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(13) 奇跡のベルルマート

車に戻り、ベルルマートへ出発。ところが・・。何と片道一車線の道が全く動かない。何かが起こっている。運転手も驚いて車から飛び出し、前に見に行く。そして諦めたように「ドルガプージャ」と叫ぶ。このお祭り、もう終わったのではないのか。見ていると、長い長い行列が植物園の方に向かい、歩いてくる。鼓笛隊あり、ドルガの人形の山車あり、大勢が嬉しそうに歩いてくる。これではお手上げである。




この行列が過ぎるのに20分は要した。ここから目的地まではどの程度離れているのか分からない。運転手には敢えて急いでいると告げない。告げるとよくないことが起こりそうだったから。その後車は順調に進んだ。此れなら急がなくても間に合うかもしれない。


しかしインドはそう甘い世界ではなかった。運転手は脇道を進んだが、また車が止まる。今度は踏切だ。まるで障害物競走のようだ。それでも踏切だから数分のことと思ったのが間違い。電車はいつになってもやって来ない。リキャーなどはバーの上から車を越えさせ、通って行く。初めは笑って見ていたが、これが15分も続くと堪らない。それでも私の心境は「なるようにしかならない」というもの。インドで悟りを開いたか。


20分待って列車が行き、ゆっくりと遮断機が上がる。しかし人も車も一斉に進もうとするから、直ぐには動き出せない。物凄い時間のロスであった。それでも何となく楽しい。もうそれほど時間はない。それから車は関を切ったように進む。でも時間が。そして・・。


そして突然、ベルルマートに到着した。何と時間はちょうど5時。これはもう奇跡だ。ぴたりと着けた。何故だろうか。やはりなるようにしかならないことを証明した。車が駐車場に入り、私は入口へ。


ベルルマート、ここはラーマクリシュナ・ミッションという宗教団体の総本山。私は実はこの教団に関して殆ど何も知識はない。では何故やってきたのか、それは同級生のSさんがアポを取ってくれたから。Sさんに「コルカタ行くんだけど」と気軽に言うと、「あそこに泊まれるかもしれない」と日本支部に連絡したところ、ちょうど日本に駐在しているスワミがコルカタに戻っており、「8日の午後5時にベルルマートで待っています」と言われたらしい。


私の旅には何故行くのか、とかどんな意味があるのか、などと言う問い掛けはない。ただ行けと言われれば行き、来いと言われれば行く、意味は後から自然と分かるもの、という考え方がある。そういう意味ではこの訪問には何となく惹かれるものがある。

 
(12) タングラ&植物園

午後は車をチャーターし、観光へ。ところが2時に来るはずの車が全く来ない。それでも慌てることもなく、15分過ぎて電話を掛けて呼び、30分遅れで何事もなかったようにやって来る。これがインド流であり、結構重要な経験。怒ってもいいことはない。


先ずは昨日香港食堂のオジサンから教わった唯一中華料理屋が連なっているタングラと言う場所へ行って見る。ホテルから15分ほど行くと、住宅密集地帯から離れ、高級住宅がある。そのあたりに一軒家がレストランになっている所がいくつかあった。言われなければ通り過ぎたと思うほど、控えめに看板が出ており、よく見ると漢字表記もある。


しかし人通りは殆どなく、お客がいるようにも見えない。勿論時刻は3時前なので仕方がないのか。中には廃墟になっている家もある。中国系の墓も見える。確かにここに中国系が多く住んでいた様子は分かる。そして昨日のオジサンの言葉、「みんな出国した」は事実だったようだ。特に見るべきものもなく去る。


次にコルカタの中心、フーグリー河に掛かる橋を渡り、植物園へ行く。これはセットさんの推薦。5時にベルルマートへ行くには時間が余る。比較的近くて、見るべきものがある場所として選ばれたようだ。4時に出れば余裕で間に合うと言うので、30分ほど、見学する。ここは東インド会社が薬草を集めていた場所だという。興味深い。


しかし入場したもののどこへ行ってよいか分からない。特に掲示板もない。まっすぐ進むと「グレートバヤンツリー」と書かれた林が見える。林だと思ったのは実は間違いで、何と2000本以上の枝に分かれた1本の木だという。信じられない大きさ。ちょっと感動。


この植物園は実に広大な敷地を持つ。とても30分で歩けるものではない。でもせっかくなので出来るだけ歩いて行く。池があり、家族連れがボートに乗っている。カップルが池のほとりで囁きあっている。若者が楽しそうにはしゃいでいる。こんなインドを見るのもよい。どんどん歩いて行くと、戻るのが辛くなった。

 
(11) カルダモン

買い物を一つ忘れていた。Hさんご依頼のカルダモン。料理音痴の私の為に、わざわざサンプルまで授けてくれた。買って帰らない訳にはいかない。カルダモンとは「香りの王様」とも呼ばれるカレーには欠かせないスパイス。きっとこれでHさんが料理すれば美味しいカレーが出来るのだろう。


セットさんに聞くと「その辺でいくらでも売っている」と言うが、そういうのが困る。市場まで行くのだろうか。ホテルを出たあたりのお店では、置いていなかった。直ぐ近くにスーパーが1つあったので、そこで聞く。店員は「イライチか」と聞き返す。その名前は何だろう。ベンガル語らしいので、例のサンプルを取り出すと「イライチ」と再びいう。そして売り場を指す。確かにあるある。


しかしカルダモンと言うものも、ピンからキリまであるらしい。値段が相当に違っている袋がいくつかある。いずれにしても日本円で換算すれば大したことが無いので、髙めの袋を2つ購入してみる。結果はどうだっただろうか。


そのままランチへ行く。スーパーの直ぐ近くにベンガル料理と書かれたレストランがあった。ベンガルに来たのだから一度はベンガル料理をと思うが、メニューを見ても、どれがそれか分からない。ちゃんとしたレストランなので慇懃な態度の店主が大仰に応対してくれる。「魚を食べろ」と言うので注文。出て来た魚は味付けが濃く煮込んであり、うーんそれほど、という味。ライスと魚で70rp以上取られると、髙いと言わざるを得ない。チャイを頼む気にもなれずに早々に退散。



 
(10) セットさんのセット

ホテルに戻るとセットさんがやってきた。昨日はお爺さんの葬儀があったらしいが、プロとして頼まれた仕事はきちんとこなしていた。私が頼んだ仕事とは、①ダージリンの茶園までの車、②ダージリン・カリンポン・ガントクのホテル手配、③シッキム行きの入境証、である。


彼は手際よく、紙を出し、一つずつ説明を始める。私にはいいか悪いかもわからないので、ただ従う。ついでに明日の空港までの送りの車も用意されていた。それならばと「今日の午後、ベルルマートという所へ行くこと、またタングラと言う場所へも行って見たい」と告げ、車の手配を頼んでしまう。本当は自力で行くべきであるが、既に相当面倒くさくなっている。特にインドでは何をするにも大変だ。そして今はお祭りの直ぐ後、色々とスムーズにはいかないような気がした。この予感は大いに当たる。


セットさんに中国人について聞いてみた。「中国人は金だけしか考えていない。観光客の行儀は悪いし、旅行会社は契約を守らない」と散々な答え。「中国は金持ちかもしれないが、インドは中国なしでも十分やって行ける」と言い切る。今の日本にこの言動が欲しい。そうでなければ対等な交渉などは望むべくもない。


しかしインドにも大いに問題はある。「従業員のストライキ、これは民主主義とはいえ、経営に大きな影響がある」とも言う。実際彼の旅行会社では、以前20-30人いた社員を必要最低限の8人にまで減らし、ガイドその他の多くを契約社員としたらしい。これにより経営上の負担はかなり減ったという。


またコルカタの街について、「何故植民地時代の建造物をそのまま綺麗にせずに残しているのか」と聞くと、「建物を維持・修理する費用がコルカタには無い」と一言。何とも残念は話だが、プライドは非常に高いベンガル人は、それをこともなげに言う。

 
10月8日(土) (9) メトロ

朝6時には周囲がうるさくなり、今朝も早起きして散歩に出る。昨晩香港食堂のおじさんから聞いた「中国系が多い場所」の一つBowという所へ向かう。インド博物館の道を北へ真っ直ぐ行くだけなので迷うことはない。しかしコルカタの道には道路標示は殆どないため、どこを歩いているのか不安になる。


途中道路脇の地面に大工道具を前に座っている男性が沢山いた。恐らくここは人材市場なのであろう。雇い主が現れるまで、じっと座っているらしい。更に先へ行くと交差点付近で大勢の人がトラックに向かって手を振っている。どうやらこちらも今日の仕事を求める日雇い労働者の集まる場所らしい。植民地時代の建物を背景に、そして古いトラムが通る横で、繰り広げられる職の争奪戦、また自分の位置が分からなくなる。


それからかなり歩いたが、チャイナタウンも漢字の看板も現れない。コルカタは交差点ごとにインド警察がいるので道は聞きやすい。Bowの場所を聞くと、丁寧に教えてくれた。しかし教えられた場所とは異なる場所で、どう見ても中国人のおじさんが家の前に椅子を出して座っているのが見えた。


しかしそれ以降、歩き回るも中国を示すようなものは何も発見できずに終わる。そしてある道でメトロの駅の入り口を発見し、そのまま地下へ降りていく。地下鉄で帰ることにした。切符はどこで買うのだろうか。ここには自販機はなく、窓口へ。ところがどこまで買ってよいか、駅の名前すら分からない。ホテルの最寄駅を知らなかった。取り敢えず地図を見て、適当な場所を告げると、4rpと言われ、あの昔ながらの固い切符が渡される。懐かしい。


ホームへ降りると何とも暗い。そして人は殆どいない。今日は土曜日だからだろうか。いや、デリーならどんな時でも沢山の人がホームに溢れていた。ここコルカタでは、どうやら地下鉄は認知度が低い。路線が少なく利用価値が無いということだろうか。車両も非常に古い。乗っている人も少なかった。3駅ほど乗って降りる。後で気づけば4駅目がホテルの直ぐ近くだったが、これは仕方がない。それ程、駅は目立たない。

 
(8) 香港食堂

夜まで休憩した。今回の目的の一つにコルカタの華人の状況を見るというテーマがある。デリーでも、プネーでも中国系を見ることは殆どなかった。インドにはチャイナタウンが無いと言われている。唯一中国系が多いのがコルカタ、と聞いていた。


ホテルの近くをウロウロしたが、中国系は見当たらないし、街中でも中国語の看板を見ることも稀である。一体どこにいるのだろうか。ようやくホテルの近くに1軒の小さな中華料理屋を発見した。先ずは入ってみる。インド人従業員が英語で話し掛けるが、無視して奥に居た中国系とみられるオジサンに北京語を使ってみた。彼はすぐに北京語で反応した。


先祖は南京から来たという。ただ南京などと言う都市はインド人にはわからないので分かり易い「香港食堂」とい名前を付けている。見れば壁には中国の暦が架けられ、商売の神様も祭られている。オジサンはコルカタ生まれ。食堂は小さい頃からやっているという。


「コルカタの華人は10年前には1万人はいたが、今では1000人だよ」と笑う。後の9000人はどこへ行ったのかと聞くと「それはお前、インドで商売するのは大変なんだよ。祖国が貧しい時には我慢していたが、この10年あれだけ発展したんだ。皆中国を目指すよ。と言っても親戚もどうなったか分からないから、直接中国へ行かないで、英連邦の誼でカナダやオーストラリアなど、中国系移民の多い所で商売替えだ」と言う。なるほど、その通りだ。やはりインドは中国人にとってはとても厳しい場所だったのだ。


10人ちょっとで満員になる1階、それに2階もあるが、使われることはないようだ。お客は旅行者が多く、インド人は限られた人しか入ってこない。「値段が高いんだ。インドの食べ物は物凄く安いから」、それもそうだ。チャーハンが50rp、と言えば、低所得にインド人には厳しい。


主人と北京語で話していると3人連れが入ってきた。日本人の若者男女。その一人が私に「ニーハオ」と笑いかける。私が日本語で応じるとかなりびっくりした表情になる。彼らは近くの安宿に泊まっており、カレーばかりのインド料理で体調を崩した仲間の為にここにやって来たらしい。


彼らは学生でもなく、社会人でもない?ように見えた。コルカタでは「マザーテレサの家でボランティア活動をしている」という。彼らの泊まる安宿に居る日本人は大抵がそうだとも言う。確かにマザーテレサの家はこの近くらしい。具体的にどんなボランティアをしているのかと聞くと「用事があれば手伝っている」との答え。そんなに仕事があるのだろうか。後日インド人に聞くと「彼らは毎日テレサの家にたむろしてお茶飲んで話しているだけ」と言われてしまった。それでも彼らには意義があり、楽しいのだろう。ボランティアとは何か、日本の若者が何故海外でボランティアするのか、興味深いテーマのように思えた。


ところでこの食堂の味だが、正直塩辛い。スープも野菜炒めも同じ。これはインド的な味付けなのだろうか。それでも久しぶりにチャーハンなどを食べると何となく嬉しい。インドから中国が駆逐されてしまうとこれも食べられなくなるということだろうか。


お茶も頼んでみたが、烏龍茶が出される。インドに居る中華系は烏龍茶など飲まないだろうが、これもお客を見たのだろうか。オジサンもお客が来ると忙しいので、早々相手はしてもらえない。インド人が一人、フランス人の女性は一人入ってきて、何やら頼んでいたので、店を出た。


 

 
(7) インド博物館

疲れてはいたが、近くのインド博物館へ向かう。朝の散歩で場所は確認済みであり、スムーズに行ける。ガイドブックでもホテルの近くで載っているのはこの博物館のみ。今日は金曜日だが休みではないだろう。


入り口付近は大変な混雑であった。外国人の姿はまばらで、多くはインド人。チケット売り場に殺到している。私は過去のデリーなどでの経験で知っていた。外国人は別料金だから専用窓口で直ぐ買えることを。探すとやはりある。外国人100rp、インド人1rp。何と100倍である。どうしても納得できない。以前中国でもこんな理不尽な価格設定があったが、今や世界でも6-7位の経済大国インドでこのような二重価格が存在するのは許せない。ただ考えてみれば、これは外国人との二重価格ではなく、カーストなどで阻まれた下層者への配慮であるかもしれない。


1814年建造のこの博物館、イギリス植民地時代は何であったのだろうか。相当大きな規模である。裏にはきれいな庭もあるが、参観者は立ち入り禁止である。2階建ての建物は四方を囲み、中庭もある。ドーム型の柱がコロニアルである。


1階の廊下も広く、仏像、彫刻などがずらっと展示されている。ブッダガヤから出土した仏像には、味がある。欧米人も興味深く見つめている。インド人にはあまり関心が無いようだ。インド人にとって、仏教は既に過去の物であり、興味の対象でないことが分かる。


見学は各部屋の展示室に行って見る。ヨーガの原型を描いた絵画があった。ユニーク。原始時代からの模型はどこの博物館でもあるものだった。インド人に一番人気は何と2階にあったミイラの特別展。インド人の頭の中には「体は仮の物。死ねば体は終了するが、心は残り、転生する」と言われているが、そんな人々がミイラを見てどうするのだろうか。何を思うのだろうか。中は押すな押すなの満員で、とても見ることが出来ない。外へ出ようとしても、入口へ人が押し寄せるために、出られない。何とも不思議な光景だった。


帰りは少し回り道して散歩。スチワート・ホッグ市場と言う名のレンガの建物が見える。近づくと物売りか、案内志望か、何人もが声を掛けて来る。構わず中に入ると狭い売り場がひしめき、更に声が掛かる。どうもインドは面倒くさい。かなりしつこい。紅茶屋さんでも探したかったが、諦めて外へ出る。市場の脇ではドルガプージャの余韻か、太鼓が叩かれ、ドルガの前でお祭りが続いている。




 

 
(6) 卵焼きそばと両替

歩いて戻る。途中で道端に人だかりがある。見ると何か焼いている。とてもいい匂いがした。焼きそばらしい。急に腹が減る。確かに昼は過ぎているし、これだけ歩いたのだから、当然か。注文したいと思ったが、狭い道路脇に人が多く、なかなか近づけない。しかも荷物が大きい。




ようやく屋台の前へ出て、「ヌードル」と叫ぶ。おじさんは卵を指す。思わず頷く。卵焼きそばになった。目玉焼きが上に乗る。隣の人を見ると8rp払っているから、10rp出すとダメと言う。16rpらしい。卵が入っただけで値段が倍に。昔中国でも卵は高かったな、と思いながら、列から離れ食べる。うーん、これは中国の焼きそばと大差ない。熱々で美味い。こんなウマい物がこんなに安い。インドは幸せな国である。


ホテルに向かって更に歩く。朝見た銀行スタチャンが見えた。そうだ、ルピーに両替しよう。銀行の建物はかなりのオールドファッション。なかなかムードがある。窓口で聞くとここでは外貨両替はやっていないという。お姐さんは親切に両替できる場所を教えてくれた。トーマスクックだという。


また歩いてトーマスクックを探す。これまた古めかしい建物。中へ入ると実に狭い空間に人が沢山働いていた。警備のおじさんに咎められる。「俺は客だ」と言って見たが、何と英語が通じない。それでもそのおじさんも親切に何かを言っている。どうやら両替はこの場所ではないと言っているようだ。オジサン、紙を取り出し、住所を書く。しかしそれが何処にあるのか、全く分からない。残念ながら両替は諦めて、ホテルへ戻る。

 
(5) Himarayaを求めて

1時間ほど、ネットで仕事。しかしこれから私はどうしたらよいのだろうか。旅行社のセットさんに電話してみた。彼とは偶然1か月前に代々木公園で紹介され、コルカタまで来て連絡した。「実はお爺さんが亡くなりまして」。セットさんは申し訳なさそうに今日は葬儀に行くという。こちらこそそんな時に電話してしまい、恐縮。でも彼は旅行業。私の希望を聞き、明日の朝までにセットすると言って電話を切る。


では次にすることは。そうだ、事務所のとまこさん(http://tomako.tv/)に頼まれた石鹸を買いに行こう。Himarayaというそのブランドは、とまこさんによれば、品質が素晴らしく、海外からも買いに来る、インドの街ではどこにでもあるという。しかし用心深い私はネットでコルカタのショップを確認していた。4店舗あった。フロントの男性にどれがいちばん近いかと聞くと一番近くても車で15分は掛かると言う。「では歩いて行けるな」と言うと、彼は相当怪訝な顔で、「いつかは着くだろう」と答える、それで十分だ。


ホテル近くの大きな通りを南へ進む。今日は天気がよく、結構暑くなりそう。CitiBankやスタチャンの支店が店を構える。インドにかなり食い込んでいる。途中、セントポールカテドラル、という立派な教会がある。流石植民地、と言わざるを得ない。1847年建造。何と1897年と1934年に大地震があり、崩壊したとある。そうか、この辺には地震があるのか。新たな発見。


中に入ると荘厳な雰囲気が漂う。観光客もいくらかいるが、話声がすると座っているオジサンが鋭い視線を投げる。大きな教会だ。ステンドグラスも大きい。1800年代にカルカッタへやってきて、布教した宣教師たちはどんな気持ちだっただろうか、と考えてしまう。勿論インドにはイエズス会の宣教師が1500年代には来ていたので、それほどの覚悟は要らなかったかもしれないが。


そこから更に歩き出す。しかし目指すお店の場所はトンとわからない。コルカタの街には交差点ごとに警察官詰所?がある。場所を聞くと丁寧に教えてくれる。中には「日本から来て何でそんな所へ行くんだ」と聞いてくるオジサンもいる。英語が分かり難かったのか、私の理解力の問題か、3回ぐらい聞いただろうか、結構歩いた。やはりインドは歩くところではないかもしれないと思い始めた頃、ようやくHimarayaの看板が見えた。小さなお店で、教えられなければ見逃したかもしれない。


店自体は小さいがきれい。お姐さんが一人、客の相手をしていた。私の番になると早速コピーした内容を突き出し、「これをくれ」と言う。先方も心得たもので、どんどん探していく。石鹸、クリーム・・・。ただ無い物もいくつかある。「プージャの翌日で品物は入って来ていない。昨日まで休みだったから」と。そうか、それはラッキー。多少の欠品は我慢しよう。紙袋一杯買った。何とかとまこさんに面目が立ちそうだ。


因みにこのお店には韓国人女性が良く来るという。ここの商品を1度使ったら病み付きになる、とはお店の宣伝であった。

 
10月7日(金) (4) 朝からインド

昨日は疲れていたのか、ぐっすり寝る。朝早くから、鳥のさえず、ではなく、カラスの大声で起こされる。コルカタはカラスが多い。取り敢えず散歩に出る。ホテル前の店では、数人の男性がチャイを飲んでいた。私も飲んで見たかったが、その輪に入るにはちょっと勇気が必要だ。遠目に彼らを観察する。チャイを飲む姿が皆実に様になっている。女性は一人もいない。カップは昔の素焼きではなく、プラスティック。カップから湯気が立っている。明らかに常連さんばかりで、お互い何やら話している。


隣の大きな建物から子犬が一匹飛び出してきた。危ないなと思ったが、さっと道路に出て行き、真中を闊歩した。さすがインドの犬は堂々としているなと思った。しかし次の日、同じ場所にこの子犬が横たわっていた。寝ていると思って通り過ぎたが、更にその次の日、この犬の周囲にハエがたかっており、死んでいることが分かる。大きな建物から同じ形の子犬が数匹出て来て、周りを囲む。兄弟だろう。人間は誰もこの死骸を片付けようとはしない。


少し行くとカラスが数十匹も密集している場所がある。よくよく見ると、そこはごみ集積場。そしてそのカラスに埋もれて一人の女性がごみの仕分けをしていた。彼女にとっては日常、私にとっては異常な光景であった。その横には石の塀があったが、男たちがそこへ行くとしゃがむ。どうやらトイレらしい。中国のニーハオトイレより凄い。更に横には水道の蛇口があり、男が裸になり、朝日を浴びながら、石鹸をこすり、水浴びしていた。朝からインドを感じた。




朝食はホテルで。ビュッフェスタイル。トーストは古めかしいパン焼き器に入れ、バターを塗る。ゆで卵を自分で割り、塩を掛ける。フルーツは避け、バナナだけに。食後にチャイを頼むとオジサンが実に丁寧にティパックをカップに入れて、作ってくれた。勿論街中の味ではないが、それも一つのチャイ。

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