11月13日(火) タミルの祭り
朝6時前に起きて外を眺める。相変わらず天気は良い。今日は遠出するので早起きし、サッサと朝食を取る。朝からご飯を食べるのにも慣れた。ご飯の付け合せは毎回変わる。今朝はなすと干し魚が入っていた。これはなかなか美味。7時半に運転手を待つがやって来ない。どうやら寝坊したらしい。普通なら怒る所だが、その待つ時間、寺の庭を眺め、ゆっくり過ごす。運転手も疲れている。寝坊するぐらい睡眠を取った方が私の安全のためになると思える。リスがバナナの木にぶら下がる。面白い。
朝から寺にやって来る親子がいた。聞けばタミル人だという。今日はタミルのお祭りで祝日。タミル人の殆どはヒンズー教徒と聞いていたので、彼らが寺にやって来たことは少し意外だったが、タミル人の中にも寺を訪れ、参拝する人もいるという。彼らは何か寺に食べ物を届けに来たようだ。
夫婦に子供3人。小学生ぐらいの男の子、幼稚園ぐらいの男の子に小さな女の子。典型的なファミリーらしい。何となく好ましい雰囲気が感じられる。一家の主人たる男性が私に向かって身振りで何か語りかけている。良く見ると寺の茶樹を指して、摘む真似をしていた。そうか、彼らも茶業の為にインドからやって来たタミル人の子孫なのだ。実はこの付近にも多くのタミル人がシンハラ人と共存している。実に身近な茶の歴史がここにあった。
7. ダンブッラとシーリギリヤ ダンブッラ
8時過ぎに運転手がやって来て出発。いつものキャンディへ行く道とは反対、北へ向かう。流石に寝坊して遅れたのを気にしてか、少しスピードを上げる。近道だと言って、狭いが誰も通っていない道を行く。1時間ほどでマッターレと言う街に出る。ここには確か名古屋に本社がある陶器メーカー、ノリタケの工場があったはずだ。彼らは40年も前からここで生産を行っている。スリランカを代表する日本企業である。
メイン道路はそれほど悪くない。スーッと車が走り、10時過ぎには最初の訪問地、ダンブッラの寺院に到着。何と目の前に巨大なGolden Buddhaが高々と祭り上げられている。その前へ行くと博物館と書かれているが、無視して脇の階段を上る。世界最大の大仏とある。高さ30m、1997-2000年までかけて建造された。確かに大きい。
一旦降りて今度は洞窟寺院に向かい上る。この階段が急なうえ、相当数があり疲れる。途中で物売りが近づいてきたり、フルーツを売る人もいる。サルも沢山おり、人を襲ったりはしないが、特に人を恐れる様子もなく、犬や猫のように寛いでいる。
物凄い階段を登り切り、上へ着くと流石にいい景色だ。靴を預けてさて、寺院にはいろうとすると、「チケット」と言われる。ここまで一度もチケットオフィスを見なかったので、ここで買うのかと思いきや、何と「下まで戻れ」という。それはないだろう、いくらなんでも。チケットオフィスの表示すらどこにもないのだ。何と不親切な、と言ってみても始まらない。ここが中国ならちゃんとお金を取る仕組みをすぐに講じるだろうが、スリランカは違う。結局寺にはいれず、中がどうなっているのも分からない。外国人から多額の入場料を取ろうとするスリランカ、所詮はガイドがいる団体客しか念頭にないということ。この点は利用者の便を改善しないと、将来が思いやられる。
何となく不機嫌に下へ降りていく。物売りも不機嫌な人間にはあまり近寄らない。預けた靴を取り戻したが、金は請求されなかった。偶にはそういう人間もいるのだろう。下まで降りたが、結局チケットを売っている場所は見付からなかった。後でガイドブックを見ると建物の裏にあって見逃す恐れあり、となっていた。何とも不思議な寺だったが、世界遺産を見損なったのは残念。
Tree of Life
帰りの車の中で、ウトウトと寝込んで仕舞う。気が付くと既にかなり寺に近くなっていた。実はもう一か所、行きたい所が出来ていた。Tree of Lifeと書かれた場所がキャンディと寺のある村の間にあったのだ。昨晩ガイドブックを見ていると、アユルベーダのマッサージなどが受けられると書いてあり、印象に残っていた。
急いでそちらに向かってもらう。幹線から入るとそこは森の中。かなりの森を抜けていくとそこにTree of Lifeはあった。受付のある建物は1900年に建てられたもの。実にいい感じで建っている。案内を乞うとマリーという女性が出て来て先へ進む。ここはホテルだったのだ。全部で43室、普通の部屋が35室、コテージが2つ、スイートが2つ、そしてビラタイプがある。
広い広い庭をゆっくり歩いて行くと最初に客室のある建物があり、そこから上ると子供の遊び場があり、プールとレストランが見える。その向こうに客室、ビラが続く。周囲は森と茶畑、この雰囲気はどこかダージリンを思い出す。
このホテルは17年前に出来た。何とオーナーは日本人。レストラン前にあるマッサージルームでは、アユルベーダによるマッサージ(治療)が行われる。3日コース、7日コースなどがあり、各人の体調や気候状況などで療法が異なる。マッサージ師の中に日本語が出来る人もおり、日本人にも好評だという。
ただ日本人でここを訪れるのは殆どが60代の団体客。マリーは「何故若い人は来ないのか」と逆に質問してきたので、若者にはお金も時間もない、と答えておいた。実はこのホテルのコンセプトの一つとしてハネムーン客に来て欲しいようだが、日本人の利用はあまりない。途中にはハネムーンブリッジと名付けられた橋もある。
部屋はコロニアル風で落ち着きがあり、何よりバスタブが大きい。バルコニーから森を眺めて過ごすことも出来、快適だ。食事は朝晩付きで基本はビュッフェ。土曜日はBBQディナーなどの趣向も凝らされている。料金は朝晩付きで1泊140ドルとか。アユルベーダは1回80ドルぐらいから出来るようだ。勿論Wifiもあり、テレビもあるが、偶にはこんな場所で何もしないで過ごしたいものだと、ディンブラの濃い目の紅茶を頂きながら、そう思った。
夜は自分でお湯を用意して、体を洗う。ある物で足りるように努力する。重要な気がした。
キャンディティー工場
9時半に寺を出て、先日行けなかったキャンディの茶博物館を目指す。どこへ行っても茶の歴史なら博物館へ行け、と言われるので、どうしても行きたかったのだ。ところが1時間掛けてようやくたどり着くと、雰囲気がおかしい。誰もいない。「Monday Close」無情にもまた拒否されてしまった。しかも明日も祝日で休みだという。果たして最終的に行けるのだろうか。
次の目的地は茶工場。既にいくつも工場を訪ねているが、キャンディは初めてなので、出掛けてみる。キャンディ市内からコロンボの方向へ15㎞ほど行ったところに、Geragama茶園の工場はあった。1903年創立と書かれた看板が誇らしげだ。
正面入り口から上へ上がると、ティールームと販売所があった。「茶工場の見学は必要ないので、歴史だけ教えて欲しい」と願い出ると、担当の女性は話し始めたが、工場見学者が待っていると言って、出て行ってしまった。その合間にお茶が振舞われたが、少し渋みが感じられたが飲み易いキャンディティーだった。
ジェームス・テーラーの顔写真が飾られていた。立派なひげを生やした紳士は1865年にここキャンディのLoolekandura Estateの29エーカーの土地に茶樹を植えたとある。「セイロン茶の父」とも書かれていた。イギリス人によって1903年に創立されたこの工場でも当然テーラーが植えた茶樹の葉が使われているという。だがそれ以上の情報は得られなかった。
ランチ
昼時となり、キャンディ市内へ戻る。ところがかなりの渋滞に遭遇。道が狭いこともあるが、スリランカでは地方都市と言えども車が急速に増加している。ようやく市内へ着くと、今度は駐車場探し。駐車場の建物には入ったが、スペースがなかなか見付からない。車社会への対応に迫られている様子がよく分かった。
ランチはこぎれいなレストランへ入る。何となくインドと似た雰囲気がした。マネージャーが席を振り分け、テーブルごとに担当のボーイがいる。プライドだけ高そうな人々が働いているように見えて、リラックスできない。チャウメンを頼んでみたが、それほど美味しくはなかった。欧米人観光客が数組居たのを見て、きれいなだけのレストランとの印象を持つ。
その後、ネットカフェへ向かう。先日満員で入れなかったので念の為、試してみたくなった。今日は何とか席が確保できた。ネットスピードは結構速く、スムーズだった。10分20ルピー。Facebookにもすぐに繋がった。
バスやトゥクトゥクが交錯する道を歩いて、駐車場に戻る。午後2時過ぎには車の数が結構減っていた。ランチタイムが特に混んでいることが分かる。
11月12日(月) 朝の茶畑散歩
前夜はかなり激しい雨が降った。気温も予想以上に下がり、肌寒い感じがした。だが、朝若い坊さんたちの元気な声で目覚めると、いい天気になっていた。6時半にはローティの朝食を食べた。紅茶に合う食べ物だ。散歩に出た。学校の所をキャンディに行く方向と反対に下ってみた。特に意味もなく歩く。すると直ぐに道の脇に茶畑が出現した。そして釣られるように脇道に入ると高い方も低い方も一面茶畑となった。朝日を浴びていい感じだ。
茶樹の垣根があったので沿って降りていくと、そこは民家だった。お婆さんが供え物だろうか、白い花を摘んでいた。この雰囲気が実にいい。言葉は全く通じなかったが、笑顔で挨拶した。
それからずーっと歩いて見た。30分も歩くと、Lily Valley Estateと書かれた看板が見える。横に小さな小さな郵便局があり、聞いてみると「茶工場はない」とのこと。仕方なく引き返す。すると後ろから五羊ホンダのバイクに乗ったオジサンが話し掛けて来た。「茶工場は30年前に無くなった。ここは数十エーカーの小さな茶畑。立ち行かなくなり、茶葉は8㎞先の工場へ運んで茶を作っている」と説明してくれた。スリランカ人の英語は実に分かり易い。同じことをインドで言われても恐らく分からないだろう。
そして驚いたことには彼、サラは私が世話になっているスマの寺、モラゴダの檀家。母親は寺の長老と兄弟だというから、長老の甥にあたる。ちょっと話していると色々と繋がるので田舎は面白い。
また歩いているとトゥクトゥクが通り過ぎる。この道は狭いがバスも通っている。スリランカのバスは実に発達していると感心する。トゥクトゥクから顔を出した若者が手招きした。乗れという。何となくその行為が好ましくて乗り込む。奥さんと可愛い小さな娘さんが乗っていた。分かれ道の所で降ろしてくれ、バスに乗るならこっちだと教えてくれた。何とも親切な人々で一度でここが好きになる。
6.キャンディ2 買い物
キャンディの街に近づく。実に5時間ほどランチも取らずに車に乗っている。City Foodと書かれたスーパーの前で車を停め、パンやバターを買い込む。これが意外と高い。聞けば、輸入品を扱うスーパーだとか。最近このようなスーパーが出来てとても便利だとスマは言う。続いてパン屋というかケーキ屋の前に停まる。今度はこれから食べるカレーパンと食後のケーキを買う。一番甘くないケーキを頼むと「ネスカフェ」と書かれたコーヒーケーキが出て来た。ここで売っている飲み物はネスカフェのコーヒーかネスタというミルクティ。
それから運転手が市場へ走る。今日のおかずを買う、といった感じで、ニンジン、トマト、オクラ、ネギなどを買いこむ。袋一杯買っても300円ぐらいか。日本ならキャベツ1個しか買えない。雨が降っており、商人たちも早く店仕舞いしたかったらく、叩き売ったのかもしれない。そして最後にフルーツを買う。アボガドなどが選ばれる。バナナが食べたかったが、スマは店の人の勧めを断っていたので、きっと良いのが無かったのだろうと諦める。
僧院で和む
ようやくスマの僧院へ辿り着く。6時間ぐらい掛かっただろうか。3日前に泊まった部屋へ入れてもらい、その前の椅子に腰掛けて和む。雨は降り続いており、涼しい。何もすることが無く、紅茶を飲みながらさっきのパンとケーキを頂く。実にゆっくりと時間が流れていく。スマのPCでメールをチェックしたがあまり見るべきものもない。もうネットに縛られる感じはない。お寺にはお寺の過ごし方がある。日本のように規則に縛られるのではなく、自分で自分を解放するのだ。そんな気分となる。
お湯の準備が出来たという。3日前と同じ、お湯と水を適当に混ぜて湯を使うのだ。これがまた良い。無暗に湯を使うのではなく、一定の分量を丁寧に使う。勿論寺の人々は水シャワーだろう。私の為に湯を用意してくれことに感謝が必要だ。そういう気持ちで体を洗うと実にスッキリした。気持ちの問題は大きい。
先程買ってきた野菜を使った食事が出た。恐らくは私の為に作られた物で、スマは私に付き合っているのだろう。オクラの煮つけ、ニンジンと玉ねぎの和え物、卵料理が出たが、ご飯にかけて食べるとどれも美味しい。
10歳で寺に入ると先ず先に教えられるのが、料理だという。ミャンマーなどでは托鉢が残っているが、ここスリランカには既にこの習慣はない。自らの食事は自ら用意できるように修行する。
スマの考え方なのか、スリランカにはそのような所が多いのか、食べ物にはあまりこだわらない。正直野菜を買っても肉を買っても、同じという考え方だ。自分で殺して肉を食べることは許されないが、提供される物は食べてもよいという。また僧侶の食事時間も午前中のみの所が多いが、ここではいつ食べてもよいという。非常に合理的だと思うのだが、どうだろうか。
ブッダが訪れた寺
もう一度バドゥッラの街まで戻り、針路を北にとって、キャンディまで直接帰るルートが選ばれる。2時間以上車に揺られているとウトウトしてくる。突然起こされて外を見ると、何ともでかい湖が。良く見るとダムのようになっており、水力発電をしていることが分かる。この辺りは地面がフラットで道路も整備されており、快適に進む。
兎に角この2時間ほどは、何度も道路工事に出会い、通行を止められていた。何故そんなに工事があるのか、昔の日本の年度末工事を思わせるほど、現場が続く。だが、快適な道路へ出ると途端に、デコボコ道の工事の必要性を痛感する。人間とは何と我儘なものだろうか。
途中で突然スマが声を掛ける。何事かと外を見たが、何もない。車を降りて見に行くと、何となく小さな碑があった。「ここがスリランカの真ん中だ」とスマが言う。しかしどう見ても真ん中とは思えない存在感の無さ。どうなっているのだろうか。我々が車を降りたのを見て、後ろの車の人々も降りて見に来た。意外と物見高い人々かもしれない、スリランカ人は。
マヒヤンガナ、と言う街を通るとスマが言う。「ここに大きな寺がある。ブッダが訪れた寺だ」え、こんな田舎にブッダが訪れた?スマに寄ればブッダは3回スリランカを訪れており、その内の一度、この地へやって来たのだという。そんな昔にどうやって?「ブッダはどこへでも行ける」というが、どうなんだろうか。
寺の参道は新しく、周囲は畑。何とも素朴だが、昔からある寺とも思えない。正面に見える仏塔も、真新しく2500年前にブッダが来たとは思えない。人々が思い思いに座っていたが、雨が降り出し、退散した。
いろは坂
「18ものヘアピンカーブ?があるんだ」、ウバ県からキャンディのあるセントラル県に入るとスマが言う。因みにスリランカには10の県があるらしい。北海道の80%の面積と書かれているが、北海道とはかなり違って山岳地帯も多く、平地が少ない中で10県は多いのでは。
キャンディに行くには山越えとなるが、今年新たに道路が開通した。それが冒頭の発言。確かに番号が振られた表示が18から順番にある。まるで日光いろは坂だ。上るにつれて景色が良くなり、霞掛かった向こうの山が実にきれいに映える。
この道路を作るのに何年掛かったのだろうかと思うほど、難工事だったらしい。一番上で景色を眺めているとサルがやって来て、こちらを眺める。彼らは住処を追われたのだろうか。スリランカでは田舎町でリスなどを見掛けることも多い。自然が残っているということだが、今後は経済成長に軸足が移るのだろうか。
11月11日(日) バドゥッラの駅
朝は7時前に起き、散歩へ出る。バドゥッラの街を見学する時間はないと言われていたので、散歩のついでに駅を見に行く。ところが方向を間違え、真反対の方へかなり歩いてしまう。
ようやくたどり着いた駅は珍しく鉄橋を渡った所にあった。川の直ぐ近くに駅があるのはあまり見たことが無い。だがこの駅が英国時代の終着駅だと聞き、何となく合点がいく。この街は以前茶葉の集積地として栄えていた。茶葉は川を使って集められ、すぐ横の駅からコロンボへ運ばれたのだろう。
この街には古い教会もあり、昨日の大きな仏教寺院もあり、そしてヒンズー寺院もある。完全に混在した不思議な街。当初はイギリス人の都合で開拓された山の街であったのが、いつの間にか変化したようだ。
街のティー・センター(茶荘)を覗く。ダスト茶が基本であり、またBOPFのようなミルクティに適した茶葉しか売っていない。高級茶葉もリーフも庶民の興味の対象外。値段も相当に安い。ティーと言えばミルクティのお国柄である。これも植民地時代の名残りか。
Wewesseのウバ茶
ホテルをチェックアウトして、今日も茶畑へ。スマも飽きずに良く付き合ってくれる。車で30分ほど上ると、きれいな茶畑が森の中に出現。かなり急な斜面に植えられているものもあり、茶樹がびっちりだ。そんな中で茶樹に埋もれるように茶摘みをしている女性たちを発見。滝があり、いい音を立てて水が落ちる。
今日は日曜日で残念ながらWewesseの工場はお休み。工場前のティショップでお茶を飲んでいくことに。今日は時間が無く、朝食も抜きだったので、ここでバターケーキも取る。ストレート(プレーン)ティは15ルピーだが、ミルクティは40ルピーもする。ミルクがよほど高いのか。皆ミルクティを飲む中、一人ストレートで飲む。実にあっさりしていて飲み易い。またケーキのハーモニーが良く、美味い。
屋外で風に吹かれながら、コテージ風の椅子に座り、ゆっくりと飲む。疲れを感じさせず、癒しがある。ずーっとここに座っていたい衝動に駆られる。ここの工場は1936年に出来たらしい。よくぞこんな山奥に工場を作ったものだ。イギリス人は逞しい。
ホテルのWifi
バドゥッラに到着。この街には教会がいくつも見え、また英国時代の建物も多く残っている。何となく、ミャンマーのメミョーを思い出す光景だ。イギリスは街づくりのパターンが一定しており、その影響かもしれない。また流石にここまで来る旅行者は多くないらしく、開発も進んでいないということか。
今日の宿はスマの知人がいるお寺と聞く。そのお寺、ムティヤンガナ・ビハーラは街の真ん中にかなり広大な敷地を持つ。ところが残念なことに部外者を泊めることは出来ないと言われ、ホテルを探す。寺の前のゲストハウスを覗くが、ホットシャワーが無いと言われ、他へ。そこは寺から少し離れているが、外装はかなり立派。何とスマもここに泊まると言い出した。
ところが部屋は外装とは違って昔のまま。勿論広くて悪くはないのだが。そして今日こそはと思う、自己PCでのネット接続にもまた失敗した。ロビーではフリーWifiだと言っていたが、どうしても繋がらない。プロバイダーに電話しているようだが、埒は開かない。これがスリランカの地方都市の現状であろう。
ホテルのスタッフにメールチェックを申し出るもオフィスは既にクローズしているとして断られる。そこへ一人の従業員が自分のPCで接続するといって、4階にあるバーでPCを貸してくれ、メールチェックだけは出来た。
このバー、屋上に屋根を付けた構造で、雨が降っていても、濡れることもなく涼しい。大型テレビがクリケット中継を鮮明に映しており、ここで夕食を取ることに。インドでも見たチャオミン(焼きそば)とコーラを頼む。このチャオミンがかなりのボリュームがあり、またなかなかイケル。焼そばというよりビーフンだ。野菜、鶏肉、シイタケなどが豊富に乗っており、美味。これでコーラと併せて3ドルとは。
夜は早く寝ようとしたところ、停電となりこれ幸いとベッドに潜るが、直ぐに明るくなり、眠れない。
ウバ茶工場で
今度はバンダーラベェラからバドゥッラへ道を取る。途中にまた茶畑が見える。だが一部は茶畑を潰して、家を建てたり、農地にしたり、荒れ地となった所もある。かなり急な斜面である。ここもウバ茶の産地だと聞き驚く。
Halpewatteと書かれた一軒の茶工場の看板があったので、行って見る。ところがこれが急な坂の連続で難所。よくもまあこんな所に工場を建てたなという感じだ。相当に上り、景色も少し靄がかかった山々が望める素晴らしい所に工場はあった。ちょうど雨も降りだした。雨宿りの雰囲気だ。
スマが案内を乞うと、男性が説明を始めた。この工場は1971年に出来た新しい工場であり、だからこそこんな山道の上に作ることが出来たという。「山の上に工場を作らないと新鮮な空気が入らない。この空気が茶葉の味に大きな影響がある」と説明された。成程。
この地方の特徴は乾季には全く雨が降らないこと。6-9月は殆ど降水量が無く、その間に茶葉は諸成分を内包する。この条件がウバ茶のメンソール感を出し、特にイギリス人に好まれてきた。
しかし近年スリランカの茶葉生産量は横ばいか減少に転じている。輸出量世界一を誇っていたが、インドや中国、そしてケニアやベトナムが急追してきており、大きな転換期に来ている。中東のスリランカ紅茶購入の減少、ヨーロッパの不景気など色々と要因はある。
またスリランカ自体の問題として、茶葉の値段が上がらない、賃金も左程上がらない、茶農家を止める所も出て来ており、栽培面積も減少傾向にある。本当に良い一部のウバ茶にはかなりの高値が付くが、その後ブレンドされてしまうなど、その良さが理解されているのかも懸念材料。スリランカ茶の将来は決して明るくないと、男性は嘆く。
この工場は後発の為自前の農園も少なく、近隣の茶農家から茶葉を買い入れているため、特に影響が大きいのだろう。美味しい物を作るだけでは、成長しない難しい産業形態であるとも言える。
5. ウバ 静かなランチ
昨日ウバの場所を尋ねたことから、スマはウバへ行こうという。ところがガイドブックにもウバという地名は見当たらない。取り敢えず車は進む。途中の何もない場所に一軒ポツンとレストランがあった。スマが何かテイクアウトして、車中で食べようと立ち寄る。
店に入ると、向こう側のドアから外に出られた。実にいい景色がそこにあり、静かで穏やか。気にいってしまい、ここで食べることに。雨が降りそうで降らない。いい風が吹き抜けて来て、気持ちが弾む。
食事はチャーハンにカレーやサラダなどを乗せて食べる。しかしこのチャーハン、中国風となっているが、誰が中国から持ち込んだのだろうか。中国人が中国料理屋を沢山開いているとの話もない。不思議だ。実際問題、このチャーハンは米の違いもあり、中国の物とはかなり違う。更にはカレーを掛けるのだから、どうみてもスリランカ風。
デザートは断ったが、ここはイチゴの産地らしい。それもJICAのプロジェクトでこの辺にイチゴ栽培を広めたという。それなら食べてみてもよかったのだが、後の祭り。この店ではお坊さんには敬意を表して料金は取らないとのことで、非常に安いランチとなった。
ウバ紅茶
ヌワラエリアから、ウェリマダを抜け、バンダーラベェラへ行く。この街は何故か人通りが非常に多く、賑やかだ。街の真ん中には仏像を備えた時計台があり、また鉄道の駅が見えた。
そこからかなり進むとようやく茶畑が見えてきた。更に行くとハープターレという茶工場も見える。ここがウバ茶の産地なのか。スマが茶を飲もうという。茶工場へ行くのかと思うと、そうではなく、Rest Houseと書かれた場所へ上がる。ここからの眺めもまたよい。
紅茶が運ばれてきたが、何とミルクティ。ウバ茶はミルクティで飲むのかとウエーターに聞くとスマが「私が頼んだのでミルクティになった」と説明。このミルクティがスマにはかなり上等と映ったようだが、私にはミルクの味が勝ちすぎて、うーん。仕方なくストレートティも頼む。聞いていた通りメンソールの感じ。これはダージリンにも有った味だと思う。
「実は道を間違えた。本当はバドゥッラという場所へ行くはずだった」とスマ。でもそれでとても美味しいお茶にありつけたのだからよい、とお互いに思う。そしてまた元来た道をバンダーラベェラへ引き返す。鉄道の線路も並行して走っていた。もしやと思い聞いてみるとやはり茶葉を運ぶためにイギリスが作った鉄道だった。これはダージリンと全く同じ。
バンダーラベェラまで戻ると駅へ寄ってもらった。茶葉に関係あると聞き、写真に納めた。今では一日に数本が走るだけの小さな駅だが、往時は茶葉輸送の拠点として栄えただろう。そもそも鉄道が敷かれたことで、この地へ移住してきた人もいただろう。元々は深い森だったのだから。