今回のゲスト相方宏氏はインド在住21年、タイの大学でヨーガのプログラムを担当するなど、インドから見たアジア、ヒンドゥーと仏教の両方を理解する非常に貴重な日本人であり、難解なインド哲学などを日本語で話す稀有な存在です。インダス文明の歴史から、インド哲学の考え方、カーストなどの社会状況、最近の日系企業の進出における問題点まで幅広いお話を頂きました。
正直インド関連の用語に対する知識、また時間的な制約もあり、理解が難しかった点、もう少し聞いてみたかったことなど色々とあったかと思いますが、このような貴重な機会に、奥深きインドの一端に触れただけでも成果ではないかと個人的には思います。特に我々が生きて行く上で本来何となく感じている因果応報なども、説明されると腑に落ちる点もあるのでは。インドの世界観を知ることは、ビジネス上は勿論のこと、生き方を考える上でも必要ではないでしょうか。
尚相方氏はインドは勿論、タイバンコックのほか、日本では沖縄・穂高などどヨーガの合宿を開催されています。私が参加した穂高も自然の環境の中、充実した生活・学習が出来、リフレッシュには最適でした。http://hhyoga.blogspot.com/
今後も出来れば多彩なゲストをお招きして、開催できればと考えております。どうぞお楽しみに。また参加ご希望の方は是非ご連絡ください。
またJさんが迎えに来てくれた。本当に今回は足代わりに使ってしまい恐縮。昼飯を食べに行くことに。正直バイクに往復2時間揺られ、更にはなかなか目に出来ないものを見てしまった興奮も重なり、空腹にはなっていない。しかし私の旅は言われたらそこへ行くもの。
Jさん曰く、「蒋介石と一緒に来た軍人が住む村があって、そこの料理は美味いよ。」。なに?何だか惹かれるものがある。先ずは向かう。市民大道、昔はこの道はなかったので、何となく位置関係が分からない。ここの駐車場に車を入れ、敦化南路の一本東の道を行く。知らなければ通り過ぎる、そんな平屋の佇まいが村口子であった。特に看板が出ている訳ではない。
中に入ると威勢の良いおじさん(パジャマに見える服装)が、「何食うんだ!」といきなりJさんに話し掛ける。丸いテーブルがいくつかあり奥行きのある店の中はもうすぐ2時だと言うのにお客がいる。先ず目に入ったのが、壁に掛けられた水筒や軍帽。壁には「報国増産」などのスローガン。うーん、雰囲気出ている。
メニューはあるのかどうかわからない。Jさんと共に厨房横の台を眺め、好きな料理を選ぶ。私の大好物の大腸など内臓系、豚の耳がどっさり、嬉しい。主食はここの名物、双醬麺。所謂ジャージャー麺の醬と麻醬を両方とも入れ、かき混ぜて食う。なかなかイケル。
ここで麺を食いながらJさんに先程の茶畑旅行を報告。ついでに少し貰った茶葉を分ける。食べ終わってもまだ話が続いたので、少し歩いて伯朗珈琲館(Mr.ブラウンカフェ)に移動。ここは台北の街を歩いているとよく見かけるコーヒーチェーン店。入るのは初めて。何だかちょっとおしゃれで、店内では皆がネットか携帯をいじっている。聞けばここは無料で無線ランが使える。
店内で驚いたのは、コーヒーも売っているが、ウイスキーも販売していること。これは持ち帰り用で、店内で飲むのではないらしい。中国でも香港でもそうだが、従来コーヒーなど飲まない、お茶を飲む文化圏がいつの間にかコーヒー圏に浸食されている。何故だろうか。日常生活がコーヒー、非日常が茶、と区分けされそうで怖い。
あれこれ考えている内に時間が来て、空港まで送ってもらう。僅か10分で到着。兎に角便利である。今回は収穫の多い、中身の濃い訪問であった。次回は1か月後、さて、どうなるのだろうか??実に楽しみである。
第一部 完
その夜、今回最初の頃お会いしたJさんより連絡が入る。本当の有機茶を見たいなら、お茶屋のYさんが連れて行ってくれると言う。是非にと頼む。翌朝Jさんはゲストハウス前まで車で迎えに来てくれ、私の荷物をトランクに積みこむ。そう、今日は台北最終日だ。
前回訪問したYさんの家の前で私だけ降ろされ、Jさんは仕事に向かう。何故?家ではYさんが待っており、すぐに下に降りる。そしてバイクを持ち出す。バイクの二人乗りで行くのだとか。二人乗りには慣れたが、この華奢なYさんと年代物のバイク、どんなものだろうか。
本当の有機茶を栽培している所には、車では入れない。よってJさんには気の毒だが、二人で行くことにしたと言う。それは本当に気の毒なことをした。バイクは台北市内を南へ向かう。30分も走ると郊外の山へ入る。しかしずっと乗っていると手が疲れる。
それからどこをどう行ったのか、かなり上った。確かにこれは車ではちょっと、という所まで来ると、バイクが停まる。とうとう着いたのか。時間は1時間ほど経っていた。そこには古ぼけた家があり、その奥では・・。そこでは本当に伝統的な四季春が作られていた。
茶畑は更に上にある。そこまで茶農家の車で行き、そして道なき道を歩く。すると斜面に見事な茶畑が。確かにここには肥料はなかった。知る人ぞ知る、茶の産地である。
帰りに飲ませてもらったお茶はまた格別な味がした。思わず、ウメイ、と声が出た。本当に美味しい、自然なお茶に触れた気がした。ここで作られるお茶は市販されることはない。知り合いが全て予約してもっていく。量も非常に少ない。
帰りもYさんのバイクに跨り、幸せな気分で山を下りる。しかしYさんには堪えた様だ。家に辿りつくとぐったりして、昼ごはんもいらないと言う。本当にいい物を見せてもらい、ご迷惑を掛けてしまった。勿論もう一度一人で行くこともできない。
豆腐を満喫した後、Hさんが「夜のお散歩でもしますか」、と聞く。もうなすがままである。夜8時台、車で猫空へ上がる。猫空とはなかなか奇妙な名前であるが、観光茶園がいくつもある台北市の寛ぎスペースである。景色を売り物にしているが、4月とはいえ、今日は結構冷える。ミニバスが通るが、客は殆ど乗っていない。ロープウェーも開通しており、寒空の中を動いている。
Hさん行きつけの店へ行く。「六季香茶坊」(http://www.taipeinavi.com/food/254/)と書かれた看板の所を上がる。上は前面が露店になっており、奥に建屋がある。人は誰もいない。Hさんが奥の方に入っていき、声を掛けるが、返事がない。こんな時間にお客が来るとは想定外であろう。
ようやく横の建物から返事がある。どうやら茶作りの最中であるらしい。ご主人が出て来た。張さん、独特の雰囲気を持つ人物である。露天の一番前、景色の良い所に陣取る。Hさんは半袖シャツ1枚でかなり寒そう。張さんも上に羽織るものを出して着ている。
ここからの眺めはかなり良い。台北市が一望できる。張さんがお茶を淹れようとしたその瞬間、市内で大音響の花火が上がった。一体どうしたんだ?考えてみれば本日は台湾花の博覧会最終日、そのイベントの一環で花火が登場したのだろう。偶然とはいえ、不思議な気分となる。
張さんは作ったばかりの木柵鉄観音を淹れてくれた。中国の鉄観音はどんどん緑茶化して軽くなっており、香りがあればよい、といった印象が拭えないが、こちらは実に濃厚な味。私の好きなタイプであり、恐らくは本来の鉄観音の味を残しているのであろう。
次に冷凍茶が出される。これは鉄観音の茶葉を冷凍して保存。名前だけ聞くとアイスティーかと思ってしまうが、実は室内萎凋と言う工程の後、茶葉を加熱殺菌し、仕上げの乾燥火入れをしないので、ビタミンが凝縮されていると言う。
茶葉は緑であるが、味は木柵鉄観音。なかなか面白い。こんな所にも木柵の茶農家の探究心が感じられる。当然この辺りの茶農家も歴史が古く、1870年代以降茶作りが始まっている。しかし張さん達にとっては、歴史より今日、今日より明日、といった感じで、今晩も茶作りで徹夜らしい。いい鉄観音を作って欲しい。
夜も更けて来て、茶作りの邪魔にもなると言うことで退散した。次回は茶葉料理でも食べながら、ゆっくりと話を聞いてみたい。
黄さんには大変お世話になった。名残惜しいがお別れする。最後に黄さんから「必ず徐先生に電話を入れろ」と念を押される。しかし私は明日帰国する。徐先生の家は少し遠いらしい。どうしたものだろうか。取り敢えず電話してみたが、お留守のようであった。また次回台湾に来た時に連絡しようと考えていた。
今回の宿泊先Ez StayのオーナーHさんと食事をする時間がなかった。台北最後の夜にようやく時間が出来たので声を掛けると「深坑で豆腐でも食いましょう」と誘われる。深坑、恥ずかしながら実はどんなことろかピンと来なかった。台湾茶の歴史を訪ねる人間としては失格であろう。
Hさんのバイクに跨り、先ずは木柵のHさんの家へ。台北市内でバイクに跨ると鹿谷などとは全く異なるスリルが味わえる。怖くないのだろうか、と思うような恐ろしい台数が脇を通過していく。いきなり左折する。Hさん曰く「もう20年も台北で乗っているんですよ」そうか、それは安心。
H宅でバイクから自家用車に乗り換えようとしたところ、携帯が鳴る。流暢な日本語が聞こえてきた。何と徐先生がコールバックしてくれたのだ。これにはビックリ、恐縮してしまう。徐先生は「資料を準備してお待ちしています。いつ来ますか?」と聞く。実は明日帰国することを話し、次回の再訪を約束する。しかし先生から「それで次回はいつ?」との問いに思わず気の弱い私は「5月下旬には」と答えてしまう。5月下旬は香港へ行くはずなのだが。何と来月の再訪が決定する。
深坑に到着。ご飯を食べるかと思えば、お茶屋さんに行くと言う。儒昌茶荘(http://www.zuchangtea.com.tw/)と言う名前のそのお茶屋さんの祖先は1845年に福建省安渓から移民し、茶園を続けている。この付近は台湾茶の発祥の地の一つに数えてもよいかもしれない。淡水河の上流、そこに福建から持ち込まれた茶樹が植えられていたのである。
我々が訪ねた王さんは3代目、静岡の茶葉試験場での研修経験もあり、若いのに日本語は堪能。ちょうど摘んだ茶葉が上がっていたようで、話しながらも忙しなく仕事をしている。包種茶の茶葉を茶碗に入れ、スプーンですくって飲んでいる。今年は冬が寒く、お茶の生育が遅れたと言いながら、音を立ててすする。
このお店、店頭から茶缶が並び、昔の茶商の雰囲気を残している。深坑の茶の歴史にも興味があったが、資料はあまりないとのことであった。ついでに日本時代の日本人に関する資料について尋ねると「確か研修中に金谷(静岡)の茶葉試験場にあったような気がする」との答え。そうか、台湾に残っていなくても、日本に持ち帰られた資料があるかもしれない。これは収穫であった。
そして豆腐レストランへ。人気店らしくかなり混んでいる。台湾ではこれまで豆腐料理がメインのレストランでは食べたことがない。台湾でも今や健康志向なのだろうか。揚げ豆腐、臭豆腐、どろっとした豆腐スープ。数々の豆腐料理がテーブルを埋める。こりゃ、なかなか旨い。どんどん箸が進む。台湾料理はまだまだ奥が深い。
黄さんに率いられて大稲埕へ。河沿いに城門のようなものがあり、「大稲埕」と書かれている。大稲埕は清末から日本統治時代にかけて,経済、社会、文化の中心地として台湾の発展の中心地であり、かつ人文等の学術の中心地でもあった。
埠頭から淡水河を眺める。往時を偲ぶものはあまりなく、僅かに清代に台湾で使われていた唐山帆船の模型が展示されるのみ。対岸には高層マンションが並び、橋がきれいに架かっている。なかなかいい風景である。
この埠頭付近には1860年代以降、茶商が並び、淡水側上流から運ばれた茶葉を収集し、中国大陸へ送り出していた。特に1880年代、地方有力者であった林維源と李春生は、大稲埕に建昌街(現在の貴徳街)を整備し、ここに洋風店舗を設立、それの貸し出しを開始し、洋風建築を用いた商業活動が行なわれるようになった。日本時代に入った1896年には人口3万人の一大都市となり、茶商は252を数えたという。
その貴徳街に行って見た。非常に細い道であり、当時は広い道がなかったのかと訝る。今は殆ど昔の面影はないが、道の真ん中まで来ると古いバロック風のがっしりした建物が目に入る。これが1923年に建造され、唯一取り壊しを免れた錦記茶行である。
3階建てでバルコニーもあり、窓も独特でかなりおしゃれな様子。台湾初の水洗トイレがあったとか。ちょうどこの年台湾を訪問した昭和天皇(当時は皇太子)も見学に来たとの話がある。1階部分は数段高くなっているが、これは淡水河の氾濫に備えたもの。
現在は使用されておらず、何となく薄暗い印象を与える建物ではあるが、当時は相当豪華な風情であったことだろう。ここにも茶商の力がどの程度の物であったかが見て取れる。
更に行くと「李春生記念教会」がある。李は外国人宣教師と出会い、洗礼を受け、クリスチャンとなった。同時に英語も習得し、1865年に樟脳の視察で訪れたイギリス商人ジョン・ドッドの買弁として、大いに活躍した人物である。当然巨万の富を築き、この教会もその資産の一部で作られたのだろう。
またその反対側にあるレンガ造りの建物は「港町文化講座」。1921年林献堂、蒋渭水両氏により設立された非武装の民主団体。後に両氏は台湾の議会を請願して逮捕される。因みに蒋渭水氏の記念公演は黄さんのお店のすぐ近くにある。
最後に老舗の茶荘を訪問。王錦珍茶荘という名前のその茶荘は大稲埕埠頭の脇、貴徳街に入る道の所にあった。中に入ると先客がおり、話が弾む。聞けばこの主人、広東の方で商売をしており、現在茶葉収穫の季節に合わせて、帰郷しているらしい。店は昔の造りで、奥には茶の缶が並び、如何にも茶商と言う雰囲気が出ている。
我々の横をスーッと通り抜け、外へ出た老人がいた。主人の父親だと言う。にこやかに、そして無言で去る。この人が先代、王明徳さんかなと思ったが、誰も尋ねないので聞きそびれた。
台湾には茶に関する組合が3つ存在する。その理由が行政による縦割りと聞けば、日本を想起する。先ずは台湾区製茶工業同業公会へ。南京西路よりちょっと入ったビルにあり、普通では分かり難い。
ここでは総幹事の藩さんが対応してくれた。中国大陸各地の茶処との交流を物語る茶餅や額など記念品が展示されている。日本語で作られた茶に関するDVDも流してくれたが、話は専ら法輪功へ。何故なら2人の記者は「新紀元」という法輪功系の雑誌社の人間であったからだ。中国大陸では法輪功はご法度だが、ここ台湾ではごく普通に活動しており、健康のために修練する人が結構いると言う。
ここで1冊の本を貰った。「台湾の茶」と言う題名。著者は先程黄さんが紹介すると言っていた徐先生だ。徐先生は元茶葉改良場研究員とある。この本を徐先生は先ず日本語で書き、日本で出版、その後製茶公会が国語に翻訳して出版したそうだ。これだけの立派な本を日本語で書けると言うだけでも尊敬できる。お会いするのが楽しみになる。手掛かりは得た、と思えた。しかし公会にも日本時代の日本人に関する資料・情報は残念ながら残されていなかった。
昼の時間となり、黄さんより「台北で一番美味しい魯肉飯を食いに行こう」と声が掛かり、出掛ける。お店は小さく、満員。何とか席を確保し、魯肉飯(沢庵が一切れのっている)と肉のスープを食べる。私は元々魯肉飯が大好きであるが、確かにここのは昔懐かしく、旨い。大満足。
午後は台湾区茶輸出業同業公会と台北市茶商業同業公会へ行く。この2つは同じ場所にあり、スタッフも兼業のようだ。公会には台湾茶の歴史が飾られ、早期の買弁、李春生が台湾茶業の父と書かれていた(ちょっと驚き)。昔茶葉を包んだ包み紙の展示もあり、なかなかいい雰囲気。
ここには媽祖が祭られており、皆で拝する。以前は別の場所にあったものを、ここへ移したと言う。早期には中国大陸から海を越えて台湾にやってきた人々、そして茶師を招き、茶を作り、その茶を輸出した。全てにおいて海が関係し、今より遥かに危険な航海の中、無事でいられるのは媽祖のご加護という訳だ。その精神は現在でも続いている。
翌朝一番で恵美寿の黄さんを訪ねた。勿論魚池を行ったことを報告するためだ。黄さんは私の報告を満足そうに聞いてくれ、色々と話をしてくれた。そして一言、「新井さんや日本時代の日本人の功績は大きい。しかしそれを誰も書いていない。我々は既に日本語世代ではない。もし我々がいなくなれば、もう後は日本時代の話が分かる人間はいなくなる。日本人として是非とも新井さん達のことを書き残して欲しい。」と。
これには大きく頷いたものの、難題があった。「黄さん、何か資料ないですかね?」思わず尋ねた。すると黄さんははっきりと「ない」と言う。あれば誰かが書いていたということだろう。それにしても一体どうやって書けと言うのか。黄さんも勿論考えていた。
「徐先生しか分からない。紹介するから徐先生の所へ行け。」また指令が下る。しかし徐先生とは何者で、どこにいるのだろうか?それを聞こうとしているとお客さんが入ってきた。それはお客ではなく、雑誌の取材に来た女性記者2人組。黄さんは私の方から意識が離れてしまい、記者に向かって昨今の茶業について語り出す。
茶の特集記事を書くと言う記者は事前に質問をメールしており、話題はそちらへ。黄さんは質問に対して熱弁を持って回答。20分ぐらいで話を切り上げ出掛ける。私も当然のようにお供する。どこへ行くのか?ちょうど店の向かい側で媽祖の周年行事が行われていた。台湾人にとって如何に媽祖が大切な存在であるか、それは海を渡ってきた大陸系にとり、命を預けた相手であり、無事に台湾へ運んでくれた恩人なのである。粗略には出来ないと言う。
「材木街」と呼ばれ、木材加工業が今も軒を連ねる寧夏路を南へ下る。直ぐに警察署が見える。市政府警察局大同分局。昔の台北北警察署。台湾に議会を請願した林献堂、蒋渭水両氏が逮捕・拘留された場所だそうだ。建物は日本時代によく見られる赤レンガ。
更に下ると静修女中と言うカトリック系の女子高がある。1917年スペイン人神父により創立されたと言うが日本時代は日本人も学んでいたのだろうか。それとも台湾人のためにあったのだろうか。
南京西路で右折。ここは昔円公園(円環)と呼ばれた繁華街。私が初めて台湾に行った1984年には道の両脇びっしりと屋台が並び、非常に賑わっていたが、現在では円形の建物を作ってしまい、結果的に機能しなくなっている。夜市としては、北側の寧夏夜市が有名で、ここの食べ物は美味しいと評判。残念ながら最近は朝寧夏路に来ることが多く、夜の味わいを知らない。
黄さんが立ち止まる。向かい側に巨大な法主公廟と書かれた建物が聳える。何だ、あれは。2階から4階まで廟である。元々はこの辺りで茶葉取引で財を成した商人たちに信仰されていたという。何故このような形になったのだろうか。
しかし黄さんが立ち止まったのは、別の理由からだった。男装社と書かれてビルの前に碑があった。「二二八事件発祥の地」。1947年に闇タバコ取り締まりのいざこざから端を発したこの事件は国民党による台湾人数万人の殺戮に発展、台湾全土を恐怖に包み込んだ。その様子は1989年に公開された「悲情城市」と言う映画に詳しい。当時私は台北に駐在していたが、戒厳令解除が間もなくのこともあり、二二八を公に語ることはタブーであった。東京でこの映画を見て「こんな映画を作って大丈夫か」と言うのが率直な印象であった。
官吏によるタバコ強奪、それがこの場所で起き、そして今では碑が建っているが、残念ながら気に留める人は多くない。時代は過ぎて行ったのだ。今や中国大陸との経済交流の活発化が、台湾人、特に若い台湾人の抵抗感をかなり薄めている。
ランチの時間になる。夕方には台北に戻りたい私。梁さんが最後に連れて行ってくれた場所は何と日本食堂。埔里の街中にはあるが、ちょっと分かり難い場所。梁さんによれば、「日本人で定年退職した方と台湾人の夫婦がやっている。週に二日は休みだから、今日はやっているか心配。」と言う。
到着すると驚くことに民宿の家族全員が集合している。しかも私が部屋に忘れたタオルも持ってきてくれていた。これには感激。既に大分待たせたらしく、美味しそうにカレーを食べていた。私もすかさずチキンカレーを注文し、席に着く。純日本風のカレーに味噌汁が付く。うーん、なかなか良い。
ここ楽活小屋は日本人で長く台湾で勤務し、定年後ここへ移り住んだOさんと台湾人の奥さんが絶妙のコンビで経営していた。このお店にはカレーなど日本食メニューが並び、カウンターの上には煮物や卵などが置かれていた。かなり庶民的な感じであるが、店内の天井が非常に高く、山小屋風でもあり、何だかのびやかな気分となる。またOさんに台湾茶の歴史に関する資料を訪ねるとあれこれ考えてくれたが手掛かりは得られなかった。
Oさんに何故埔里に引っ越してきたのか聞いてみると「気候が良い、特に台中や高雄と比べて湿気が少ない。高速鉄道の開通もあり、交通が便利。物価も台北などより安い。」とのこと。埔里と言えば、台湾でのロングステイ受け入れの窓口的な存在。但し日本人第一号であるN夫妻が何かと話題をまき散らし、日台双方にちょっとした行き違いを発生させた場所でもある。
それでも近年埔里に住む日本人は少しずつ増加、大学の先生なども含めて10名程度が住んでいるという。確かに今回泊まった民宿を見ても、なかなか住み易そうな場所であり、空気もよい。避暑地としてはよいかもしれない。ロングステイ先としてリストには入れておこう。
そして親切にしてくれた梁さん一家と別れ、バスに乗り、台中へ。今回は行きとは違い、慣れたもの。直ぐに高速鉄道にも乗り継ぐことが出来、あっと言う間に台北駅に着いた。確かに台北は暑く感じられ、すぐに埔里が懐かしくなった。
因みに台湾の高速鉄道の乗り心地は快適。シートも広いし、台中‐台北間だと1時間掛からない。自強号だと今でも2時間以上掛かるから、かなりの短縮。しかし料金が700元は高い。バスなら140元だそうだ。次回はバスを検討しよう。
16. ついに魚池へ
翌朝起きると、民宿のご主人、兄妹のお父さんである梁さんが待っていてくれた。先ずは朝食を頂く。眺めが絶景の母屋でテーブルに着く。腐乳、卵焼き、ゴーヤの煮物、アスパラガスのお浸し、そして地瓜のお粥、実に丁寧に作られており、コンパクトで美味しい。日本の旅館の朝ごはんを思い出させる。
そして荷物を纏めて、梁さんの車に乗り込む。はて、どこへ行くのだろうか。何と家族連れのお客さんと一緒にブドウ園に行くと言う。何だか久しぶりだったので着いて行く。そのブドウ園は不思議であった。何とブドウが木になっていた。それも幹に直接ブドウが付いていたので、ビックリ。ちょっとグロテスク。ブラジル産とのこと。子供たちは大喜びで盛んに採り、そして頬張る。
お客さんと別れ、梁さんと二人旅へ。日月潭に道を取る。20分ほど行くと最近出来たという向山遊客中心へ行く。ここからの眺めが良いと梁さんが気を使ってくれたのだ。日本人が設計したと言う建物は低く湖を捉えており、なかなか優雅な造り。中には日月潭の文化や歴史が展示されており、日月潭紅茶の宣伝にも余念がない。
そして愈々魚池の茶葉試験場へ向かった。ここは日月潭の水里から少し行った小高い山の上にある。本来であれば歩いて散歩がてら上るらしいが、今日は時間もないので、車で上へ。アッサム種の茶樹を両側に見ながら上ると、試験場へ到着。ここからの眺めはよく、日月潭が一望できた。今日は土曜日であり、多くの人がここからの眺めを楽しむ。
梁さんは門番に「知り合いがいるので中へ入れて欲しい」と交渉を始めたが、頑として聞き入れたれない。土日は開放しなようだ。それはそれで仕方がないが、試験場の建物の後ろに見える木造の建物が気に掛かる。梁さんによれば、あれが日本時代に建てられた茶工場で現役だと言う。やはりここで紅茶の研究をし、紅茶を作っていた日本人がいたのだ。
写真を撮りながら少し下る。するとそこに記念碑が見える。「故技師新井耕吉郎記念碑」と書かれており、その横の解説を見ると何と「台湾紅茶の守護者」とあるではないか。この人は一体誰なんだろうか。どうしてここに碑があるのだろう。よく読むと新井さんは日本時代の最後の所長だったようだ。それでも碑が建つのだから余程の貢献があったのだろう。実に興味深い。しかし梁さんに聞いても分からないと言う。この碑は古いが新井さんのことが語られたのはごく最近のことらしい。兎に角よく分からないが面白い物が出て来た。
山を下り、水里へ戻り、大来閣というホテルに入る。何故ここに来たのかは分からない。何と天福銘茶でお茶を飲むらしい。正直天福はお土産物屋さん、というイメージしかなく、ちょっと身構える。梁さんは駐車スペースが無いとボヤキながら、いきなりホテルの横に停めてしまう。いいのだろうか。すると店から女性が出て来て、駐車スペースを空けた。
この女性、童さんは梁さんと同窓生。30年に渡り、茶の販売に携わってきたベテラン。淹れてくれたお茶もどうやらお店の物とは違うらしい。「お茶が美味しいよ」、とか「買ってね」、などは全く言わず、返って、「ここからの日月潭の眺めは最高よ」と言い、外へ出るドアを指さす。確かにここは絶好のロケーション。写真を撮る。
童さんの話によると「試験場の新井さんに関してはこのホテルの総支配人が詳しい。3年ほど前、新井さんの親族がここを訪れた際も、彼が案内していた」と言う。これは貴重な情報だ。新井さんの子孫は台湾に関わりがあるようだ。しかし残念ながら総支配人は休日で出勤していなかった。次回を期そう。
埔里へ戻る途中、製茶工場を見学する。ここも魚池にある。行くと古そうな工場であった。日本時代の建物ではないとのことであったが、年代を感じる。中は最近の流行を取りいれ、ショップがある。その奥には現役の製茶場が見える。「台湾農林魚池茶葉製茶工場」と書かれている。周辺には茶樹が植えられており、この付近が茶園であることも分かる。
ここはもしやすると終戦後日本から接収した場所ではないだろうか。そう思いながらも確認できるものは見付からない。辛うじてこの工場が1959年に建造されたものであることがプレートから見えたのみ。日本時代の紅茶との関わりは謎のまま、取り敢えず黄さんの指示にあった魚池訪問は一応無事に終わった。