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古き台北を思い出す

 

 

ホテルへ戻り、すぐまた出かける。ちょっと腹が減ったのだ。時刻は午後4時半、こんな時間でも店が開いているのが台湾。いつもで誰かが食べている。横道の奥に行列があった。フライドチキンを売る店だった。私も並ぶ。注文を受けてから揚げるようで12分待て、と言われる。


 

私の前に並んだのは軍服を着た若者だった。昔台北で勤務していた頃、『台湾の男子には兵役の義務がある。通常3年だが、金門へ行けば1年で帰れる』と聞かされ、金門島は大陸との最前線、何があってもおかしくない場所、というイメージが刷り込まれていた。今はどうなんだろうか。金門へ行けば1年は、既に死語ではなかろうか。いや、兵役そのものが緩やかになっているのだろうか。この島に緊張感はない。

 

ホテルの部屋で揚げたてのチキンを食べる。確かにうまい。台湾は食べ物に外れが少ないが、大陸とのクオリティの差が非常に感じられる。ホテルにはテレビがあり、有線放送で日本語チャンネルがある。日本のドラマを流しており、見入ってしまう。朝の連ドラ、梅ちゃん先生、だった。ここにも台湾が感じられる。


 

夜は街に出る。街と言っても小さいが、その雰囲気は30年前の台北に酷似している。言葉では表現できない、ちょっと薄暗い、独特の空気がある。ある意味で映画のセットのようなところ。台湾のどこの街にもある演劇の舞台もある。いいなあ、この雰囲気、忘れていたものが様々蘇る。





 

夕飯は魯肉飯。ひっきりなしにお客が来る店で入るのを躊躇っていると目のあったおばさんが『入りなよ』と促してくれる。店にはあの昔の活気がある。湯気が上がる。いい感じだ。普通魯肉飯は小さな椀だが、ここでは大きな椀に盛られてくる。雲吞スープも飲むとすぐに腹いっぱいになる。これで200円ぐらいだからまた食べたくなってしまう。古き良き台北に浸った夜だった。ここだけに残っているベストな観光地だった。





 

 

古寧頭の古戦場を歩く

 

 

金門島は今では静かな島だが、第二次大戦後、国民党と共産党の争いの中、戦火を交えた場所でもある。『この命、義に捧ぐ―台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(門田隆将著)で近年日本でも知られるようになったが、1949年の古寧頭戦役で国民党が勝利したことにより、共産党の台湾攻略が失敗に終わり、今日の状態が続いているともいえる。この戦に旧日本軍の将兵が大きな役割を果たしていたとすれば、歴史的には大きな意味がある。

 

バスターミナルで時刻表を眺める。古寧頭の戦場跡は行ってみたかったが、何しろ足がない。バスは12時間に一本、古寧頭戦史館に向けて走っている。取り敢えず乗ってみることにした。運転手に行先を告げると怪訝な顔をされた。恐らく観光客でこのローカルバスを使う者などいないのだろう。本当にそこへ行くのか、という顔をしていた。バスは田舎道をゆっくり走る。途中で雨が降り出した。20分ほど行くと、戦史館に到着。降りたのは私一人だった。雨を避けて走って館内へ。無料。中は古寧頭の戦史が絵や写真で語られている。何しろ、国民党の輝かしい勝利の歴史だ、宣伝もやかましいほど。







 

そしてその展示物をガイドの案内で見て回っている団体は中国大陸から人々だった。彼らはどう思っているのだろうか、この戦役を、などと考える必要はない。殆どの人は初めて聞く話、という感じで、蒋介石の絵などの前では『知っている人がいる』と指をさす。既に中台にわだかまりはない。いや、大陸側にはないというべきか。


 

戦史館見学は早々に切り上げる。そしてバスで来た道を少し戻る。そこには戦場の跡があるように見えたから。行ってみるとトーチカ跡などがあるにはあったが、全て後から作られた、または補修されたもので、当時の様子をじかに伝えているようには見えなかった。






 

そこから海を見に行きたいと思ったが、実は意外と遠いようで歩いて行ってもなかなか見えず断念。金門島には当時の歴史を伝える場所がいくつかあるようだったが、一方現地の人々はその歴史を忘れたい、と思っているように感じられた。

 

バスで先ほどの道を戻ろうと思ったが、相当に時間が余る。再度時刻表と路線図を眺めると、何と先ほどのバスは循環して元に戻ることが分かる。そして私はそのバスに乗り、1周してバスターミナルへ帰った。途中海が見える場所もアリ、降りてみたい場所もあったが、降りてしまうと足がないので眺めるだけにとどめた。


 

 

両替

 

 

部屋は掃除中なので、先ずは両替。ホテルからすぐのところに台湾土地銀行があった。昔は政府系のお堅い銀行だったが、どうだろうか。恐る恐る入っていくと、如何にも昔の銀行の店舗という雰囲気、両替レートが出ている。人民元を両替したいというと、オジサンが対応に出てきた。元とパスポートを渡すと『お前、どっから来たんだ』と完全に怪しまれる。





 

確かにそうだ。日本のパスポートを持って、人民元を両替にこの島にやってくる人、しかも簡単だが中国語を話す、となれば、『中国人が帰化したんだろう』とでも思ったらしい。スパイ容疑?私が『20年前は台北にいて、台湾系銀行に在籍していた日本人』と話すと、何だか急に親切になった。

 

『ここには中国人が両替に来ることも殆どないからびっくりしたよ』とオジサンは言う。そして日本がどうしたこうした、と話に花が咲く。不思議な空間だ、ここは。大陸の人間は台湾へ行ってしまうか、観光客でも決まった場所しか行かないようだ。人民元が簡単に両替できることに少し驚いたが、よく考えてみれば金門島が人民元を受け取らず、台湾ドルへの両替を促していることがせめてもの救いのだろうか。そうでないと飲み込まれてしまうほど、この島は小さい。

 

外へ出るとなぜか葬式の行列に出くわす。これも実に台湾を感じさせる。車を何十台も連ねて、市中をゆっくりと走る。死者の弔いとしてはちょっと派手に感じられるが、悪い気はしない。





 

 

古きよき台湾のサービス

 

 

諦めたのはいいが、ではどうするか。港で貰った地図を広げると、この地区の街まで3㎞はありそうだ。歩いていく自信はない。仕方なく通りに出るとバス停があった。時刻表を眺めたがよくわからない。と思っていると、向こうからオジサンが何か叫んでいる。『このバスに乗らないのか』と言っているようだ。見ると道路の反対側にバスが停車しようとしていた。

 

慌てて道路を渡り、乗り込む。このバスは一体どこへ行くのだろうか。えい、どうにでもなれ、どうせ大したことになりはしない、という持ち前のいい加減さで行く。バスには子供やお年寄りが乗っていた。取り敢えず座っていると、やがて街らしきところへ入ってきた。終点のバスターミナルで降りた。12台湾ドルだった。運転手さんも何故か親切。ここは台湾だ、大陸の緊張感はない。


 

周囲をキョキョロすると、ビジネスホテル風の所が見えた。かなり疲れていたので、そこへ飛び込む。狭い受付に行くと、お姐さんがいきなり『こんにちは』と日本語で言った。泊まりたいというと一生懸命日本語を使ってくれた。ただ部屋がないという。残念だが、と諦めようとすると『ちょっと待って』と言い、誰かに電話をしている。そして『1部屋、1800ドルね』とにっこり。こちらも釣られてにっこりしたが、財布はニッコリしなかった。何と1600ドルしか入っていなかったのだ。


 

正直に伝えて出ていこうとすると『ちょっと待って』と言って、またどこかへ電話。そして、『いいよ、1600で』と。何という対応だろうか。元々は部屋が無い、から始まり、今は値下げになってしまう。しかし台湾では昔も何度かこういうことがあった。『日本人』であることが、なぜかそのような厚遇を得てしまうのだ。素直に有難うと言い、チェックイン、と思ったが、そこは台湾。『あなたの部屋は掃除中、荷物はフロントで預かる』という。だがフロントと言ってもちょっと心配なぐらいなスペースしかない。PCも入っているし、無くなると困る。

 

強引に部屋のカギを貰い、荷物を部屋に押し込もうとした。だが、部屋はおばさん二人ががりでまさに掃除中。ここに荷物を置くのはどうかな、と思っていると、下からフロントのお姐さんが上がってきて、『あなたの荷物は責任をもって私が預かります』ときっぱり。有無を言わさず、下へ持って行ってしまった。何というサービス精神、ここまで言われるとたとえ心配でも逆らえない。そしてこんなことを言ってくるところはアジア中探してもないのではなかろうか。古き良き台湾を見る思い、素直に感動してしまった。


 

 

924日(火) 雨季

 

 

タイの雨季は6月から10月中旬ぐらいまでだろうか。私は暑いのは平気だが、雨は比較的苦手で、この時期バンコックに滞在するのを避けていた。昔サラリーマン時代の夏休みに、バンコックに来て、夕方物凄いスコールに合い、バス停に取り残された記憶が鮮明であるからかもしれない。周囲の水位がどんどん上がっていく情景、平然としている人々、南の人は強いと思った。

 

毎日のように雨が降っているが、バンコックの人々は少々の雨では傘を差さない。そしてスコールが来れば、どこか屋根の下に避ける。そういえば昔、香港人は傘を持たない、とよく言われた。あれは何故だったのだろうか。

 

『バンコックの雨季は、6月から2か月ぐらいは夕立、あとは夜の雨』と書いてある本があったが、まさにその通り。最近は夜、強烈な雨が降る。土砂降り、楽器でいえばティンパニーの乱れ打ち。きっとタイ人は『あー、もうすぐ雨季も終わりか』などと思っているのかもしれない。実はタイには台風も来る。一日中強い雨が降り止まなかった日、タイに長く住む日本人が『今日は台風でしたね』とこともなげに言う。私には夜の土砂降りとの違いが分からない。


 

一昨年は大洪水があった。日本の歳時記では夕立と出水は夏の季語だそうだが、タイでは雨季の終わりに出水が多い。『出水は雨期の風物詩』とも言われ、毎年起こっているもの。それが一線を越えると、あとは水の流れに逆らうことができなかった、ということだろうか。

 

そんなことを書いているうち、今日も夕方が過ぎ、激しい雨が降り出した。昼間は日差しが強かったのだが、それは嘘のように全てを洗い流していく。

 

民宿はどこ

 

 

フェリーターミナルを出て、小高い公園へ行く。ここから港がよく見えた。そして道をとぼとぼと歩き始めた。歩いているのは私しかいない。時折大型バスが通って行くだけ。すぐに立派な建物が見えたが、これも福建省と書かれた役所。やはり私は福建省へ来たんだ。周囲は他に何もない。





 

15分ぐらい歩いていくと、古めかしい家がいくつも見えてきた。水頭村、ここが劉さんが言っていた古民家が集まる村だった。確かに村自体が保存地区になっているのか、皆古い。しかし人は殆ど出てこない、というより不在のように見える。





     

港でもここに来れば民宿は沢山ある、と言われた。確かに民宿と書かれた建物はいくつもあるが、どこにも人がいない。門に鍵が掛かっている。携帯番号が貼ってあり、用があれば電話しろ、となっているところもある。この古い家には住んでいないが、民宿として客があれば使っているのだろう。そこまでして泊まりたいとは思わない。


 

博物館があったので入ってみる。この村の歴史が綴られてはいるが、あまりよくは分からない。建物だけが非常に気に入る。落ち着いた造りの建物は木々の枝葉がよく似合う。








 

腹が減ったが、この村には1軒しか食べ物屋がない。休日などはもっと沢山開くのだろうが、致し方がない。そこで牡蠣の米麺を食べる。これはなかなか美味しい。この店へ来て初めて、台湾へ来た感じがした。ただ店の人たちは黙々と働いており、何かを聞ける雰囲気はなかった。この村に留まることを諦めた。


 

 

5.金門島  台湾へ行くのか


国際フェリーなので入国審査がある。台湾の入国カードを適当に書き、係に提出したところ、『あんた、ここに泊まるの?それとも台湾へ行くの?』と英語で聞かれる。『台湾へ行く?ここ台湾だろう』と中国語で答えると、『ここは福建省だ』と言い返される。ようは中華民国福建省に私はやってきたわけで、彼女の言う台湾は台北などのある島を指すことが分かった。それにしてもビックリ。

 

そして金門島を観光すると告げると『宿泊先を書け』とまだ通過させてくれない。これから行って決める、というと『では入国させられない』と頑張られる。金門に泊まるか、日帰りで厦門に帰るかも分からないと突っぱねると『ならば携帯番号を書け』と言われ、中国大陸の携帯番号を書いて、通過した。何と携帯は台湾にローミングしており、使えた。

 

そしてイミグレを出てすぐにさっきの係官の聞いていた意味が分かる。台湾系航空会社のカウンターが4つ並んでいたのだ。近づくと1330台北、1400台中などと表示されている。何とここから飛行機に乗れば、台湾へは一っ飛びで行けるのだ。空港までは7㎞離れているようだが、表には専用バスが待機していて、常時乗客を運んでいく。このサービスは速い。現在12時過ぎだから、1時半の台北行(国内線)には十分に間に合う。2時半には松山空港に着いており、3時半には屋台で牛肉麺を食べていそうだ。乗客の動きを見ていると、金門観光者は殆どおらず、皆トランジットで台湾へ帰る(行く)のだ。合点がいった。






 

それにしても何の予備知識もなしに来てしまった。ここがどこかも分からない。出口を出るとタクシーの呼び込みがあったが、どこに行ったらよいかもわからず、途方に暮れる。港とはいえ、周囲には本当に何もない。仕方なく、帰りのフェリーを確認しに隣の建物へ入ると、両替があった。そうか、私は台湾ドルを持っていない、金を持っていなのだ。タクシーにすら乗れない。


 

両替は台湾の銀行の出先が行っていた。人民元の両替はスムーズに出来た。銀行のおじさんは私が日本人だと分かると『島の問題は色々とあるけど、仲良くしような』と言って握手した。不思議な感覚。こんなのは福建省側ではなかなかない。そして親切に私の行くべき方向を示し、地図をくれた。


 

 

4. 厦門2   日本留学生夫妻

 

夜、知人から紹介された中国人女性と会う。彼女はご主人と一緒にホテルに現れた。華僑大廈にある日本料理屋へ入る。お客はあまりいない。食べ放題だというので、彼らはどんどん好きな物を頼んだ。元日本留学生なので、日本食は得意だ。ちょっと違うなという味もあったが、意外とおいしかった。腹一杯食べてしまい、ご馳走にもなってしまった。

 

彼らはわざわざ遠くから私に会いに来てくれて、そして色々と貴重な話をしてくれた。日本企業の置かれている状況、中国民営企業の状況など、現場で戦っている人ならではの話ばかりだった。彼らは日本が好きだが、日本には恵まれなかった。

 

その夜は、3日ぶりにネットが繋がり、遅くまでPCの前から離れられなかった。これでは折角の大坪行きが台無しだが、致し方ない現実がある。

 

5月8日(水) フェリーで金門島へ

 

翌日はちょっと冒険してみようと朝食後出掛けた。何と台湾へ行って見ようというのである。これは知り合いの劉さんが『厦門から金門島はフェリーで直ぐだよ』と教えてくれたので、チャレンジしてみようかと思った次第。ただフェリー乗り場さえ分からず出発。


 

 

華僑大廈の近くからバスに乗り、フェリーターミナルへ行って見る。と言ってもいくつもあるようで、どこかは分からない。適当にバスを降り、海の方へ行くと、立派な建物が見えたので、そこで『金門行きはどこ』と聞くと、何とここだ、という。そして『何時のフェリーに乗るのか、11時か』と聞いてくれる。時刻は10時40分。一応国際フェリーだべえ、20分じゃ無理かなと思ったが、切符を受け取る。イミグレも税関もスムーズで、5分後には通過、余裕でフェリーに乗り込んだ。


 

 

フェリーは400人ぐらい乗れそうな船。ちょっと違うが、香港からマカオを行くときの気分。それぐらい手軽に利用できる。厦門や福建省の人、台湾人が乗っていたが、金門に観光に行く、という雰囲気の人はあまりいない。彼らは何のためにこのフェリーを使うのだろうか。などと考えているうちに出発し、小さな島々を見ながら、進んでいく。ウトウトしていたら、金門島が見えてきた。何だかとてものどかな島、に見えた。




 

 

バスで去る

帰りは路線バスを使って戻ることにした。大坪から厦門へ直接戻る方法はない。バスで同安へ行き、乗り換えるという。同安までのバスも一日4便しかない。午前10時半のバスを予約してもらった。何と家の前まで来てくれるというのが、田舎らしい。

バスが来るまで茶を飲んで待つ。名残惜しかった。いつまたここへ来られるか分からない。張さんがそれまで茶作りを続けている保障もない。そんなことを思いながら茶を啜る。出発の時間になってもバスは来ない。まあそんなものかと思っていると突如外でバスのクラクションが。皆一斉に飛び出しバスを止め、張さんは運転手に指示を出し、私を運転手の脇の席に座らせてくれた。あっと言う間にバスは走り出し、呆気ない別れとなってしまった。




バスは茶畑の見える山道を進んだ。それから一路山を下り、1時間ほどで同安の街に着いた。だが、同安から厦門へ行くバスが分からない。てっきりバスターミナルにでも入って、そこで厦門行きを探せばよいと考えていたが、運転手は道路脇で『降りろ』と言い、前方の普通のバス停を指すばかり。仕方なくバス停でバスを探したが分からず、近くの女性に聞いたところ、『私も同じ方向だから』と一緒にバスに乗せてくれた。




バスは普通の路線バス。ただひらすら大通りを厦門に向かって走る。しかし1つずつバス停に停まるので、なかなか進まない。それから1時間走ってようやく厦門市内へ。私を乗せてくれた女性は『終点まで行きなさい』とわざわざ声を掛けて降りていった。何と親切なのだろうか。終点の輪渡に着いた時にはへとへとに疲れていた。そのままタクシーに乗り、また華僑大廈へ戻った。料金は僅か1元だった。


 

5月7日(火)  雨が上がって

翌朝も6時前に起きる。既に辺りが明るくなっている。何と健康な生活か。これもネットが全く繋がらない環境であることが大きい。ネットが繋がらない、家がそれほど明るくなければ、夜やることは寝るだけ。日頃如何にPCの前で時間を取られ、目を疲れさせ、脳を疲れさせているかが良く分かる。

朝粥を食う。野菜はおばさんが自分で植えている。これまた健康的。ここで生活していれば、何もしなくても健康になれそうだ。日頃の生活を見直し、質素に生きる本当に意味を知るにはこのような生活をしなければならないと思う。



   

 

この家は2階建てだが、屋上もあった。今朝はみんなで屋上へ出て、畑を眺めた。この風景がまた良い。記念撮影などもした。午前9時半頃、麺が出た。午前中のバスで厦門へ戻る私の為に、麺を作ってくれたのだ。例の長芋も入っている。嬉しい。




小雨が降っており、今日も茶摘みはない。と思っていると、雨が上がった瞬間、機械的な音が村に響き渡る。外へ出てみると女性が一人で機械を使って茶摘みを始めた。兎に角早く摘まないとどんどん伸びてしまい、お茶に出来ない。張さんに言わせれば『もう伸びすぎて使えない』茶葉でも、普通の茶農家にとっては重要な原料となる。



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