、テーブルごとに担当が決まっていたこと。私の所にも若い男の子がやって来て、「何かご用命があれば私に」と言って、オーダーを取って去って行く。不思議な感じもしたが、良いサービスだなと思えた。
その後先日シンガポールで取材したTWG(http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5658)の店を探す。このTea Shopチェーンはアジア各地の一等地にのみ出店しており、お茶文化が無いマニラにも店を出していた。店内はお客で埋まっており、観光客を含めて多様な層を取り込んでいるように見えた。「フィリピン人も珈琲ばかり飲んでいるわけではない」との店長の言葉が印象的。茶畑が無いと言われるフィリピンで、お茶のブームは来るだろうか。
今回のマニラ滞在では暑い中、良く歩いた。結果自分でも分かるほどに顔が日焼けしてしまい、黒々としてきた。すると滞在3日目あたりから、道を歩いているとフィリピン人の女性から道を聞かれ、4日目にはショッピングモールで男性から店の場所を聞かれ、そして今日はグリーンベルトで3回も道を聞かれた。「私は外国人だから分からない」と英語で答えると、若い女性は目を大きく見開いて、黙って行ってしまったが、年配の女性は「あなたがフィリピン人出なくて誰がフィリピン人なの」という最上級の褒め言葉を頂き、更には別の女性からは「あなたは完璧なフィリピン人よ」とダメを押された。
今まで一度もフィリピン人に似ていると言われたことが無かっただけにこのマニラでの反応は意外だった。だが後日香港の居酒屋で日本人3人で飲み会をしている時に、ウエートレスが偶々フィリピン人だったので「この3人に中でフィリピン人に似ている者はいるか」と聞いてみると、彼女は真っ直ぐに私を見て「ユー アー フィリピーノ」というではないか。私のどこがそんなに似ているかはいまだに謎だが、これが危険な目に合わなかった最大の要因なら感謝しなければならない。
その後は疲れたのでスタバでネット。ここは本当に大繁盛で席を確保するのが大変だった。特に電源のある場所を見付けた時はホッとした。向かいに座ってフィリピン人が実に流暢な英語で話し掛けてきて、ひとしきり雑談していると、何と無料WIFIの時間が終了していて、結局あまり活用できずに終わる。しかしこれだけ混んでいると時間制限したくなる気持ちは分かる。
仕方なくホテルに戻り、荷物を持ってタクシーに乗り込む。運転手はまたもや陽気で誠実。何の問題もなく、30分で空港に到着、料金も250pだった。だが空港入り口は荷物検査があり、大混雑。急いでいる人は大変だろうと思うほど、待たされ、更にはチェックインカウンターも長蛇の列。何とかならないものだろうか。
そしてカフェでネットをやり、搭乗時間に合わせて搭乗口へ向かうと、何と突然のゲート変更。何のアナウンスもなく、走って新ゲートへ行く羽目に。これもまたフィリピン。兎に角無事にマニラを離れ、ホッとするやら、物足りないやら。
完
キアポ
次に行く宛がなかったが、ホテルに戻る方法も分からない。仕方なくグリーンヒルに来たバスに乗り込む。どうやらキアポという所へ行くらしい。終点までの切符を買う。少し渋滞したせいもあるが、このバス、なかなか目的地に着かない。途中でLRTの駅が見えたので降りようかと思ったが、そのまま進んでみることに。
1時間ぐらい乗って、ようやくキアポに到着。実に立派な教会があり、そこを起点に市場が形成されていた。門前町の雰囲気。ずっと歩いている内に、少し雰囲気が違うが所へ出た。そこはイスラム教徒の居住区だった。この辺りは貧しい。後で聞くと、この辺はマニラでも一番危ない場所、とされているらしい。確かにその雰囲気はあった。
何故かすぐ近くにマラカニアン宮殿があると聞き、行って見ることに。直ぐと言っても結構歩いたが、付近は下町風でとても宮殿があるとは思われない。ずーっと行くと、立派な門がある。ここはマラカニアン宮殿か、と門番に聞くと、そうだ、という。だが許可なく入ることは出来ないとも言う。「日本から態々来たんだ」と言ってみると、上官が出て来て、「写真は撮るな」といって見学は許してくれた。
中は住民が住む居住区だった。その一角に立派な建物があり、昔マルコスが住んでいたんだろうな、と思われたが、きっと言われなければ分からないような建物。イメージ先行で来てしまい、ちょっとビックリ。更に中へ入れば色々とあるかもしれないが、そこの門は固く閉ざされていた。
取り敢えずさっきバスを降りた教会までジプニーで戻る。流石に疲れた。外は本当に暑い。もうこれ以上は限界だと、ジプニーを探すが、良く分からないので適当に乗る。今度は本当にどこを走っているのか分からず、とうとう終点まで来たが、どこか分からない。直ぐ近くに動物園があり、位置を確認。再度ジプニーに乗り、何とかリベルタードへ。
そこで昨日も両替した両替所へ。ところが今日は両替できないという。実は昨日身分証の提示を求められた時に香港のIDカードを出していた。どうやらこれはダメだったらしく、断られる。困っているとおばあさんが「道の向こうにあるよ」というので行って見ると、確かに両替所があり、しかも身分証提示不要だった。どうなっているのか。