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ペドロ茶工場

8時半過ぎにはスマが来て、出発を告げる。どうやらここに連泊することはない。荷物を纏めて下へ。品の良いお婆さんがスマと話したいらしく、お茶を勧める。私にはコーヒーが振舞われたが、紅茶の方が良かったな。贅沢か。お婆さんの娘たち?もやって来て、スマの足に跪く。

車が出ると直ぐに湖が見える。向こう側に茶畑が見えたので、行って見ることになる。湖を回り、丘へ車を入れると、そこにはかなり原木に近いと思われる茶樹が植えられていた。木々の間もある程度間隔が取られており、かなり余裕のある茶畑だ。直ぐ近くには労働者であるタミル人の集落があり、覗いてみると決して豊かではない生活が見えた。







ここのタミル人は英国時代に南インド(恐らくは茶畑)から連れてこられた人々で、ずっと茶畑で重労働をしている。内戦をしていた北のタミル人とはカーストが違うと言い、シンハリ人ともフレンドリーだと。シンハリ人はイギリスの支配下で働くのを嫌がり、タミル人が来たという歴史を聞く。集落にはヒンズー教の寺院が見え、従順ながら自己の宗教を守って生きているタミル人を見直した。




この茶園の話が聞きたくて、茶工場へ向かうがかなりの悪路であった。後で分かることには街から普通の道路で来れば簡単だったようだが、それだけタミル人の人々の苦労が見えた。ペドロと言う名前の茶工場が見える。

この建物は1940年の再建だそうだが、会社は1885年に出来、茶樹はあのジェームス・テイラーが1867年に中国から(?)持ち込んだという茶樹だそうだ。現在茶摘みの女性は800人、それ以外に工場労働者、オフィスワーカーが500人の大工場。創立時はイギリス人の所有だったが、その後スリランカ人の手に渡り、現在は複数の株主が存在している。




この工場見学ではエプロンをして、帽子を被らされた。スマは不要。案内に立った女性はきびきびと、そして丁寧に説明していく。紅茶製造プロセスは昨日から4回目の説明で流石に頭に入っていたが、もう一度聞いてみる気になる説明だった。特に1885年当初は中国産茶葉をそのまま使っていたが、徐々に生産が拡大されるに伴い、リプトンなどの有名メーカーがコロンボのオークションで競り落とした後、ティバッグなどにするため、CTCを好んだことなど、初めて聞いた。コロンボでブレンド後輸出されているという。




見晴らしの良いティールームでお茶を頂く。かなり薄めのお茶は日本人好みではないか。小中学生が見学で入って来た。郷土の名産品を頭に入れるにはよい場所であろう。


 

11月10日(土)  朝飯

昨日の雨が嘘のように晴れていた。そして昨晩遅くまで聞こえたテレビの音に代わり、向かいのホテルから大音響が聞こえる。ベランダから見ると、数人の若者が大声で騒ぎながら車を洗い、大音響の音楽を流す。仕方がないとは思いながら、「なぜこんな静かな環境で、音を出すのだろう」と。いや、静かすぎて落ち着かないのだろう。




ホテルの料金に朝食が含まれていないのを確認して、これ幸いと街へ出る。朝8時前の競馬場前の道路、車も多く煩い。昨日行ったグランドホテルへ回り、ゴルフ場の横を歩くと、かなり静かな環境となる。







街中の小さなレストランでチャパティのようなものを作っていた。釣られるように入る。ローティという小さくて丸いパンを頼むと黙って4つ出て来た。そしてカレーとスパイスの効いた物が出て来て、これを付けて食べろという。意外に美味しいのだが、ローティは少し塩辛い。




ティーを頼むと何も聞かずに甘い甘いミルクティが出て来た。これはインドのチャイだ。店の人もそうだというから、同じ物だと思う。全部で僅か120ルピー。昨晩の何分の一かで、満足できる朝食が取れた。帰り掛けに乗馬クラブのメンバー?と会う。







銀行はスロー

先ずは街中で用事を済ませる。私は両替をしたかったのだが、銀行はなぜか閉まっていた。ATMだけは使えたので、スマはキャッシュカードで現金を引き出す。お坊さんがATMを使う、ちょっと不思議な気分だ。更に彼はネット会社にも立ち寄る。今やスリランカもそういう時代なのだ。




ようやく開いている銀行を見付けて、両替に挑戦した。100米ドル札を出して、パスポートを出すと担当のにいちゃんは、コピーを取りに2階へ行く。しかしいつまで経って降りて来ない。両替レートがいくらかも提示されず、どうなっているのかも一向に分からない。15分後にようやく席に戻り、作業を開始。書類にサインを求められたが、レートや受け取り金額の表示はない。これにはちょっと驚いて聞いてみると、PCが遅くてレートがなかなか出ないとのこと。




このにいちゃん、人は良いのだが、風邪をひいて熱があるらしく、苦しそうだ。喘ぎながら「手数料は1%」と告げられるが、未だにレートの表示が無く、どうしてよいか分からない。スマも心配して銀行内へ見に来る。ようやくレートが出たが、今度は手取り金額を提示しない。手数料金額だけ言い、またサインを求める。どうなっているの?結局100ドルの両替に35分を要した。お客は勿論私しかいない。

日本でも昔、こんなことがあったと思うが、それにしてもPCやネットが急速に発展しても、まだまだソフト面は追い付いて行かない。街には両替商もあるようだが、信ぴょう性に問題があり、未だに銀行が使われるようだが、いずれはこのサービスでは淘汰されるだろう。

因みに定期預金金利は13-15%、貸出金利は20%前後と高く、まだまだ資金不足のようだ。企業や個人は借入れを好むようだが、そんなに儲かるビジネスがあるのだろうか。

 

雨の夜 元気な女性と会話する

ヌワラエリヤの街を散策しようと支度していると急に物凄い雨が降り出す。スコールと呼んでよい雨だが、いつになっても止まない。仕方なくWifiがあると聞いたので、ネットを繋ごうとしたが、失敗。ロビーで理由を聞こうとした矢先、突然欧米人女性が凄い勢いでやって来て、スタッフにまくし立てている。聞いてみると私と同じ理由でネットが繋がらずに困っており、その理由を説明していたが、スタッフが理解できなかったらしい。確かに最近普及し始めたWifi、田舎では繋がらないことも多いだろうし、そのシステム自体が理解できないだろう。




結局スタッフはプロバイダーに電話、その電話を彼女に渡し、彼女が英語でまたまくしたてる。だが、やはり繋がらない。雨のせいだ、ということで終わる。彼女も諦めて部屋へ戻る。それから3時間、雨は止まなかった。Wifiは繋がらなかったが、ホテル専用のPCでメールチェックだけは出来た。更にFacebookへ入ると、不正アクセスの恐れありとばかり、行き成り知り合いの顔が5人も出て来て、誰だか当てろ、という。これには驚いたが、それほどに不正アクセスが多いのだろう。最近はアポの申し込みなどをFacebookでして来る人がいて困る。このようにネットが繋がり難いと回答も出来ないし、中国では通じない。




仕方なくホテルで夕食を頼む。中華料理もできると書いてあったのでチャーハンでも注文しようかと思うと、スタッフが「カレー付きが良い」と勧める。彼は韓国のインチョンにある大宇で6年、IT関連で働いた経験があるという。スリランカの中華は本場とは違うと知っていて、助言したようだ。従う。

だがこのチキンカレーのチキンは冷たかった。チャーハンはやはり中国とは違った。何だか一人で食べていると空しくなった。そこへあの女性が入って来てビールを飲み始める。聞けば何とポーランド人。スイスのチューリヒで働いているとか。毎年2回ほど、1回1-2週間、一人で各地を回っている。今回も一人で来て車と運転手を一週間チャーターしているとか。




コロンボではネットアクセスは問題なかったという。茶畑はケニアがお勧めという。彼氏とスカイプしたいが、ネット状況が悪く、プライバシーも保てないとまくし立てる。何とも元気な女性だ。雨の日はこんな女性との会話も悪くない。


 

ホテルを探して

ヌワラエリヤでのホテルを探す。最初のホテルは街からかなり離れた一面茶畑のいい雰囲気の場所。ホテルとしては決して良いとは言えないし、Wifiもないとのことだが、ここに泊まれ、とスマが言えば泊まってみようと思うホテル。







2軒目はかなり街に近づいた立派なホテル。きれいな外装。ただ朝夕食込ではあるが70ドルは高いと判断され、見送り。3軒目は街中直ぐに競馬場の前。だがここもよくないとのことで、そのホテルの人に連れられて、競馬場の反対側の路地へ。きれいな外装のゲストハウスがあったが、街から遠い、という理由で却下。




そして再度競馬場前に戻り、数軒あるホテルからスマが一軒を選び中へ。とても品の良いお婆さんが出て来てここに決まる。スマは知り合いの寺に泊まると言って去る。部屋は奥の建物の3階。雰囲気は悪くない。







英国時代のホテルと競馬場

実はホテルを探す途中、街中にあるイギリス時代からある建物をいくつか見た。総督の屋敷は郵便局になっていた。他にも警察署など役所に使われているケースが多い。




そんな中でも一際目を惹くのがグランドホテル。1892年の開業というから古い。前庭が広く、きれいな芝と花に囲まれ、優雅な気分になれる。裏庭までよく整備されている。建物の中は典型的な英国風ホテル。1泊200ドルはするらしい。偶には泊まってみたいが、早々に退散。




ホテルの横にはゴルフ場もあり、植民地時代のイギリス人がここに泊まり、そのままホテルからコースへ出る姿が目に浮かぶ。今でも客は欧米人ばかりに見えた。ゴルフコースはフラットだが、バンカーなどが配され、意外と難しいのではと推察。




そしてホテルの直ぐ近くには競馬場。イギリス人の植民地政策の典型的な作り。全てが揃っている。今でも年に1回、競馬が行われるとかで、厩舎もあり、馬もいる。だが日頃は庶民のサッカーグランドなどになっている。




この競馬場の周辺にはホテルが多い。今でも1-4月のハイシーズンには欧米人、スリランカ人がこの地に押し寄せ、競馬などを楽しむらしい。ホテル料金も値上がりし、予約も取れないとのことだ。

 

11月9日(金)   お寺の学校

朝は6時に起き、朝食。スマはパンを焼き、出してくれた。そして紅茶を飲み、バナナを食べ、充実の御飯が終了。今日はヌワラエリヤへ行くと聞いていたが、出発までの間に周囲を散策。




この辺はかなりの森があるが、坂を上がると道へ出る。その角には学校がある。元々はお寺が建てたそうだが、今は政府の管轄になっている。狭い校庭には、白い制服を着た中学生が沢山いた。私が通りかかると一斉にこちらを向く。中には英語で話し掛けて来る子もいる。何とも気さくな、それでいて好奇心旺盛な子供たち。道の向かい側には小学校もあるようで、こちらは可愛い子達が、目を輝かせていた。


   

 

学校の横にはお寺の日曜学校用のスペースもある。この付近の子供達は何キロも離れた学校へ行かなければならなかったが、ここに学校が出来、大いに助かっているという。日本のように廃校が続く少子化の国と違い、この国はこどもの数が多い。穏やかな中にも安定的な成長が予感される。

4.   ヌアラ・エリア  茶工場

キャンディを出発して2時間もしない内に茶畑が見えてきた。そして最初の茶工場、グレンノッチに立ち寄る。ここでは工場見学者を快く受け入れ、案内人が英語で説明もしてくれる。茶の製造工程を実際に見ながら説明を聞くのは良い。




600人の摘み手が積んだ茶葉が運ばれて来ており、12時間ほど室内乾燥。一部機械的に風を入れて水分を50%飛ばす。その後ローリング20分。ここで茶葉に含まれる雑物を取り除く。そしてカッティング。茶葉を小さく砕く。それからソーティング。ここで細かいダストは下へ落ちる。大きなままの茶葉は再度カッティングへ。枝などを取り除き、最終段階へ。等級ごとにソートされた茶葉が乾燥機に入れられる。最後にパッキング。




説明者の女性が非常に明快だったので、更に突っ込んで茶の歴史を聞く。1867年にジェームズ・テーラーが中国から茶葉を持ち込んだことは昨日聞いたが、その後ハイブリットされ、今日に至った。それ以上はキャンディの博物館へ行くようにと言われる。ここのティールームではBOPF紅茶が振舞われた。かなり濃いお茶のようで、私は好きだが、一般的にはミルクを入れて飲むという。また砂糖はふんだんに入れるらしい。







次に向かった茶工場も案内人がいたが、彼は急いでいたらしく、説明も乱暴で、質問にもあまり答えずに、握手して、直ぐに車に乗ってどこかへ行ってしまった。これは仕方がないと次へ行こうとするとスマが一人のオジサンを捕まえていた。彼はここのスーパーバイザー、茶摘みの監督だ。昼休みにも拘らず、我々に付き合って話をしてくれた。仏教信者は有難い。







茶摘みは年中行われており、茶摘み女性のノルマは1日4時間、20㎏だという。これで賃金は515ルピー。20㎏以上摘む、または4時間以上働く場合は残業となり、1㎏あたり17ルピーが支払われる。ワーカーは皆タミル人で、子供の頃から親がやっている仕事を見ており、労働環境は良くないが、特に労働者が不足することもなく、皆働くという。農薬はあまり使わず、年2回程度撒くのみ。雑草を取るなど茶畑は手間が掛かると嘆くが、それほど嫌でもなさそうだった。ここでランチも取る。ビュッフェ形式だが、それほど美味しいと思わない。何だか似たようなものを食べている感じだ。運転手さんはご飯を山盛りにして手で食べている。




3軒目を訪れるもまた案内人に連れられて、工場見学。いい加減飽きてきた。そして歴史の話も出来ず、何となく中途半端に終了。日本の国旗が掲げられており、日本との取引があるようだが、具体的には分からない。不完全燃焼に終わる。





 

お寺に泊まる

お姉さんの家を辞し、スマのお寺へ。お寺はここから25㎞離れているらしい。結構田舎の道を走り、更に狭い道を分け入り、到着。お堂と僧院があったが、日本的ではなく、普通の家のようにも見える。




日本のお寺の宿坊は今はどうなっているのだろうか。お坊さんは雑魚寝ではないのだろうか。ここには3人に若者僧がいるが、皆個室だ。私にも個室が割り当てられ、快適そう。特に部屋の外にある椅子に座っていると、疲れも忘れ、いい気持ちだ。ここには喧騒もなく、すっきりしている。だが、自然の中だ。虫はいる。特に蚊がまた襲ってきた。




スマが電気ポットで湯を沸かし、紅茶を淹れてくれる。いい感じだ。あたりは暗くなってきた。しかし夕飯あるのだろうか。ここはお寺だ。どうなるのか、見ていると、「お湯を用意した」と言われる。スマの執務室の脇には水洗トイレがある。そこに湯が運ばれる。ここでは基本的に水を浴びるだけだが、特別にしてくれたらしい。申し訳ない話だが、嬉しい。




湯に限りがあるので節約して使う。この気持ち、大切だ。ここに来て、例えば、トイレの紙なども出来るだけ節約するようにした。あるもので間に合わせる、子供の頃、そんな言葉を聞いた気がするが、今は無ければ買ってこい、だから、どうしてもギャップがある。口で節電などと言いながら、至る所で電気を使い、お湯を大量に消費する日本を考え直す時期が来ているとみて間違いない。




何と夕飯も出て来た。スマの方針で「午後は食べない」とする考えは取らないという。そういう戒律、ルールよりも、食べたければ食べてよい、悩みがあれば話せばよい、と若者に言い、若者に寄り添っていく姿勢を強調していた。日本では老害と呼ばれる人々による精神論があるが、スマのこの考え方、実は真の仏教に近いのではないだろうか。権威主義的な宗教は必ずしも良いものではないと感じる。




食事は若い僧が作ってくれた。茄子の煮つけ、オクラなど。それをご飯に載せ、カレー味を付けて食べる。これは良い食事だ。食べ過ぎることもない。その夜は蚊帳を吊り、早々に寝る。

 

茶葉研究所と博物館

キャンディは茶の産地としても有名。ここには茶葉研究所があると聞き、突然訪ねて見る。小山の上に有ったその研究所の前には茶樹が植えられ、いい感じで育っていた。オフィスへ行き、茶の歴史の話を聞きたいと申し出ると男性が応対してくれた。ただ彼は何だか急いでいるようで、話を早く切れ上げたいと顔に書いてある。分かったことはスリランカの茶葉生産は90%以上が紅茶だが、中東向けなどで緑茶生産も始まっていることぐらい。どうやら帰宅時間のようだ。

茶の歴史に関してはTea Museumに行けという。研究所の直ぐ近くだと言うので急いで行って見ると、小さな製茶工場のような建物があり、その横に博物館が併設されている。入り口が分かり難く、ようやく探し当てて入ろうとすると何と今日はもう閉館だという。しかし表示には4時半までとあり、まだ3時40分だ。しかし良く見るとチケット販売時間が3時半まで。お客が無いのでスタッフが帰ろうとしていた。日本から来たことを告げ、入れてくれるよう頼むが断られ、ではせめて資料だけでも、と言っても取り合ってくれなかった。この辺にイギリス統治下の慣習、親切心の無さ、政府機関関係者の対応が見えるようだった。




この博物館、それほど重要なのかとの思いで立ち去るが、その後何処へ行っても「茶の歴史はここ」と言われてしまい、どうしても行かねばならないと自覚する。

お姉さんの家

仕方なく次へ進む。次はスマのお姉さんの家へ行くという。スマはいないが、そこで紅茶を飲んだらどうかという提案らしい。行って見て驚く。小高い山の中腹、自然に囲まれ、キャンディ市内も見渡せる場所に家があった。そして家の中は実に豪華。斜面に作られているため、家が3段階になっている。大豪邸である。




入り口にはソファーセットが2つ。バルコニーへ出ることもできる。天井も高い。実に居心地が良い空間。一段降りると階段の両脇に部屋がいくつか見える。そして一番下には大きなテーブルがあり、お茶を頂く。キッチンも大きく、バルコニーもある。何とも結婚式場を思わせる。




紅茶は実に美味しい。基本的にミルクティを飲むようだが、私の為にプレーンティを淹れてくれた。他の皆さんはミルクと砂糖をたっぷり入れて飲む。実に甘そうなケーキが出て来る。ビスケットも出て来る。家庭でのもてなしはやはり量が大事。

ある年齢以上の人は家庭ではミルクティしか飲まないと言う。偶にコーヒーを飲むにしてもネスカフェのインスタント。ネスカフェは非常に有名で、コーヒーと言わずネスカフェ=コーヒーといった感じだ。紅茶は朝、10時、昼、3時、夜と多い人は一日5回飲む。10時と3時にはおやつも食べる。日本の3時のおやつは元々イギリス、そしてアメリカからもたらされたのだろう。




お姉さんは政府職員だったが既に引退。ご主人は弁護士、息子はコロンボの学校へ行っているとか。絵に描いたようなエリート一家だ。ということはスマも裕福な家庭の出身なのだろう。そこからお坊さんになる、ということはどんな気持ちなのだろうか。

 

仏歯寺

キャンディ市内には大きな湖がある。ここが中心だ。そしてその横にあるのが仏歯寺。キャンディでは兎に角ここだけは行け、という聖地である。ブッダの葬儀の際に持ち出された歯はスリランカへ持ち込まれ、歴代王朝はこの仏歯を主権者の象徴とし、都の証とした。そのため歯は転々としたが、最後の王朝があったキャンディに落ち着いているという。




寺へ入るとスリランカの伝説の人物や初代首相セナナヤーケの像など様々な歴史が見える。そして寺はかなり新しく見えたが、2009年にテロ事件で破壊され、修復されたと聞く。仏教の聖地が異教徒の攻撃に遭う、どんなことだったのだろうか。ちょうど内戦が終結した時期であったので、残念な話だ。







靴を預けて中へ。本堂の前には沢山の信者が何をするでもなく座っていた。こんな光景は良い。木造の本堂の周囲を回り、2階へ上がる。薄暗い中に所々光がさし、良い雰囲気だ。残念ながら仏の歯を見る機会は殆どないとのことだが、それはそれでよい。毎年1度、ペラヘラ祭りという盛大な行事で仏歯を入れた箱を乗せた象が市内を練り歩くという。約2週間の行事だというから相当大掛かりだ。




寺の前にはクイーンズホテルという由緒正しそうなホテルが建っている。この周辺は外国人も多く見られる。私のPCが使えるかどうか試すためにインターネットカフェに立ち寄る。PC接続は可能とのことだったが、何と満員で席が無い。諦めて次回を期す。スリランカでも携帯とネットは今や必需品。毎月5000ルピーの通信費を使っている若者も多いという。







更にショッピングセンターを覗く。ジョルダーノなどの若者向けファッションが入居。スーパーマーケットに銀行もあり、お客はあまりいないが、少しずつ消費喚起が行われていることが分かる。このような最新のショッピングセンターがキャンディにあることも驚くが、恐らくはそれが中東のイスラム資本による進出だと行くともっと驚く。


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