ホテル探し
もう一つの用事は今晩の宿探し。スマから3時までに探して、大学機関へ戻るようにとの指示。どこへ行けばあるんだ、ホテル。仕方なく、北上し、湖の畔へ出る。ベイラ湖、かなり大きい。その畔にレイクロッジというホテルがあることをガイドブックで知り訪ねる。
そのホテルは湖から少し離れた閑静な所に有った。ガイドブックだと50-60ドルと書かれていたが、見ただけでそんなに安くないことを知る。従業員に聞いてみると95ドルからだと言う。流石にちょっと高いな、と思っていると、それを見透かしたように「高いね」と日本語を使う。きっと多くの日本人がここへ来て値段を聞いて帰って行くのだろう。そうであればこのおじさん、もう少し安い宿を知っているかもしれない。
「ゴールロード、ランムトゥー」、そうおじさんは書いてくれた。兎に角そこを目指す。途中にYWCAがあった。ここは女子と名が付くが、ガイドブックに寄れば、男性もOKとあったので、一応聞いてみると「女子のみです」とあっけなく言われ、向こうの方でまた来たか、という顔をしたオジサンが居たので、ここもガイドブックのせいで迷惑している様子が分かる。
ゴールロードに出ると、シナモングランドホテルが目の前、少し北にはゴールフェイスホテルというコロンボの代表的な豪華ホテルが並んでいる。こんな環境の中に安ホテルなどあるはずがない、と思った時、道の向こう側に、如何にも古い建物を発見。行って見ると紹介されたホテルだった。
ルームレートを聞くとエアコン付。ホットシャワー付き、ロビーWIFI無料で3500ルピー。30ドルにもならない。こんなロケーションでそれはないだろうと思い、部屋を見せてもらう。と何と何と、確かに部屋は綺麗とは言い難いが、目の前にインド洋がドーンと現れた。小さなバルコニーから一日眺めることもできる。ここに決めた。スマに相談するまでもなく、チェックインする。
スマには電話で連絡し、荷物を運んできてもらう。彼も忙しいようなので、荷物を受け取り、分かれる。スマとの10日間の旅はこうして終わりを告げた。
11月16日(金) 10.コロンボ Tea Board
翌朝はいつもの通り、パンを焼いて食べる。ゆで卵が付いた。昨晩遅くまでテレビを見ていた運転手は寝坊。スマは彼らを本当に自由にしている。基本的に若手のお坊さんもそうだが、「不必要に規則で縛らない」として、放任している。それをスマは「自分が彼らの側に居ることが大切」という言い方をする。確かに口では「あなたの味方だ」と言っても、本当に相手の立場に立っている人は少ない。どこで線を引くかかなり難しいと思うが、その点、スマは凄い。
8時にコロンボに向けて出発。スマの大学のスタッフも同乗。コーヒーを飲むかと質問すると「スリランカではコーヒーは薬でした。レモンを入れて飲みます」というではないか。レモンを入れて飲むのが紅茶ではなくコーヒー。初めて聞いた。コーヒーと言えばネスカフェのようだが、タイのようなめちゃくちゃ甘い缶コーヒーなどはまだ出ていない。
朝のコロンボは渋滞だ。市内に入る前から混んでいる。途中、ここが国会議事堂、と言われる。そう、スリランカはブラジルやオーストラリアのように政治行政機能が分離されており、コーティと呼ばれるコロンボ郊外が国の首都となっている。コロンボはスリランカ最大の都市、と呼ばれる。
ようやくスマの大学の関係機関に到着。ここもまだ市内中心ではない。私はここから歩いて市内を目指す。横は海軍の施設、その先を行くとHSBCなどの看板が目に入り、ゴールロードへ到達。ここから少し北へ歩いて行くとTea Boardがある。観光客にとってはお土産に紅茶を買う場所である。スリランカ各地の紅茶が売られており、特に買いやすいようにパッケージされていたり、5大産地の茶を1つずつ入れた箱が売られていたりする。
売り場の女性に紅茶の歴史の本はないか、と聞いてみると、それなら図書室へ行け、と言う。売り場の裏手がオフィスになっており、更にその後ろには実験室がある。ここでも紅茶の研究開発が行われているようだ。その上の階にひっそりと図書室があった。意外とあっさりと部外者でも入ることが出来る。マネージャーに来意を告げると親切にも関係の本を取り出してくれた。ようやく歴史の本に巡り合えた。そして実に貴重な内容がそこには書かれていた。2時間以上、そこで調べ物をして、退散した。
コラム⇒ http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5534
ヒッカドゥアの街は昔ヒッピーたちが作ったビーチリゾートだという。今ではいくつかの高級ホテルも建っているが、基本はそれほど高くないゲストハウス。ゴールロード沿いに延々と続く、ゲストハウス。そこを抜けると海がある。格安ビーチリゾートだ。
サーフィンを売り物にして所もある。レッスンを受けないか、と声を掛けられた。日本人も多く来るという。そして私より年上の人々がサーフィンを楽しんでいるともいう。サーファーのにいちゃんは決して無理強いはしない。非常にフレンドリーで好感が持てる。この辺がこのヒッカドゥアのよい所であろう。
北のターミナルから南へゆっくりと30分、帰りもゆっくりと30分歩き、駅へ戻る。切符は40ルピー。ホームは2つある。どちらがゴール行きか分からないが、既に大勢の人が待っていたので一緒に待つ。するとまだ時間前なのに列車が到着。私の切符は2等なので、こちらだと言われる。念のため、「ゴール行きか」と聞くと、いやコロンボ行きと。この辺のいい加減さが何ともおかしい。危うくコロンボへ行く所だった。
列車が行くと寂しくなる。駅員がやって来て話をする。だが途中から「娘が各国通貨を集めているから、日本円をくれないか」とか、ボールペンはないか、と言い出す。この国はまだまだ貧しいのだ、と実感する。
列車は定刻を過ぎても一向に来ない。乗客も寧ろ時間が過ぎてから集まり始める。これではいつ来るのか、と不安になったが、15分遅れでやって来た。しかし今度は2等は一番前の車両になっており、3等車の乗り降りでごった返すホームをかき分けて進むには時間が掛かった。ようやく2等に到着し、乗ろうとしたところで列車が動き出した。辛うじてデッキに滑り込む。
車内はそれほど混んでいなかったが、席は1つしか空いていなかった。自由席であり、そこへ座る。扇風機が勢いよく回り、涼しい。外は何故かまた雨になっている。私の活動時間を知って、天が降らせているようだ。バスで来た道を逆に向かっており、途中で海が見えたりする。僅か15分でゴールに到着。
駅から隣のバスターミナルへ行くと、ちょうどマハラガマ行きのバスが10分後に出ることが分かり、直ぐに公衆電話に走って、スマに連絡を入れる。公衆電話は5ルピー以上入れる。バスは空いており、5時に発車。また高速を戻る。途中で夕焼けが見え、そして辺りが暗くなる。コッタワという場所で降りるように言われていたが、言われた場所ではバスと停まらなかった。スマの運転手が手を振っているのが見えたが、バスが停まったのは1㎞以上先。しかも今度は相当の雨に降られ、這う這うの体で待ち合わせ場所へ。
その夜はスマと運転手が料理を作ってくれた。魚のカレーが実にウマく、何度もお替りした。ゴールやヒッカドゥアなどの海辺に行きながら食べなかった魚を今食べる、不思議だ。夜はスマの大学の宿舎に泊まる。同僚がいないとのことでその部屋で寝たが、蚊が凄かった。良く見ると部屋の上の方が空いており、蚊が入り放題だった。全く寝付けず、苦労した。
ゴールの街
ゴールの街は初めポルトガル人、続いてオランダ人が占拠して作った街。どことなくマレーシアのマラッカを思わせる所がある。バスターミナルからは既に城壁が見えており、旧市内の位置は聞かなくても分かる。
城壁の外側にプレーグランドがあり、クリケットの試合が行われていた。スリランカではバレーボールに人気があると言った人がいたが、やはりクリケットは人気競技のようだ。城壁にある門を潜り、城壁に上る。時計台が印象的。海も一望できる。海からの攻撃に備えていたのは、マラッカやマカオと同じ。
古い教会が見える。オランダ時代の建物とか。旧市街地に残っている古い建物は基本的にオランダ時代のもの。1800年代からはイギリス支配に変わり、港もコロンボ重視となったようだ。この古い町並み、暑いけれども気持ちが良かった。こういう古さが私は好きだ。マカオ歴史散歩をした頃を思い出す。
昼ごはんはオランダ洋式の建物にあるレストランで取る。間口は狭いが奥が深い、確かマラッカに有ったババニョニャハウスに似ている。その奥には中国洋式の小さな中庭がある。中国人が住んでいたのかと聞くと、今でもオランダ人家族の子孫が住んでいるという。歴史が感じられる。
ヒッカドゥア
バスターミナルへ戻り、ヒッカドゥア行きのバスに乗り込む。これは完全なローカルバス。乗った時は人が少なかったが、呼び込みの声でどんどん人が増え、更には動き出してからも次々に乗り込んできて、一炊の余地もない。学校帰りの小学生と親も沢山乗っている。料金は車掌が一人ずつ集めに来る。これは満員の中、大変な作業である。いくらか分からないので100ルピーを渡すと、何か言って行ってしまった。このローカルバスが100ルピーもするはずないと思いながら、なすすべもない。大分たってから車掌が戻り、おつりが渡される。料金は35ルピー、ようはおつりを集めていたのだ。
バスは海岸線を走り気持ちが良い。だが途中から雨になり、かなり激しく降る。その内段々と人が降りて行き、周囲が見えてくる。兎に角コロンボまでの道をひたすら北上していた。スリランカは学校が多い。子供が多いというべきだろう。たった10㎞かそこらの間に一体いくつの学校を見ただろうか。
50分ほどして終点のヒッカドゥアへ到着。最後まで乗っていたのは私の他は一人だけ。完全なローカルバスだった。ターミナルの横に鉄道の駅があったので、ゴール行きの時間を確認すると4時15分だという。ちょうど2時間後であり、いい感じなので、帰りは列車に挑戦する。
11月15日(木) 9. ゴール 高速バス
翌朝は7時にスマが今日のスケジュールを言いに来るとのことで、あまり寝ずにメール作業などを行っていた。ところが7時に現れたスマは「チェックアウトするぞ」と突然言う。実は突然ではなく、昨晩彼から電話があったのだが、こちらが聞き漏らしていたようだ。慌ててネット作業を行い、荷物を纏めて、チェックアウトした。
今日は何と自分でゴールと言う街までバスで行き、興味があればビーチリゾートのヒッカドゥと言う街へも行き、またバスでこの街へ戻ってくる、という予定となった。私として一人旅もしてみたかったし、バスにも乗りたかったので、喜んで応じる。スマも大学へ来ると忙しいようだ。
先ずは車でバスターミナルへ行く。大学はコッタワと言う街にあるが、ゴール行きのインタシティバスはマハラガマという所から出る。そこまで10㎞以上行く。ターミナルに着くとちょうどゴール行きのバスが出る所。そそくさとスマに別れを告げて、バスに乗り込む。
既に席はほぼ満員。席の幅も広く、冷房も効いておりかなり快適。直通バスなのか、ゴールまでどこにも停まらなかった。車内には一部欧米人の姿があったが、基本的にスリランカ人が利用していた。高速に乗る頃、車掌が料金を集めに来た。470ルピー。
この高速道路、中国の援助でコロンボからゴールまで開通したという。実に快適な道路で、車も殆ど走っておらず、これまでの田舎の道とは別世界。元々は日本からの援助が多かったこの国も、近年対インド政策を重視する中国からの支援が増えている。ただ中国の建設工事は労働者も中国から連れてくるため、地元に雇用が生まれないとの不満が大きい。中国流は各国で禍根を残している。
高速道路の周辺は殆どが畑か林。南国風の良い風景が見られる。バスはゴールで高速を降りると、次々に人が降りていく。街に入ると直ぐにバスターミナルが見え、終点。
コロンボ郊外へ
次はキャンディ郊外のメディテーションセンターへ行くのだと思っていたが、そのままひたすらコロンボ方面へ向かう。メディテーションセンターには少し興味があったので、残念だが仕方がない。途中休むこともなく、車は進む。座っている尻が痛くなってきたが、なかなか車は停まらない。水を一回買ったきり、とうとう3時間半ほど走り日が暮れた。そんなに遠くはないと思っていたが、道は真っ直ぐではなく、工事中もあり、車や人の飛び出しにも注意しながらの運転はさぞや大変だろう。
そしてコロンボからおよそ20㎞の地点で車は停まった。そこはホテルのようだった。今日はスマの宿舎泊と聞いていたが、明日の夜の為の視察だという。プールがあってちょっとリゾートっぽいが、暗くてよく見えない。部屋はまあまあ広くて清潔そう。これならいいだろうと言うと「では今日も泊まれ」と突然言われる。言われたら泊まるのみ。
スマは麺を頼んでいたようだが、自分たちの分は持ち帰り、私にはここで食べるように告げて去る。残された私は取り敢えず、レストランでコーラを頼み、麺の到着を待つ。やってきた麺は3人前はあるかという分量。ビーフンだ。半分近くは残して部屋へ。
WIFIがあるかとホテルに聞いたが、ないとの返事。何とかメールチェックがしたいと申し出ると、何とホテルで使っているモデムを貸してくれ、私のPCへのセットアップまでしてくれた。これはとても親切。そしてスリランカ8日目にして、初めて自分のPCにネットが繋がる。何とも嬉しい。
ところがこのネット回線、残念ながらスピードが遅い。400通ものメールが溜まっており、中には写真や文章の添付もあるため、何とメールを受領するだけでも4時間以上掛かってしまった。そして5日遅れたメルマガを送付するのに夜をまたいで2日掛かりの作業となる。これもまた新鮮な体験だった。
Tea Museum
3日ほどお世話になったお寺を去る。そしてこれまで2度行っては入れなかった鬼門、Tea Museumへ3度目の挑戦を行う。キャンディ市内は結構なラッシュで渋滞が続く。ようやく1時間以上かけて辿り着く。相変わらずひっそりとしている。入り口のドアは開け放たれていた。遂に入場した。500ルピー。案内人が来るという。スマに配慮したかと思ったが、2時に定時のツアーがあった。我々2人とアイルランド人の若者の3人で行く。
博物館の中は、各製茶工場、茶業者などから寄贈された物が置かれており、初期の頃、どんなものを使っていたのか、などは分かったものの、肝心の紅茶の歴史は出て来ない。仕方なく質問してみると「それは茶葉研究所が知っているでしょう」との答え。先日研究所は博物館に行けといったので来たのに。案内の女性はマネージャーに聞いてみると言って姿を消した。
博物館の2階へ上がると、スリランカ紅茶の父として、ジェームズ・テーラーのコーナーがあり、以前書かれた記事などが張られていた。どれも同じネタ元から出た話を書いたのにすぎないが、その記述には「テーラーはアッサム種を持ち込んだ」と書かれている。それでは当初の研究所の人間が言った、また各茶工場の人間が説明した「中国種」との説明はどうなるのか。確かに茶畑の葉はそれほど大きくないのだ。スマと2人で頭を抱えた。
4階にティサロンがあり、無料でお茶が振舞われる。2階には各産地の紅茶が販売されているブースもある。だが何故があまり落ち着かない。1階へ降りると先程の女性が数枚のペーパーをくれた。これは参観者への説明用だという。そこにもテーラーが何を持ち込んだかは書かれていない。
マネージャーという男性が「それは昔のことだから、誰にもはっきりわからないのでは」という。この博物館はTea Boardというスリランカ政府の茶業局が作った場所であり、そこのしかるべき人が分からない、というからには分からないのだろう。ただ「テーラーが中国へ行ったという話は聞いたことが無い」という所に微かにヒントがある気がした。
キャンディ市内へも戻る時、スマがドイツ人のカップルを同乗させた。ドイツ人もあまりお茶は飲まないようだ。女性の方が「以前日本のクリル島へ行き、ビールの調査をした」と言い出す。よくよく聞き直すと千島列島に熊(ベアー)の調査に行ったのだが、ドイツ人と聞くとどうしてもビールと思ってしまう。
11月14日(水) 8.キャンディ3 寺の高僧
朝、スマは少し具合が良くなったようだが、まだ食べ物を口にしない。私は一人でパンを焼き、バターとジャムを塗って食べる。すると卵焼きが運ばれて来て、食事が豪華になる。お茶もTWGのフルーツティを淹れてみる。何だか優雅な朝食になる。
スマが寺を案内するという。すでに数日泊まっていたが、ちゃんと中を見たことはなかった。実は高くなった所に寺があるのだが、その横にも仏像が有ったりする。更にその上を登って行くと、瞑想できるような空間もあるという。私はほんの一角に過ぎない僧院に泊まり、全体を見ていなかったが、敷地はかなり広大で、現在は林になっているが、将来スマには何か計画があるらしい。確かにここの自然は得難い物があり、また日曜学校の為の校舎などもあり、やりようによっては色々と出来るかもしれない。
スマはこのお寺に10歳でやって来たが、その時から指導しているお坊さんがいる。聞けば93歳。実に気さくなお坊さんで、私にも英語で話し掛けてくれるのだが、僧院の中の写真を見ると、何だか偉い人に傅かれている。スマに寄れば、1か月半ほど前に、こちらから招待したわけでもなく、大統領が来たのだそうだ。現役の大統領が態々山奥へ来るとは、このお坊さんの名声は相当に高いらしい。
スマの師匠であるこのお坊さん、お姉さんは今年99歳、弟さん達も80歳を超えて皆健在だという。どうすればそんなに長生きになるのか、それも健康で。秘訣はこの自然環境にあるような気がしてならない。お別れする時に「またお出で」と言われた。何年後かは分からないが、再会できると思う。
若手の僧と議論する
帰りは車で寝込んでしまい、3時間があっという間に過ぎた。流石に足を鍛えていないので、疲れたのだろう。戻るとスマは熱があるという。彼も私の世話で疲れたのかもしれない。その夜は自分出来ることは自分で行う。
例えば自分の使うお湯は自分で沸して湯浴びをするなど。実はこの湯浴び、私の為だけに行われているもので、普通は水浴び。申し訳ないので、日ごとにお湯の量を減らして、使っている。まるで兵隊さんのような気分で、貴重なお湯を有効に使う。この気持ちは大切だ。
食事はここにいる若い僧が準備してくれている。これが非常に美味しくて、日ごとに食べる量が増えている。現在3人の若者がここに滞在し、大学へ行っている者もいる。寺に来て最初に教わるのは自分で調理することだというから、もう10年以上のベテランだ。それにしてもスリランカでは既に托鉢の習慣がない。食べ物の寄進は、信者が寺へ運んでこるのだ。それ以外は普通に市場で野菜を買い、自分で料理する。
初めの方でペーラーデニヤ大学を案内してくれた若者は何か話したいようだったので、誘うとドンドン話し始める。彼はスリランカの東大、ペーラーデニヤ大学でも最も優秀な学生の一人だそうで、将来は大学で教えることも考えている。非常に発言に自信を持っていて、はっきりものを言う。これも大事なことだ。
スリランカで今最大の問題の一つはイスラム教徒の増加。これは他のアジア諸国でも顕著であり、問題視している点だが、スリランカでは具体的に、中東からの資金投下でイスラム系が商業を握り、シンハラ人の女性を雇っている点。イスラムでは4人まで奥さんが持てること、内戦でシンハラ人の若者(男性)が少ないことから、シンハラ女性をイスラム化していく作戦らしい。またシンハラ女性に高学歴者が多く、こちらは結婚相手としてふさわしい男性が見付からない。結果として、シンハラの子供が減り、イスラム+混血の子が増加していくことになる。中東を中心としたイスラム世界はスリランカを支配下に置くつもりだ、との危惧は絶えない。
今の日本で、自国の問題点を的確に把握し、それにいかに対処するかを真剣に考えている若者はどのくらいいるのだろうか。若いお坊さんとの対話はかなり刺激的であった。
シーリギリヤ
ダンブッラから30分ほど、かなり良い舗装道路を行くと、シーリギリヤへ着く。ここにはシーリギリヤロック、と呼ばれる岩山があり、一大観光地となっている。遠くからでも絶壁と見える岩山に壁画を描き、あまつさえ、そこに王宮を建てて住んだ王がいたというから驚きだ。
先ずは先程に凝りて、チケット売り場を探す。入場口には相変わらずチェックポイントの文字しかなく、チケット売り場を示す何の手掛かりもなかった。聞かなければ何も分からない仕組みだ。数百メートル向こうに歩くとようやくチケットオフィスがある。しかしここのチケット、何と30ドルもする。ちょっとしたゲストハウスに泊まっても20ドル、それなりのレストランで食事をしても10ドルかからない国で、30ドルとはいくらなんでも取り過ぎではないか。勿論外国人だけが支払う。
こんなことをしていては、スリランカに来たくないと思う観光客も増えるのではないだろうか。少なくとも私はもう観光地へは行きなくない。ただ反対にスリランカの立場に立つと、産業があまりなく、観光に頼りながら国を発展させていくためには致し方ない手段だとも言える。それとしても、係員に愛想が無く、これだけ払ってもまだガイドを別に雇わなければならないシステムは改善すべきであろう。
シーギリヤロックは予想以上に険しかった。水路や水の広場を通過すると、急な階段が続き、洞窟が見える。洞窟寺院の跡であろう。観光客でも高齢者はかなり難儀しており、若者は汗だくとなる。20分ぐらい歩いてようやく山の中腹に出る。そこからは下が一望でき眺めが良い。
そしてそこにチケットのチェックがあった。何でこんな所に、と言っても仕方がない。その上には金網で守られた螺旋階段があり、上にはフレスコ画があるとのことだったが、高所恐怖症の私はこの辺から既に気分はパス。一人ミラーウオールという回廊を抜ける。そして岩肌にくっついて作られた鉄の通路。この辺はもう限界。更には頂上へ上るとても急な階段。信じられないほどに高い所へ上って行くようで、断念。そこから下へ降りた。
後は会議堂跡、ブッダの玉座があったというアサナ礼拝堂を通り、私のシーリギリヤは終了した。残念ながら30ドルの元を取り戻すには遠く及ばず。駐車場脇にはレストランや土産物屋があったが、ジュース1杯、250ルピーという表示を見て直ぐに退散した。ここはなんでも高いのだ。
ランチはスマが用意してくれたお弁当。私にはパンと卵、運転手にはチキンカレーだった。実にすばらしい心遣いだ。この付近の食べ物が異常に高いことを知っての行動だろう。道路沿いの売店でスプライトを買っても街の2倍はした。あまりお金のことばかり書きたくないが、正直こういう場所が一番苦手だ。