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【第9回地球にやさしい中国茶交流会のご案内】


エコ茶会、10月19日、20日浜松町です。私は20日のミニイベントに登場します。
ご興味ある方は是非お出で下さい。


 http://ecochakai.jp/modules/2013Tokyo/minievent.html

 
ご縁を頂いている皆様へ

皆様、こんにちは。大変ご無沙汰しておりますが、お元気でしょうか。
昨日タイ北部チェンライの茶園ツアーからバンコックに戻ってきました。

来週はビエンチャン、10月初旬はマレーシアを旅して、
10月中旬に上海経由で東京に戻る予定です。
皆さん、何かのイベントや集まり、また個人的に会ってみたいという方など大歓迎です。
是非ご連絡ください。

またこの機会を利用して6月以来の「寺子屋ティーサロン」
アジアほっつき歩る記報告会を開催したいと思います。

今回はモンゴル、韓国、ラオス、タイ(そして日本)などの
ビジネス事情、お茶事情を中心にご報告します。
お忙しいとは思いますが、是非ご参加ください。

・日時    10月27日(日)午後2-4時半
・場所    恵比寿
・発表者   須賀 努(アジアンウオッチャー)
・演題    「アジア各国最新事情」
・参加人数  10名程度(参加受け付けは先着順)
※5名以上参加で開催します

・参加費用  2,000円




参加可能な方は早めにご連絡ください。お待ちしております。

 

 

ホテルが出来た

高さんと村を歩く。今泊まっている所はご主人の実家。高さんの実家は歩いて15分ぐらい離れた別の村。ご主人の村は張姓、高さんの村は高姓が多いそうだ。確か台湾の木柵鉄観音の産地も張姓が多かったような。150年も前にこの辺りから茶の種でも持って移住した人々がいるのだろうか。興味深い。

高さんの村の方にホテルが出来たというので行って見た。村にホテルが出来る、というのは、外から人が来る、ということになるが、一体誰が来るのだろうか。ホテルは10階建てぐらいで立派に建っていたが、中に入っても客らしき人はおらず、従業員が皆で茶を飲んでおしゃべりしていた。1泊、160元。ネットは繋がる時は繋がる、と面倒くさそうに説明して、女性従業員はお茶の輪に戻って行った。ここは台湾系資本だというが、やはり郊外に出来た茶工場と関係あるのだろうか。




実は高さん達が今回私を受け入れてくれた要因の一つがこのホテルの存在だった。昨年このホテルが出来るまでは村に人を泊めるような場所は無かった。まして外国人がやって来て、もし普通の家の生活が難しいとなれば、どうしようもなくなる。農村の人はそんな所に気を使ってくれていた。勿論私の場合、張さんの家に入るなり、そこが気に入ってしまい、そのまま居ついてしまったのだから、心配は杞憂に終わっている。

村には役場があり、その前に広場へ行くと『毛蟹茶王賽』と書かれた看板が見えた。村では鉄観音だけではなく、新しいブランドを求めているようで、品評会などを開いている様子が伺われた。そもそも昔は市場でも鉄観音と毛蟹、本山、黄金桂などは区別されて売っていたのだが、数年前には本山や毛蟹という名称は姿を消しており、何でもかんでも有名ブランドである鉄観音にしてしまったきらいがある。名称を細かく分ければ何かが復活する訳ではないが、キチンと分けた方が良いかと思う。




村では雨も上がったので、方々で茶葉を路上に出して干していた。まるで近所を掃除するかのようにおばさんが箒で茶葉を掃いていた。何とも長閑な光景であった。家へ戻ると張さんが作った茶葉を天秤棒で運んできた。これでまた女性たちの仕事がやって来た。その日も遅くまで作業は続いた。私は環境のせいか、寝つきが良く、直ぐに寝てしまった。





 

村の抱える問題

 

張さんには息子がいる。孫もいる。一緒に住んでもいる。だが息子は張さんのやって来た伝統製法を捨て、機械での茶作りを選んだ。確かにあれだけ大変な作業を子供の頃から見ていれば『もっと楽に儲けたい』と思うのも無理ないことだとは思う。

 

最近の促成栽培、促成製法は機械に頼っているうえ、どうしても作業工程を省略するなど、いわゆる手抜きが行われる。それで質の良いお茶が出来れば問題ないのかもしれないが、現実はそうはいかない。きちんとした作業をしないと質は低下していく。質が低下すると飲む人が減り、価格も下がって来る。価格が下がると収入を確保するため、更に大量に質の悪い茶が作り出され、市場に出回って行く。これはもう完全に悪循環。結果として農家も農村も疲弊していく。安渓だけの問題ではなく、中国の至る所で起きている問題ではなかろうか。


 

もう一つの大きな問題は収入が減ることによって、村を出ていく人が増えること。息子には嫁さんがいるはずだが、一度も見掛けない。聞けば泉州に出稼ぎに行ってしまったらしい。とっくに茶業に見切りをつけている。『この村の働き手で残っている者は普通話が下手なんだ』と言われたが、確かに村の方言だけでは余所の場所では通用しないので、村に残らざるを得ない人々もいる。


 

母親がいない寂しさか、孫は勉強もせずに遊びまわっており、時々父親と喧嘩になる。私がいた時も階下で怒鳴り声が聞こえてきた。この閉塞感の中で皆苦しんでいるように見える。かと言って、いまさら伝統製法には戻れないし、もし戻ったとしても、その価値を評価して適正な価格で買ってくれるお客さんがいなければ、どんなに品質が良い茶でも意味はない。


 

午後村を回ってみる。お婆さんたちが総出で茶葉の選別作業をしていた。遠目に見ても、きれいな緑の茶葉が並んでいる。しかし鉄観音本来の色はもう少し黒っぽい。手を抜くと緑茶に近くなるので緑が映えて来る。観光客には見栄えがいいし、手間が掛からないのでこちらが好まれる。だが何度も飲むわけにはいかない、そんなお茶である。


 

 

 

【ぶらぶらバンコック滞在記2013】  9月15日(日) 交通渋滞

『最近はどこにお住まいですか』と会う人に聞かれると、一応『バンコックをベースに活動しています』と答えるようにしている。が、『じゃあ、いつでも会えますね』と言われると『それがちょっと・・』と心もとない返事になる。正確には『バンコックに荷物がある』という表現が正しく、7月は10日、8月に至っては4日しかバンコックにはいなかったのだから、住んでいるのではなく、旅の通過拠点の位置付けとなっている。

ただ折角バンコックをベースにしているので、ここで気が付いたことを少しずつ書き溜めてみたいと思うのだが、前回のように単に日記として書くと散漫なので、今回は新たな試みとして梅棹忠夫著『東南アジア紀行』を読みながら、50年前のタイと今のタイがどう変わっているのか、またタイの本質とは何かについて、考えてみたい。因みに梅棹氏が大阪市立大学の調査団でタイを訪れたのは1957-58年、1961-62年に2回、50年ほど昔のことになる。

驚くべきことだが、梅棹調査団は日本から自動車を3台も持ち込み、自分達で運転していた。当時タイには車があまりなかったのだろうと私は勝手に解釈していたが、実は違っていた。『街はおびただしい車の氾濫だ。朝夕の通勤時間などにぶつかるとひどいことになる。一寸きざみだ』と書かれている。勿論今ほどの渋滞ではないにしても、50年前もバンコックは渋滞の街だったことが分かる。

先日朝7時半頃ドムアン空港に行こうと思い、スクンビットの外れでタクシーを拾ったが、運転手が『おー、ドムアン』と叫んで頭を抱えてしまった。確かにそこは地獄のような混雑で、高速代金110バーツはどうしても返金して欲しい、と思うほどだった。幸い飛行機には何とか間に合ったものの、これからは早朝に家を出ないと怖くて行けない。




梅棹氏は更に書いている。『感心するのは割り込み、追い抜きが1台もない。みんな、行儀よく待っている。交通ルールはまことによく守られている』これはどうだろうか、現在のタイは中国などに比べれば格段にマナーは良いと思うが、日本を基準にすればどうかな。また『あまり急がない』というタイ人の気質が影響して、ひどい割り込は無く、逆に道を譲るなど、日本より優しい。今後社会がどんどん忙しくなれば、ルール無視も出てくることだろうが。




だが『交通事故は非常に多いようだ』とし、その原因として『運転技術が格段に下手』とも書かれている。当時は車が出始めの頃で運転に慣れていない人が多かったということか。今でも『新車がどんどん増え、初心者が運転している』ことを思えば、状況は50年前とあまり変わらないのだろうか、確かにどうしてこんな事故がと思う場面を時々見掛ける。

因みに1990年代前半に出張で何回かバンコックに来たが、その渋滞のすさまじさは今とは比べ物にならなかった。『1㎞行くのに1時間以上』『車に乗る時には簡易トイレを用意する』などと言われた街。実際アポイントに間に合わずに、車を降りて走ったことも何回かある。汗びっしょりで訪問先に着くと『マイペンライ』と言われ、また汗がどっと噴き出したことが昨日のことのようだ。今はBTSも地下鉄もある。それでも暇人な私は、バスなどに乗って、埃にまみれながら、バンコックの街を眺めている。

 

5月6日(月)   朝もはよから

疲れていたせいか、与えられたベッドに横になると直ぐに寝付いてしまった。そして朝までぐっすり。鳥の囀りで目覚める。理想的な目覚めだ。時間は朝6時前、周囲は明るく、おばさん達は既に起きていた。そして7時前に朝食が始まる。食べ終わるとおばさん達はまた茶葉を取りだし仕分け作業を始める。本当に地道な作業だ。何がそこまでさせるかと思うほど、黙々とこなしていく。近所のおばさんもやってきた。




私は散歩に出た。道端ではアヒルが伸び伸びと歩いていた。霧雨が降っており、今日も茶摘みはないようだ。茶畑に人影はない。ずーっと歩いて行くと工場が見えてきた。台湾人が投資して建てたという。何のためにこんな所に工場を?ある人曰く「台湾人は鉄観音というブランドが欲しいだけで、ここで茶を作ろうとは考えていない」と。確かに工場が稼働している様子は無い。




工場の前の丘に登るとこの街が一望できた。茶畑があちこちにある。元来がお茶の街なのだが、近年は金儲けに走る安易な製法で評判を落としている。手で作る世界を捨て、何でも機械で行い、促成栽培製法で、大量生産に走る。何とも残念な話だ。




近くに廟があった。中に入ると「毛蟹の故郷」の文字が見えた。お婆さんがやって来て、まあ茶でも飲んでけ、とばかり杯を差し出した。お茶を飲むのが当たり前の世界。ただ数十年前は自分で作った茶を自分で飲むことが出来ない時代もあった。国営時代は厳しかったという。現在は個人経営だから、何をしても良いのだが、それが結果として茶をダメにした。地方政府は打つ手がないのだろうか。




午前中から張さんと茶を飲む。張さんはもう本当に春茶は作らないと決めたようだ。「雨のお蔭でゆっくり話が出来る」と余裕のコメント。確かに茶作りが本格的に行われていれば、朝から茶など飲んでいられない。2階で作業している女性陣も呼ばれて降りて来て茶を啜る。私というお客がいたから、良いお茶が飲めた、とケタケタ笑いながらまた作業に戻る。







午後もぼうっとしていたが、再度茶作りの作業場へ行って見る。するとなぜか途中の道で張さんが何かしていた。「たけのこ、採ってるんだ。美味いぞ」と笑う。そして近くに生えていた巨大な長芋?も掘り起し「今日は大量だ」と叫ぶ。今日のご飯はその辺で調達する、何と自然な動作なんだろうか、と感心した。


 

シンプルな夕飯と夜なべ

雨がしとしと降っていた。張さんは相変わらず、火を入れた茶葉を時々混ぜている。そして黙って茶を飲む。その寡黙な姿勢が伝統的な農民を感じさせる。製茶作業は茶葉を摘んでから2日間、ほぼ寝ずに行う。「俺はもう歳で正直しんどい。引退したい」、と張さんは笑いながら話すが、そういう話が出ること自体、本当に大変なのだろう。来年は作らないかもしれない、この言葉が現実味を帯びてくる。もし香港の店でこの話をしていたら「こんないいお茶、勿体ない、ずっと作ればよいのに」と暢気なことを言っていただろうが、現場を見ながらだと、とてもそんなことは言えない。




高さんと先に帰ることにした。高さんは茶畑を歩きながら「この辺りは実は毛蟹の産地なんだ。勿論鉄観音もあるが、量は多くない。毛蟹を作る茶葉は一目で分かるよ。このちょっと薄いヤツ」と言いながら、葉を手に取る。残念ながら私には直ぐには違いは分からない。高さんは20歳過ぎまでこの地で育ち、茶を見て、実際茶葉を摘んで、育ってきた人。まさに年季が違う。




家に戻るとおばさんが「芋、蒸かしたぞ」と手に持って食べている。私も貰って食べてみると、何とも懐かしい蒸かしイモの味がした。炊飯器で蒸かしている所が面白い。この家、家具はあまりなくシンプルだが、茶を作る道具や籠などは骨董品の部類に入るほど、見た感じが良い。







夕飯は昼ご飯の残りをおじやにしていた。このシンプルさ、実によい。そして美味い。決して豪華ではないが、健康的で、かつ物を無駄にしない生き方。芋も食べていたので、これで十分だった。人間は良い生活環境があり、適度な食事があり、適度な仕事があれば、健康的な一生を送れるのだろう。昔の人は皆このようにして暮らしてきた。それが経済成長だとか、お金だとかいうものに全てを狂わされてしまった。自分の作った物を自分達で食べていく、その生活が壊れて以降、人々には余裕が無くなり、お金の奴隷になってしまったようだ。この村へ来て、感じることは実に多い。




 

夕食後、張さんが茶を淹れてくれた。お客が来た、ということで、村の人も顔を出す。みんな張さんに「今年の茶はどうか」と聞いている。彼は黙って茶を淹れて出す。基本的に閔南語で話すので良く分からないが、「雨が多い」とでも言っているようだ。そして張さんが私に「今年の春茶は終わった」と一言。でもまだ茶葉が沢山あるだろうというと、「雨で伸びすぎた、良い茶はもうできない。あれだけ苦労して不味い茶を作る気はない」ときっぱり。職人さんなのだ、張さんは。




2階では午後9時まで作業が続いていた。茶作りのシーズンだけとはいえ、男も女も重労働だ。これであまり儲からないとなると若者が逃げ出すのも分かる気がする。しかし美味しいお茶を作るとはそういうことなのだ。

 

茶作り

茶縁坊の息子はいなかった。どこにいるのだろうか。尋ねると高さんが『行こう』という。そして家から出て村を出て山へ向かう。今にも雨が降りそう。既に地面が濡れているのは午前中も雨が降ったのだろう。今日茶摘みはなかったそうだ。足を滑らしながら何とか着いて行くと、茶畑が段々畑になっている。1つずつはかなり小さい。




ようやく山間の家に着いた。斜面に建てられたその家は古風で何ともいい感じだった。中へ入ると息子とおじさんがいた。このおじさん、高さんのご主人のお兄さん、張さん。彼が茶縁坊の鉄観音茶を全て作っている。今日茶摘みはなかったが、昨日摘んだ茶葉の処理を行っていた。ちょうど重要な火入れの最中。かなり気を使って何度も手で籠を掻き回していた。この作業が茶の味を決める。




先ずは出来立ての茶を飲んでみる。非常に地味だが、甘い香りがした。そして飲んでみると口の中に甘味が残る。何だこれは、茶杯がまるでワンワン言っている感じで、実に、実に美味い。その一言しか出ない。カップに残った香を嗅ぐ。これはすごい。天然の水を使っており、水そのものがほんのり甘いのだ。これは昔行った潮州の山中で出会ったものと同種だった。やはりここと潮州、雰囲気も似ており、文化を一にしているようだ。







「昔は家族でここに住んでいた。空気もいいし、環境も良かった。でも不便だということでかなり前に今の家に引っ越し、ここは作業場になった」のだという。20年も前に、日本人を含めた外国人調査団がこの村にやって来て、皆がこの家に泊まりたがったという。それは分かる気がした。因みに当時は貧しい村の様子を写真に撮られるのを村の役人はひどく恐れていたそうだ。時代は変わった。「夜ここで寝ているとお化けが出るぞ」、張さんがおどけて見せた。


 

昼ごはん

村に入った。高さんの故郷、安渓県大坪郷萍洲。静かな山間の村だった。道沿いの建物に入る。薄暗い2階ではおばさん達が麻雀卓でも囲むように、作ったばかりの鉄観音茶の枝と雑物を取る作業をしていた。我々が入っていくとすぐに『ご飯、ご飯』とばかり、茶葉を片付け、小さなテーブルを出し、炊飯器と鍋が置かれた。椀を一つ渡され、食べろ、という。スープをすくう。




スープにはのりと豆腐が入っていた。いやー、これは台湾だ。台湾と同じスープだ。美味い。どんどん飲む。台湾でも中国でも農家では椀一つでご飯を食べる。スープを飲み終わらないとご飯にありつけない。ご飯はなんと野菜ときのこの炊き込みごはんだった。何とも懐かしい味。思わずお替りした。




面白いのがおばさん達はご飯をよそうとそのまま立って食べている。低い椅子もあるので、座って食べる人もいる。皆忙しいからだろうか。私は物を置いている台に座って食べた。何となく好ましい。こんな飾らない昼ごはん、いいな。

食後は昼寝でもして休むのかと思いきや、またすぐに茶葉を出し、作業が始まる。この時期、仕事はまさに掻き入れ時。その細かい作業には恐れ入る。これを一日中やれと言われれば頭が痛くなりそうだ。誰が誰かよくわからないが、紹介はない。オイオイわかるだろう。


 

5月5日(日) 3. 大坪  大坪まで

 

翌朝、安渓の大坪から迎えの車が来た。香港の茶荘、茶縁坊の高さんがわざわざ来てくれた。茶縁坊との付き合いは長い。2001年2回目の香港勤務になった時、上環に新しくオープンした茶荘が茶縁坊だった。それから12年、これまで何度も茶園に行ってみたいと思っていたが、実現しなかった。それが今回・・。

 

車は厦門市内を抜け、洋風の学校がある集美地区を通り、一路安渓へ。13年前も安渓を目指したが、その時は手前の官橋にある安渓茶廠までしか行かなかった。茶畑は見なかったのだ。その時は道も悪く、相当の時間がかかるとのことだったが、今や舗装道路だけでなく、高速道路まで出来ており、道もよかった。


 

 

途中同安という街で停まる。昔ペナンだったか、シンガポールだったかの華人関連の博物館で福建省同安出身者を見たことがある。この辺りから安渓まで、山が続き、作物が取れず、厦門まで歩いて行って船に乗り、東南アジアへ出稼ぎに行ったのだろう。一体どんな思いでここを歩き、海を渡ったのか。

 

農家では基本的に自分の食べる野菜は自分で植えるが、今は時期的に野菜が少ないので、買い足すらしい。実に昔の雰囲気の野菜売りが並ぶ。聞けば値段は相当に値上がりしているらしい。高さんは慎重に野菜を選び、値段を確認し、買っている。この辺は農家出身、見る目は厳しい。


 

 

それから山道へ入る。途中で安渓へ行く道と分かれ、山登りとなる。安渓と言っても相当広い範囲の土地を指すらしい。これまでの茶旅のように単に安渓の街を目指しても、茶畑には容易に辿り着かなかったことが分かる。かなり急な坂道を上る。それらしい山の風景となる。標高が上がり、空気が変わる。そして、ちょっとずつ茶畑が見えてくる。気持ちがワクワクする。それは毎度のことだが、いいものだ。


 

 

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