6. 高岡
不思議なホテル
高岡へ向かう。富山から高岡まで各停でも30分。距離は非常に近い。だが、この2つの都市の間にはとても大きな溝がある、と聞いた。高岡は京風文化の街であるらしい。
実は今朝ホテルを予約しようと思ったが、予約できないホテルがいくつもあった。そんなに混んでいるのか、駅についても特に人が多い様子もない。仕方なく予約した駅前のホテルは分かり難く、電話で場所を尋ねた。何と普通のビルをビジネスホテルに替えたものらしい。分かり難いわけだ。
そしてこのホテル、実に面白い。インターネットはあるが、特殊な機械を使わないと繋がらない。WIFIの時代からすると10年以上遅れている。私は持参のポケットWIFIで凌いだ。部屋のドアはカードキー方式だったが、何とドアは自動では閉まらなかった。一度フロントへ行き、戻ってドア分けると開いていて驚いた。確かに横に説明書きはあったのだが、これもまた何十年前のものなのだろうか。
ワンフロアーの部屋数も少なく、フロントも呼び出さないと出て来ないし、出てきても不機嫌そうである。今のホテルチェーンに逆行したようなサービス。大浴場もあると書いてあったが、大は余計であった。全てが不思議、ネタとしては面白いが。
高岡のパキスタン料理
昨晩会ったYさんを呼び出してしまった。何だか一人、という気分ではなかったのだろう。彼女は車でやってきてくれた。夕飯を食べようということになり、「パキスタン料理はどう?」と聞かれて、思わず飛びつく。何で高岡でパキスタン、その意外性が面白い。
場所は高岡から富山の方へ戻ったところのようだった。国道沿い、夕日がきれいに落ちていった。そこは何と、駐車場、いや中古車を停めている場所だった。パキスタンに中古車を輸出する基地だそうだ。そこで働くパキスタン人の為に料理屋が出来、それが地元日本人にも評判を呼んでいた。それにしてもなぜ富山にパキスタン人、不思議だ。
プレハブの食堂、という感じのお店に入ると働いている人はパキスタン人だが、お客は皆日本人。どうやらお店が繁盛したのでここは日本人用にして、パキスタン人用は別の場所に作ったのではないだろうか。ナンとチキンカレーを頼んでみた。予想よりはるかに大きいナン、そして大量のカレー。確かに味は良く、黙々と食べてしまった。インドではナンは高級品で普通はチャパティを食べる。日本はなんて贅沢なんだろう、などと思ってしまう。
帰りに道の駅、に寄った。明日どこへ行くのがよいか、作戦を立てるためであった。高岡や富山の地図はあったが、各地がバラバタ。これでは大阪や東京から来る外国人には使いにくい。勿論日本人しか範疇にはないのだろうが、もし外国人にも来て欲しいなら、「自分の街はこんなに素晴らしいだけではなく、自分の街までどうやってくるのか」を示してほしい。各自治体は考え方を改めるべきだろう。
http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5851
またTSUTAYAを通った。ここには車が沢山駐車されており、人が沢山いた。「高岡の若者は夜になると車で出歩く」との言葉に、東京や大阪との違いを感じる。昼間道を歩いていても、日本の地方都市のことは分からない、ということだろう。
芦峅寺界隈
この辺りは実に雰囲気が良い。教算坊という江戸時代の宿坊の庭は見事であった。隣の神社も歴史を感じさせる。その中で博物館だけで現代風で浮き上がっていて、景観上好ましいとは言えない。阿闍梨法印が仏祖報恩のため、建立したという種子石碑が並ぶ坂を下る。ここも古き良き道のムードに溢れている。
布橋、あの世とこの世を渡す、天の浮橋とも呼ばれ、江戸時代芦峅寺の重要行事であった灌頂会の際、女性たちが目隠しして、この橋を渡ったという。やましい行いのあった女性はそこで橋から落ちる、という話は、先日沖縄の久高島で聞いたイザイホーの儀式に通じるものがある。「戒め」「箍」という言葉が思い出される。今の世には「お天道様は全てお見通し」という概念が欠けている。
橋の先には墓があった。ここに過去寺があった証拠であろうか。驚いたことに芦峅寺という寺は既になく、地名として名を留めているのみ。周囲は公園のようになっており、旧家が移築されていて、往時の面影を見ることはできる。
2時間後、ビデオ上映をみた。立山の歴史や自然に関するものだった。歩いて見てきたことが説明されており、興味深い所もあった。立山信仰、私の中には殆どなかったイメージが膨れた。そしてビデオが終わると、場内のカーテンが開き、立山連峰が一望できた。ビデオ上映中は降っていた雨はなぜか上がっていた。観客は私の他に一人だけ。勿体無い景色だった。
博物館の受付によれば、「バスは時刻表通り動いている」とのことであったが、今日は休みのような気がして、歩いて千垣駅に戻る。そしてやはり駅に着いてもバスの来る気配はなかった。博物館の人は通勤は車でありバスなどに乗ることはないので、知らないのだろうが、間違った案内により、電車に乗り遅れたりしたら、目も当てられない。何しろ1時間に一本程度しかないのだから。そのまま電車で富山へ帰った。
そしてNさんに聞いた「反魂丹」を売る老舗の薬屋、池田屋安兵衛商店を訪ねた。ここは駅から少し離れた商店街の近くにあった。堂々とした店構え、中には昔の薬作りについての展示物があり、観光客が見学することもできた。勿論薬を買いに来る地元に人もいた。実は先日訪ねた蛭谷は和紙の産地でもあり、富山の薬を包む紙として使われたのかと推測、尋ねてみたが、「江戸時代以降、薬を包む紙は八尾で作られている」との回答であった。蛭谷の謎はここでも解けなかった。
6月22日
6. 立山
立山へ
翌朝はスッキリ目覚める。天気も回復していた。朝食はホテルが無料で提供。朝から生卵をご飯にかけて食べ、満足してしまった。休日であり、皆さんゆっくりご飯を食べており、慌ただしさはない。
今日は立山へ行くことにした。昨晩Yさんより、折角だから立山のパノラマを見た方がよい、と言われてので。芦峅寺を目指せ、の一言で富山駅へ。立山行の電車に乗り込む。目的地は立山博物館、駅は千垣という名前。それだけを知り、電車に揺られ、田舎道を行く。
小1時間で千垣に到着。非常に小さな無人駅。電車を降りる時に一両目の頭しかドアが開かず焦って降りる。すると運転手が慌てて下りてきて、「切符」と叫ぶ。私は電車の降り方も知らずに乗ったのだ。
千垣駅は何とも古風な駅舎を持っていた。如何にも映画のロケ地になりそうな場所である。そこからどちらへ歩いて行くのか、聞く相手もいない。仕方なく適当に歩く。線路沿いの車が通る道を行くと、庚申塚や石仏群が現れる。この道が古来立山への参道だったことが分かる。少しずつ上っていく感じ。そして2㎞あまり歩いて、博物館に到着。お目当てのパノラマショーは2時間後、とのことで、周囲を歩き出す。
平日の昼間、スクンビットからバスに乗ったのは間違いだった。48番のバスで終点まで行けば直ぐに分かると書いてあったのだが、そのバスが来ない。大渋滞だ。仕方なく同じ方向の無料バスに乗り、様子を見る。ウトウトしていると、1時間近くも過ぎたが、プロンポーンからサヤームまでしか行っていない。バスを降り、48番を待つがどうしても来ないので508に乗ってみる。エアコン付きのバスは行先を言わなければならないが、「ワット・ポー」と車掌に言うと大きく頷いたので、何とかなりそうだ。
バスはヤワラーの北の道を行き、地下鉄工事の影響かくねくね曲がり、何とかワット・ポーの横に着いた時には午後4時になっていた。スクンビットからここまで2時間近くかかった。何たること。そしてワット・ポーの横を南へ向かうとまた道路工事。その向こう側に目指すサヤーム・ミュージアムがあった。レトロな建物が印象的。だが中は結構モダン。
入口へ行くと係員の女性が「あなたはラッキー、4時から入場料無料です」と言ってシールを張ってくれた。外国人300バーツと聞いていたので、すごく得した気分。先ずはビデオ上映を強制的に見させられる。普通の博物館では素通りするが、ここはそうはいかない。面白い。
5分ぐらいのビデオで、「タイ人はどこから来たのか」というこのミュージアムのテーマと、そして「過去はどうであれば今のあなたはタイ人」という地元向けのメッセージが込められていた。こんなビデオは珍しい。タイ料理って?というところでは思わず笑ってしまった。日本とタイ、色々な意味で似ているところがあるが、「自国民のルーツ」に触れたがない国にしては斬新な企画だ。日本もやればよい、と思うのだが。
3階の上がると先ず「スワナンプーン」が出て来る。これは今の空港の名前だが「黄金の地」という意味らしい。この辺も「ジパング」を想起させるが、肥沃な土地であり、様々な人々の攻防があったことを窺わせる。そして様々な民族が往来し、様々な文化が過ぎ去り、宗教も登場する。仏教の部屋はかなり明かりを落としてあり、瞑想スペースになっているが興味深い。タイに仏教が入ったのはいつ?それからスコータイ、アユタヤ、と時代が流れていく。
このミュージアムは外国人観光客に見せる博物館とは違い、自国民にタイを考えさせるところが面白い。ただ私が常々テーマにしている「タイ人とはだれか?どこから来たのか?中国との関係は?」というところに関して、明確な回答が示されているわけではない。そこも日本と似ているようだ。
その後夕暮れのワット・アルンを訪ねる。わずか3バーツの渡し舟。乗ったのは20年ぶりだろうか。三島由紀夫の「暁の寺」は最後の長編小説「豊饒の海」4部作の第3巻。タイのお姫様が登場し、輪廻転生が語られる。中学生の私はこの小説で輪廻転生を知り、深く興味を持った。そして今は、輪廻転生が信じられている国にいる。
あのワット・アルンは一大観光地。団体さんの行列が夕方でも多く、50バーツ払って中へ入っても欧米人が急な階段を上っている姿を見ると、何だか小説を思い出したくなくなった。この寺はとにかく形が良い。チャオプラヤー河から見ても、渡し舟を下りてみても、実にいい。暁の寺ではあるが、夕暮れ時は特によい。うっとりと見惚れていた。帰りはバスで夢見心地、眠りこけた。
4. 富山
富山散歩
Hさんと駅でお別れして、富山行の各停に乗る。もう完全に各停の常連だ。富山駅まで小1時間、何事もなく、過ぎた。富山駅で下車。駅は2015年開業予定の北陸新幹線の工事が行われていた。因みに新幹線が出来ればよい、と勝手に思っていたが、地元の人によれば「現在富山発のサンダーバード大阪行きが、金沢始発になるのでむしろ不便になる」との声があり、驚く。ここは関東より関西に近い場所、ということなのだろうか。
駅の近くのビジネスホテルに投宿。まあどこにでもあるビジネスホテル。部屋も狭い。が、驚いたことに、テレビ番組の中に香港のフェニックステレビがある。一体誰が見るのだろうか?中国人がここに泊まって、フェニックステレビを見る、ちょっと面白い。
富山の街を散歩してみた。駅前から路面電車が走っている。小雨の降る中、敢えて徒歩で富山城を目指す。今は公園になっているこのお城、中には2代藩主前田正甫の像がある。伝説では、この正甫が江戸城で腹痛を起こした他の大名に反魂丹という薬を渡したところ、たちどころに治り、諸藩より求められたのが、「越中富山の薬売り」の始まりだとか。
公園内には茶筅塚など、色々と記念碑があり、雨に濡れてしっとりとした雰囲気が良い。城の堀沿いには遊覧船もあるようだが、今日はお役御免のようだ。1時間ほどぐるっと回ってみたが、富山の街は落ち着きがあり、静けさの中にあった。ある意味、地方都市らしい地方都市、ということだろうか。
再会
夜は北京時代にお知り合いになったNさんとYさんと再会した。Nさんはこの4月に富山に転勤になったばかり。Yさんはお隣の高岡市在住になっていたが、わざわざやってきてくれた。富山にお知り合いがいるとは思っていなかったので、喜ばしい出会いであった。
食事は富山の海の幸を満喫した。刺身もかき揚げも実に、実に美味かった。先日の札幌でも感じたことだが、日本の地方都市は食に恵まれている。というより、東京などの大都市が恵まれていない、ということだろう。もっと日本を見直す必要がある。
富山には韓国人が多く訪れていたが、昨年の竹島問題以降、観光客が激減しているらしい。地理的に近いというだけではなく、日本の良さが感じられる富山は高く評価されていたのではないか。それが政治で翻弄されてしまうのは残念でならない。
茶畑
伝承館を後にして、茶畑を見学する。茶畑は町の中にあり、遠くに山々が見えるいい景色の中にあった。『お茶実証畑』と書かれた看板が立つ。畑はここ1つだけ、ここでバタバタ茶製造の原料となる茶葉を摘んでいる。海辺に近いこともあり、標高はなく、平地に畑が続く。
茶樹は『やぶきた』と書かれている。あと1月もしないうちに茶摘みが始まることもあり、茶葉が元気に育っていた。ここは公園にもなっていて、向こうの方にまるで原始時代のような藁葺の家屋が見えた。バタバタ茶が何となく愛おしくなってきた。
すぐそばに『なないろ館』という郷土の特産品などを扱っているところがあった。富山県には各地に窯があり、焼き物が盛んなようだ。海辺ではヒスイの原石が今でも見つけることが出来るという。『縄文時代から古墳時代にかけ、朝日町はヒスイの玉つくりの地』だったそうで、古代のロマンに満ちていた。
この地はその昔、中国や朝鮮半島と独自の交易があったのではないだろうか。ヒスイの貿易がメインだったかもしれないが、それに伴い、モノや人の往来があり、独特の文化が築かれた、そんな気がしている。
最後に町役場へ行き、町の歴史についての資料を探したら、親切にも『町史』を貸して頂いた。ただ残念ながらお茶についての記述は殆ど無く、バタバタ茶については、分からないことが多く残ってしまった。
バンコックで生活する限り、食事に困ることはほぼない。何しろ安くて美味しい屋台料理が並んでいるのだから。言葉が一言も通じなくても、笑顔一つで注文し、美味しく頂く。ずっとこの生活を続けてきたが、バーンタオ氏がガスコンロを設置してくれたので、自炊にチャレンジしてみる。
現在の宿泊先には、多少の食器が残されている。初日は乾麺を戻し、うどんを作ったが、当然あると思っていた箸が見当たらない。そうか、タイの普通の家庭では箸は使わないのだ。フォークとスプーンで皆上手に食べている。その日はスプーンで麺を茹で、フォークでうどんをすすった。これも乙なものだった。またまな板がなかった。いや、あったが、あれは丸太の輪切り??すごく重い。スーパーにも売っていたから、普通に使うもののようだ。使ってみると意外と使いやすいのでビックリ。
一人用の片手鍋を買ってきたら、何とコンロのサイズと合わず、使えなかった。コンロは2つあるのだが、どちらも同じ大きさ。何故?と言っても始まらない。タイ産あきたこまちを炊くのに、大きな鍋を使用。しかも蓋がちゃんと閉まらない。途中噴いてくると手で押さえながら、『赤子が泣いても蓋とるな』と叫ぶ。それでも何とか炊けてしまった。あら不思議。因みにタイ産は安い。2㎏で400円はしないが、美味しい。
タイのスーパーにはキッコウマンの醤油でもハウスの七味唐辛子でも、何でも売っている。しかも他の海外で買うよりかなり安い。肉も一人用なら豚で100円ぐらい。野菜はちょっと高いな、と思うが、それでも日本よりは勿論安い。ここでは自炊生活をしても安く上がるだろう。当たり前のことだが、やってみると新たな発見がある。
因みに今日の昼は日本亭でかつとじ定食を頂く。デザート、コーヒーまで付いて約1000円。これがとてつもなく高く感じられるが、日本なら2倍ぐらい取られそう。やはりタイは安くて便利、ということだ。
バタバタ茶会
伝承館に10名程度の人々が集い、茶会が始まった。茶葉を布で包んで鍋に放り込み、煮出している。皆さん、マイ茶碗、マイ茶筅を持ってきており、煮出した茶を碗に注ぐ。そして素早い動きで茶筅を碗の両側に打ち付け、バタバタ音をさせながら、茶をたてる。これがバタバタ茶の名前の由来だ。
この茶のたて方、飲み方がいつどこから伝わったのかは定かではないらしい。私が4月に訪ねた中国広西壮族自治区の梧州で作られていた六堡茶と製法が同じと言われているが、この町ではそれすら知られてはいない。茶は中国から来たのだから、この製法も中国から来たのでは?と言っても真実を知るすべがない。一応公式見解は⇒ http://www.shokoren-toyama.or.jp/~batabata/
仏教に絡んでこの茶が生まれたのではないか、との話もある。この付近は一向宗であるが、なぜか蛭谷には寺がないため、自宅で仏事、茶会をする習慣が残ったというのだ。お茶と仏教は深い関係にあるので、十分に考えられる。また蛭谷と川を挟んで対岸にある羽入は全く違う土地柄であることから、蛭谷の人々はいつの時代かに別の土地からやってきた、茶の製法も持ってきたのではないとの説もある。実際蛭谷の人々は非常に明るい。太陽が出る方角だから、というだけではあるまい。
そんなことを考えているとおばあちゃん達は、どんどん茶を飲み、ケタケタ笑いながらとりとめもない話をしている。『そんな混ぜ方じゃダメだよ』と手本を見せてくれたり、昔話をしてくれる。少なくとも皆さん、子供の頃から慣れ親しんだ茶である。おばあちゃんがバタバタやってくれると味がまろやかになり、美味しいのは何故。
『昔はお茶に塩を入れていたよ。そうすると美味しんだ。けど、最近は健康診断あるでしょう。すぐに血圧などに影響が出るから、今は入れないの』という。そういいながらも塩が置かれており、入れてみると何となく味がすっきりしているようだ。いずれにしてもこのお茶はあっさりしていて飲みやすい。
そしてお当番の家で作られた漬物、実に実においしい。最初は遠慮していたが、あまりの美味しさについつい手が出てしまう。自ら作ったキュウリや大根を漬けている。山菜も山から採ってきている。非常に自然な味だ。
あっという間に時間が過ぎ、参加者は開始同様、三々五々帰って行った。『さよなら』とも言わない人が多い。どうせまたすぐ会うからだろうか。帰ろうとするとお当番さんが『おにぎり作ったから食べていきなよ』と言って、漬物とおにぎりが差し出された。既にお茶会でお腹一杯だったが、ありがたく頂戴した。このおにぎりもうまかった。何とも幸せな茶会だった。感謝。
6月21日
蛭谷へ
すっきりした朝の目覚め。PCを見ないとこんなに楽なのか、と改めて感じる。またこの環境、素晴らしい。朝8時過ぎに、ホテルの方へ行き、朝食を食べる。団体さんは既に朝食を終え、バスに乗り込んでいる。朝ごはんは充実しており、満足した。9時半にHさんが迎えに来てくれた。湯治場ともお別れ。名残惜しい。フロントの男性からは色々な話を聞いたが、何と元お坊さんだったようだ。もっと話を聞けばよかった、残念。
車は川沿いを走る。蛭谷地区は以前戸数100戸あったが、今では30戸、150人が暮らす町。伝承館というバタバタ茶の伝統を守る施設がある。ここで週4回、午前中に地元の人が集まり、茶会が開かれている。私はこれに参加させてもらった。お当番の女性が準備をしており、10時頃から三々五々人が集まり、バタバタ茶を飲みながら、お話している。
バタバタ茶の歴史は相当古い。基本的には仏事。各家庭で故人の祥月命日に茶会を開催、知り合いが集まって茶を飲み供養する。蛭谷(ビルダン、ベルダン)地区では今でも続いているが、準備などが大変で開催が減ってきている。それに伴い茶の需要も減り、生産もほぼなくなり、他の場所(福井辺り)で作られた物を買って凌いでいた。
だがその茶農家も生産を中止することとなり、このままではバタバタ茶がなくなると危惧したHさんら、町の人々は茶作りをしていた最後の一人に教えを乞うて見事復活させたのだという。現在の茶葉生産量は年間僅か3000㎏で、とても商売に適した生産量は確保できない。年1回7月頃に茶葉を摘み、40日掛けて作る。専業農家はなく、友の会で生産している。このバタバタ茶、作るのはかなり難しい。何度も試行錯誤を重ねているが、未だに完璧に作れることはないという。Hさんは『発酵させている間は一日2₋3回の見回りが欠かせない。本当につらい作業だ』と言っている。
しかしなぜ蛭谷というのか。なぜ『びるだん』と読むのか。そしてなぜここでバタバタ茶が飲まれているのか、謎は深まるばかりだ。
本日もお茶三昧。在タイ20年のI姐さんと日本茶アドバイザーIさんとバンコックのチャイナタウン、ヤワラーへ。サパン・タクシンのフェリー乗り場集合ということで、BTSで向かう。今日はいい天気だ。船着き場、懐かしい。昔家族でマリオットリゾートに泊まり、毎日船で渡ってきた日が思い出された。
観光用のボーとはすぐに来たが、一般用はかなり待つ。その間に欧米人など観光客が増える。やはり休日は人が多い。船内で15バーツ払う。ちょっと乗っていたらすぐに到着。そこから歩いて数分でヤワラーのメインロードへ出る。その間、店が道路を狭めて客を引き付け、歩きにくい。
先ずは茶器屋さんに行ったが、海南出身のおばあちゃんは結婚式で地方へ行っており不在。食事をとるため、屋台を探す。地下鉄工事の影響で道が悪い。屋台では鴨麺を食す。これは私の大好物であり、満足。
歩いていると老舗のお茶屋があり、Iさんが茶盤を購入。この店も数年のうちにきれいになった。開業40数年だそうだ。ここのレトロな看板、パッケージは悪くない。パッケージと言えば、この店の並びにある獅馬印はもっとレトロだが、今日は閉まっていた。
そしてお目当てのお茶屋さん、ヤワラーに面したDouble Dogs Tea Roomを訪ねたが、午後1時オープンとありながら、まだ開いていなかった。中華系ではよくあること、ましてここはタイ。そんなものだろう。
仕方なく、1階にロータスの入っているビルへ。実はここの2階は朝から爺さんたちが茶を飲んでいる場所。しかしいつも爺さんしかいない。午後になると中国大陸からやってきた若い?女性たちが『お話し相手』になってくれるという、なんとも不思議な場所。
Tea Roomに戻ると、すでに開店していたが、驚いたことに結構お客がいたこと。このようなお洒落なお茶屋さん、ニーズが高いということか。欧米人もいたが、タイ人が多いので更に驚く。時代は確実にそこまで来ている。
オーナーのジョンラックさんに話を聞く。タイ生まれの潮州華人。京都の宇治にいたこともあるが、お茶とは関係なく、たんぱく質の研究をしていたというから面白い。お店を開いて2年、中国、台湾茶をメインに、日本茶も扱う。茶器や茶筅も販売している。プロだから当然だが、お茶の知識はかなりある。
水仙茶を頼む。オーナー自らが小さな茶盤の上に小さな急須を乗せて持ってきて、説明しながら淹れてくれる(一煎目のみ)。これはなかなか良い。あとの二人は潮州緑茶と黄金桂をオーダー。お茶は一人あたり120-180バーツ程度。お菓子セットは95バーツで4種類。居心地が良いので、まったりダラダラ。気が付けば3時間近くいた。
週末はかなりお客の出入りがあるが、平日はそんなに混んでいないようなので、次回は平日の午後、再訪しようと思う。