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10. ついに魚池茶葉改良場へ
そして修理なった車に乗り、ついに魚池茶葉改良場へ。前回は門前までであったが、今回は事前連絡があり、すんなり中へ通される。製茶課長が対応してくれた。彼は台東の試験場に20年勤務し、ここ4年こちらで働いている。単身赴任で週末は台東へ帰るらしい。




彼は1冊の分厚い本を差し出した。ここに全ての資料があると。それは「場誌」と書かれた本で、1996年に出された茶葉試験場の90年間の歴史が刻まれた極めて有益な本であった。中身は好きなだけコピーしてよいと言うので早速確認に入る。


新井さんの記述などを見るとこれまでの資料や徐先生の話のままであったが、試験場の歴代所長に関する記述や茶葉伝習場の卒業生名簿、など興味深いものがいくつかあった。しかし一体誰がこんな詳細記述をしたのだろうかと裏を見るとそれは何と退官直前の徐先生本人であった。確かに一番詳しいのは先生と言うことになる。


裏側に1938年建造の茶葉工場があったが、外観からの見学となる。檜造り、ということで、当時としては極めてモダンな建物であったろう。今でも現役で使われていると言うから凄い。中の設備もごく一部は当時のままとか。日本が台湾に入れた力の一旦を見ると思い。




更にその裏に、茶業文化展示館と言う建物があり、特別に中を見学させてもらった。そこにはあの許文龍氏が製造した4つのブロンズ像の一つが置かれていた。そしてこの試験場の歴史が語られていた。


更には資料として、新井さんから讃井元さん(京都帝大卒で新井氏の部下、戦後は農林技官)への直筆の引き継ぎ書が展示されていた。ここで初めて、文書ながら、生の新井さんと出会った。しかしその文字からは彼の人となりを読み取ることは出来ない。


何とか他に手掛かりはないかと、徐先生からもらった写真を製茶課長に見せると同じコピーを持っていた。そしてこの写真に写っている人で今も生きている人が二人いる、と言い出す。一人は日本人のTさん、この写真を持っていて提供したご本人である。この方の名刺は直ぐに課長の手元から示された。東京に戻ったら連絡を取ることとした。


そしてもう一人は台湾人。実は先月朱さんという方が無くなり、先週納棺したと言う。誠に残念であるが、歴史はどんどん遠ざかる思い。では、もういないのか、いや「楊さんは生きていますよ」との天の声。


製茶課長は電話機を取り上げ、何か大声で話している。そして「今から行きましょう。楊さんが待っています。」と言うではないか。突然の展開に戸惑う。

 
5月27日(金)
9. 車を丁寧に使う
埔里の朝はいつも快適である。太陽が昇ると日差しは強い。民宿内の木の下に居ると何とも言えない気持ち良い風が吹き抜ける。




朝ごはんは相変わらず素晴らしい。⇒http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4354


そしていよいよ魚池へ向けて出発。何だか胸が高まる。ところがお父さんが行ったところは麓の自動車修理工場。実は昨晩夕飯に牛肉麺を食べに行った帰り、お父さんは微かな車の異変に気が付いたと言う。そして私を民宿に送り届け、そのまま車をここの工場へ持ってきたと言う。


夜の10時頃で工場の人も寝ていたが、起き出して来て、深夜に修理作業があったようだ。エンジン部品に異常があり、交換しただけさ、と平然と言うが、そんな簡単なものではないだろう。道理で出発する時に息子の車で息子も一緒に乗ってきた訳だ。修理が無理なら彼らの車を使うつもりだったと言う。多大な迷惑を掛ける。


お父さんは息子に言う。いつも言っている通り、車は丁寧に使わなければならない。毎日ほんの少しずつケアーしてあげることで、長持ちする。私はこの車に10年以上乗っているが、毎朝必ず点検し、異常個所を探す。


私の父は80歳で亡くなるまで自転車に乗り続けた。この自転車は20年以上使っていたが、いつも乗り心地が良かったのを覚えている。父が死んで、タイヤの空気を入れようと近くの自転車屋へ行くと、「あー、あんた息子だね。お父さんは自転車の手入れは欠かさなかったよ。どこ行くのも自転車だから元気だったよ。」と言われて、お金も取らずに隅々まで丁寧に点検してもらった。思わず涙が出そうになったことを急に思い出した。

 
8. 紅茶の伝統を守る森林紅茶の葉さん
台湾農林を訪ねたが、情報を得ることは出来なかった。前回の旅でもう一つのヒントがあった。それは大来閣と言うホテルの陳さんと言う方が、新井さんの親族を最近案内していたと言う情報だった。この話をしてくれた天福茶荘の童さんを再び訪ねる。




童さんはお父さんの同窓生、相変わらずにこやかに迎えてくれた。高山茶から紅茶まで色々なお茶を飲ませてくれた。そして「お茶を買ってくれる必要はないんです。この場所から見る日月潭の眺めは最高なんです。日本人にも是非来て欲しい。無料で台湾の良い所を見て行ってほしい。」と言う。見ると外はスコール。激しい雨が降る中、我々はかなり長居した。




しかし肝心の陳さんは今日から3日間休暇とのことで、結局今回も会えずじまいに終わる。陳さんは日本語も堪能で熱心な方のようで、是非会ってみたかったのだが。どうやら台湾財界の重鎮、許文龍氏に新井さんのことを伝えたのも、陳さんらしい。

お父さんがもう一つ連れて行ってくれたのが、少し林の中に入り込んだところにある、森林紅茶。ここのオーナー葉さんも前回訪問した和果森林の石さん同様、日本時代の紅茶樹を守り、紅茶作りに専念している人だ。

ちょうど雨も上がり、製茶工場を訪ねると先客があり、2階に人がいた。何とエレベーターで2階に上がる。そこに製茶機が並んでおり、作業場になっていた。先客の2人はちょっと変わった服装をしている。聞けば大陸で修行した道教の導師という。お父さんとお母さんは痛く興味を持ち、帰りに民宿に連れ帰って話を聞いていた。


葉さんははじめ少し取っ付きにくい人かと思ったが、色々と話をしてくれた。ここ10年、紅茶の復興に尽力、自らも世界紅茶大会で入賞するまでになっている。基本的に夫婦二人で行っており、今後どうするのか、ちょっと心配ではあった。




日本時代のことについては、あまり記憶はないようだ。その昔日本人がやってきて、蓮華池という所に最初に紅茶を植えたことは聞いていたが詳しいことは分からないとのこと。雨も完全に上がったので退散する。それにしても森林の中で紅茶を飲む、涼やかな気分になった。


 

 
5月26日(木)
7. 再び埔里へ
翌朝先月訪ねて非常に気に入った埔里を再訪。バスで直接行く、自強号で台中へ行きバスで行く方法もあったが、何故か起き上がれず、高速鉄道で台中に行く。この方法だと前述の2つに比べてかなりの割高だが、速さは非常に早い。8時半に台北を出て埔里に10時半に着いてしまう。



本日も宿は民宿。既に連絡も入れており、バス停に妹さんが迎えに来る。昼ごはんはどうするかと聞かれ、埔里の名物を聞くと、肉圓と言うので、買いに行く。お店はシンプルで入り口で作り、持ち帰るか、中で食うか。持ち帰りを選択し、待つ。日本人だと分かると皆出て来て、色々と言う。何だか昔懐かしい光景である。




民宿に到着。早速肉圓を食べたが、ドロッとしたスープに丸まった肉が入っており、実に美味しい。あっと言う間に平らげたが、他にクリアーなスープまで付いており、満腹。しかも先月と違い相当暑いため、汗だくとなる。




そこへお父さんが登場し、これからの打ち合わせを兼ねて、お父さん秘蔵の紅茶を頂く。何にも入れていないのに甘い。民宿の泊り客にも勧める。何だかいい感じだ。




午後民宿夫妻と共に台湾農林の所有する茶工場へ向かう。今回のために、Jさんが三井農林時代を知る台湾人を探してくれていた。何と現役で働いていると言う。「日月老茶廠」と言うその工場は今や観光スポットであり、前回お父さんに案内してもらっていた。

お話を聞いた方は77歳。子供の頃この付近は全て茶畑であったと言う。しかも持ち主は三井農林(日本時代に日東紅茶などを台湾で生産していた三井財閥系企業)ではなく、渡辺さんと言う個人だと言う。個人がこんな広大な茶畑を、しかも紅茶を植えていたのか。しかし残念ながらこの方も子供であったので渡辺さんの印象などは全くない。




戦後台湾農林に接収されたこの工場でお茶作りをしていたが、その後故郷を離れ、別の仕事をしていたという。恐らく紅茶生産が下火になり、職を変わったと思われる。最近になり紅茶ブームが起こる。お茶作りが分かる人と言うことで呼び戻され、製茶指導に当たっている。確かにこれが戦後の紅茶史であろう。

 
6. 美味しい永康街
徐先生のご厚意に感謝しつつ、お別れし、台北に戻る。夜は前回色々と世話をしてくれた台湾人Jさんと会うことになった。彼は明日から日本出張と言う、忙しい時期にもかかわらず時間を取ってくれた。感謝。


Jさんの豊富なレストラン情報がきっと役に立つと思い、ゲストハウスオーナーHさんも誘う。待ち合わせ場所は古亭駅。正直私はここに来たことがなかった。しかし聞いてみるとかなり大きな駅で、若者が集まる場所だと言う。ゲストハウスに集う若者たちもこの辺りのディスコに繰り出すらしい。


Hさんのバイクで待ち合わせ場所へ。もう慣れた光景である。遅れてJさんが車で登場。また場所を移動する。Hさんはバイクで追走。永康街、今や台北でもおしゃれなスポットとなり、レストランや茶芸館が並ぶ一角。私はその昔回留という茶芸館に来た程度で、興味津々。


Jさんが入ったお店は普通の台湾料理屋。しかし出て来た物は創作料理でこれが美味かった。突出しで出て来た豆腐干はいい味出していたし、特に牡蠣と油条の炒め物は絶品。思わず唸ってしまった。Hさんは以前も来たことがあったようで、ちょうど仕事帰りの奥さんも合流して賑やかに食べた。


オーナーはアメリカでレストランをやっていた台湾人。味へのこだわりはかなりのもので、突出しのピーナッツを作る場面を実際に見ていたが、唐辛子をちょっと振ったりして、相当の時間を掛けていた。美味い物は簡単には出来ないらしい。


周囲にも気になるお店がいくつかあり、今後台北に来たら、毎回一度は永康街に行こうと考えるほどだ。

 
5月25日(水)
5.徐先生とお会いし、茶葉試験場へ
翌朝今回の最大の目的である徐先生を訪問すべく、台北駅に居た。徐先生からは「各停に乗るように」と注意があり、従う。現在高速鉄道あり、特急ありの中、各停に乗るのは久しぶり。自動販売機で目指す埔心駅までの切符を買い、ホームへ。


電車は韓国大宇製。確か数年前、歌鶯に行った時に乗った。歌鶯は陶器製作が盛んな場所として行ってみたことがある。朝7時台のこの電車は通勤用。板橋や中歴などで降りる乗客が多い。




約1時間乗って、埔心駅へ。正直周囲には特に何もない。駅に着いたら電話するようにと言われていたが、何故か何度電話しても留守電になる。これは困った、と思っていると黄さんから渡された手書きの地図を思い出し、住所を見ながら訪ねて見た。結局駅から10分ほど歩いた所で徐先生宅に到着。先生もずっと待っていたらしく、驚きの表情。


先生のご自宅は駅前の通りに面していたが、そこから奥にかなり長い構造となっていた。実に雰囲気のあるいいお宅。居間を通り、物置を通り、ようやく家の中心であるご先祖が祭られている間へ。ご先祖は1700年代に広東省より渡ってきた客家。先生が子供の頃、この辺りは全て茶畑で人家はあまりなかったよし。




先生は既に私の来意をご存じで、早速新井さんの資料を下さる。先ずは写真。集合写真に各人の名前が入っており、誰が誰かすぐ分かる。そして最近書かれたいくつかの雑誌のコピーなど。貴重な内容であった。


先生は光復後の1952年にここ埔心にある茶葉試験場に入場。以来45年間を茶葉の研究、発展に尽くされてきた。その成果は退職直前に書かれた試験場の「場誌」及び最近出版された「台湾の茶」に詳しい。ただ先生が入場した1952年には既に 日本人研究者はおらず、その後の日台茶業関係者の交流の中で幾人かの人々をしている様子。実に流暢な日本語がそのことを物語っている。尚ご本も初めに日本語で書いてそれを翻訳していると言うから凄い。


先生は数年前に足を悪くされたが、私の案内をするためにわざわざ車の運転をして下さり、試験場へ連れて行ってくれる。感謝の言葉もない。80歳を越しておられるが、その行動力は実に精力的。今も日本人の書いた論文を翻訳していると言う。


試験場は駅から歩いて10分も掛からない所にあった。皆が「本場」と呼ぶ試験場、魚池や台東などにある試験場は「分場」であり、ここが本家。ただ正直何故ここに本場があるのか、不思議であった。先生によれば1903年に日本が試験場を作った頃はこの辺も一面茶畑(今は全く見られない)。鉄道が通り、政府のえらいさんがやって来るにも便利であった。昭和天皇が皇太子時代にこの付近を訪問、記念に植えた木もあったとか。当時は急行列車も停まる駅であったようだ。


本場はそこそこの広さがあったが、しんと静まり返っていた。製茶課に行くとようやく2人の職員がおり、徐先生に丁寧に挨拶する。退職したとはいえ、徐先生は権威ある顧問であり、一目置かれている。ここではあらゆるお茶の研究をしているとのことであったが、当日は場長以下、各地に品評会出席のため不在であった。


先生は慣れた手つきで事務所の電話を取り上げる。魚池の分場に電話し、誰か私の相手をするように依頼してくれている。これは力強い。分場も本場同様品評会などで人が出払っているが、課長の一人が対応可能とのことで、再び魚池へ向かうことが確定した。「結局本場には日本人の資料はない。あるとすれば魚池しかない」との結論だ。


その後本場内をご案内頂き、日本時代の建物などもかすかに残っていることを確認。そしてすぐ近くの壊れかけた日本家屋を眺め、「あれが試験場に派遣された昔日本人が住んでいた場所だよ」との説明を受けた。今やその面影を殆ど留めない埔心のかすかな記憶である。

 
4. 取材に付き合う
ゲストハウスのオーナーHさんにはもう一つの顔がある。それは「歩く台北」と言うガイドブック(http://www.yyisland.com/yy/tpe/)の製作者。そもそも私がゲストハウスに泊まったきっかけも、こちらのルート。


Lさんのお話を聞いた後、肩が凝ったなと言うと「いいマッサージ屋がある」とHさんに紹介され、ゲストハウスの道の対面にあるビルへ。「知足健康中心」は脚マッサージに店かと思ったが、全身もやっている。症状を告げると即座に全身マッサージへ。


女性ではあったが、揉み方は強く、的確。そして首の周りの凝りを解していく。先日北京で行き付けの「邱和堂」(http://qiuhetang.at.webry.info/)で何回も解してもらいながら、また凝ってしまっていた。ようは体に力が入り過ぎ。生活を考えなければならない。特にPCの時間を減らさねば。60分間、じっくり揉んでもらい、かなり回復。「歩く台北」ガイドブックを持参すると割引も得られ、ちょっとお得な感じ。

そして夜はHさんの取材に参戦。ちょうどガイドブックの改変期であり、自らが食べて美味ければ掲載すると言うHさんに付いて、再びそごう付近へ。行ったお店は四川料理、客家料理、海鮮料理と書かれており、かなり庶民的な、しかしこぎれいな所。中に入ると会社帰りのサラリーマンがビールなんか飲みながら楽しそうに話している台湾の居酒屋?


料理はなかなか美味い。特にいんげんと揚げた大腸の炒め物が絶品。酒のつまみに丁度良い。このお店は一皿100元を売り物にしているようだが、130元、180元などもあり、メニューは非常に多彩。そして何と日本語メニューも備えており、日本人にも是非来て欲しいと老板は言う。彼は元コックで自らの店を持ったようで、味にはうるさい。独創性もありそうだ。こんな店が台北にはひしめいている。食の質が上がるのは当然と言えよう。


更にすぐ近くにティーラウンジ、御茶園を見学。現在台湾では烏龍茶や緑茶とフルーツなどを混ぜて飲む飲料が流行。このお店はかなりきれいで店内で飲むこともでき、場所が良いことから流行っているのだろう。夜も9時過ぎでも、行列が出来ていた。はて、このお店はHさんに採用されるのだろうか。我々は何も飲まずに撤退した。


 

2011年07月04日

 【コラム

ミャンマー旅行記を出版

 
この度、愛すべきアジアの親日国家ミャンマーに関する旅行記を電子書籍と言う形態で出版致しました。


この本はお茶をキーワードに旅をする、所謂茶旅の過程で偶然出会ったミャンマーについてまとめたものです。一般的な日本人が持つ印象とはかなり違う国ですので、是非一度お読み頂ければと思います。


友人のたけうちいずみさんにきれいなイラストも入れて頂き、写真もかなり充実させました。電子書籍をご覧になったことがない方も以下のページを覗いて見て下さい。


 http://voyager-store.com/index.php?main_page=product_info&products_id=11166&shop_name=altbook


 
3.台湾をよく知る日本人と会う
ゲストハウスオーナーのHさんに誘われて、お昼に向かう。Mさんも一緒だ。Hさんから地下鉄バスカードを借り、早々乗ってみる。北京でもバスを使い放題に使った私だが、台北のバスは地下鉄と料金はあまり変わらず、面白味は少ない。それでも降りる乗客に向かい「謝謝」などと頭を下げる運転手もいて、如何にも台湾的。




しかし20年前台北でバスに乗るのは命がけ、などと揶揄されるほど、安全面に問題があった。何しろ運転手は早く運転するのが良いとされ、上極の安全を顧みない急な追い越し、バス停飛ばし、急ブレーキ、などが横行。実際に知り合いの駐在員は赴任早々急発進で手を着き、骨折。また別の人は急ブレーキでむち打ちになっている。今が如何に改善されたか。


そごうで待ち合わせ。このそごうも懐かしい。20年前の駐在時、何かと言えばそごう、であった。日本食もあったし、日本の本も売っていた。当時は地下鉄もなく、不便な印象があったが、現在では街の中心。そこへLさんはやってきた。台湾在住30数年?ジャーナリストとして、数々の人脈を持ち、蒋経国時代の台湾を知る人物だ。


皆で近くの広東料理屋へ。台湾の広東料理は昔懐かしい味で大好き。昼から大量の注文で大満足。その中でLさんに台湾の政情について意見を聞く。「来年の総統選挙、接戦には成るが、最後は国民党だろう」との結論。但し選挙は水物、何が起こるか分からない。それにしても馬英九が再選されれば、中国と更に接近し、その内一緒になるのではないだろうか。以前であればそんな話はなかったが、最近の経済的な影響力は中台を相当近づけている。しかしそれは日本にとって良いこととは思えない。


その後広東料理屋の向かいにある和昌茶荘に移動する。和昌茶荘は渡辺満里奈の本で紹介され、日本人に有名なったお店。現在は女性を中心に常に日本人客がいる。私が初めてこのお店に行ったのは20年以上前。当時は先代の張さんが頑張ってお店をやっておられた。勉強熱心な人だった。最近はあまり来ていない。


Lさんがつかつかとお店に入ると、現在の店主の張さんが親しげに迎える。先代時代からの古い付き合いだと言う。店に居た台湾人客とも旧知の仲で、日本語で挨拶が飛び交う。何だか不思議な感じ。台湾茶の歴史について聞くと、2-3人が色々と考えてくれる。有難い。


しかも我々はお客ではないと断りながら、1つのテーブルを占拠。ここでミーティングを始めたが、誰も気にしない。店の人は時々お茶を淹れてくれ、いつまでもいていいよ、という顔をしている。何だか申し訳ないような、営業妨害のような、なんというか。これぞ台湾かもしれない。

 
2. 中央図書館で資料集め
今回も泊りはEz Stay。混んでいて個室にならず。何と東京のオフィスで隣に座るMさんがたまたま台湾出張にきていて、2人部屋となる。前回の15階から18階の部屋に移ったが、ネットが繋がらずちょくちょく15階に出入りする羽目となる。4月と違い、5月後半ともなると台北はかなり暑い。Mさんと二人、眠れぬ夜を過ごすこととなった。


翌朝、Mさんと朝食を食べに外へ出た。ホテルの裏には何軒もの朝食を出す店が並ぶ。サンドイッチも麺もある。我々は今回、おにぎり、に挑戦。おにぎりと言っても日本のおにぎりではなく、かなり巨大な物体。中に好きな具を詰めるのだが、肉あり、卵ありでギューギュー詰めている。これはこれでなかなかイケル。




その後Mさんと別れて、徒歩で中央図書館へ。二二八公園を超えて、少し歩くと中正記念堂がある。その真ん前。しかし二二八事件の時、この辺りをデモ隊が占拠。そこがその後中正記念堂になるとは何たる歴史の皮肉。




図書館はかなり大きい。大きなバックは全てロッカーに預ける。外国人でも入ることは出来るが、何と私はパスポートを忘れてしまう。ダメもとで聞いてみると、入ることは可能とのこと。取り敢えず入り、PCでお茶関係の書籍を検索。




そして係の女性に本が見たいと言うと「あれ、カード持ってないの」と聞かれる。万事休すかと思うと、快く本を探してくれる。この辺が規則にうるさい日本と柔軟性が高い台湾の違いか。更に検索を掛けたいと言うと「本当はダメなんだけどね」と言いながら、数冊の本を探し出し、見せてくれた。これはもう外国人に対する個人的な親切だろう。


結局思うような資料は見付からなかったが周辺資料をいくつかコピーして帰る。それにしても、戦前の日本時代の資料は殆どなかった。国民党が入ってきた時に焼いてしまったと言う話は本当だろうか。歴史は全て中国史となった台湾に、日本時代の資料は不要なのだろう。

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