バスに乗ってローソンへ行く
本日は午後にアポイントがあり、市の中心部へ向かう。タクシーは使いたくなかったので、バスで行くことにした。ホテル前の大通りにはバス専用レーンがあり、渋滞にも強そうだ。チケットは一律3500pのようで、言葉が出来なくても、行き先が分からなくても買えるから便利。高速バスウエイ、トランスジャカルタというらしい。
しかし便利ということは乗る人も多いということ。ホームは人で溢れており、一台目に乗り損なう。よく見るとこのバスにはいくつかの路線があり、赤いバス1番を選んで乗る。バスの中ほどは女性専用座席になっている。さすがイスラム教国。乗客に女性が多いのも頷ける。
バスは快適に市内を走る。結構乗り降りが多い。路面電車のように駅に表示があり、これなら不慣れな外国人でも十分に乗れる。サリナデパートの前で降りる。この付近は安宿街もあるが、日本企業が集まるジャパンクラブなどもあり、オフィスビル群が連なる。そこから脇の道へ入ってみる。なぜかそこにローソンがあった。
バンドンでは見かけなかったが、ジャカルタには数十店舗あるらしい。店内は日本と変わらないが、焼き鳥などを売っている。そして決定的に違うのは2階に飲食スペースがあったこと。そこはクーラーの効いた室内と屋外があり、WIFIは無料、電源まで完備されていた。学生やOLが食事をしたり、飲み物を飲みながら談笑している風景は日本にはないもの。
聞けば、外資の小売チェーン展開には制限が設けられているため、レストランのライセンスで運営されているとのこと。当然飲食スペースがあるわけだが、このスペースが日本にあればな、と羨む。尚インドネシアでは日本のように家に持ち帰って食べるより、その場で食べることが好まれるということもあるようだ。国によって事情は違うものだ。
用事を済ませてバスでホテルへ戻る。バスは本当に便利だ。ホテル近くを散策すると、小肥羊(中国で有名な火鍋チェーン)などという名前の中国料理屋があった。これは名前のパクリだろうが、漢字の看板の多い場所も見つけた。湖南料理の店があったので入ってみる。客は大陸から来た中国人と地元華人のようだ。普通話で注文できた。安くておいしい中華が簡単に食べられ満足。
3.ジャカルタ 残念なホテル
ホテルの外は屋台などが並ぶ下町。ホテルの中はきれいなロビー。アンバランスだ。フロントの男性はつっけんどんな対応で迎えたが、直ぐに上司の女性が出てきて笑顔で非常に良い対応をしていた。これは価格の割に良いと思ったのだが、部屋に入るとクーラーが効いておらず、暑い。慌ててつけたが、一向に効かない。フロントに電話したところ、修理の人が来たが、治らない。仕方なく部屋を替えてもらったが、それでも変わらない。後で聞くとジャカルタの古いビルはクーラーの効きが非常に悪いらしい。このホテルもきれいにしているが、古いビルを改装したのかもしれない。
仕方なく部屋が冷えるまで外へ出る。夕飯を食べようと思ったが、適当な場所がない。この辺りは日本人駐在員なら絶対に夜は歩かない場所だろう。私は歩くのは平気だが、疲れていたので、マックに入り、涼む。インドネシアのマックは予想外に高かった。セットで日本円500円以上した。日本並み、高級だ。客も多くはなかった。冷たいコーラを飲んで一息つく。
ホテルに帰ると部屋は何とか耐えられる程度に冷えていた。外は周囲に高い建物がなく、絶好の夜景なのだが、もうこのホテルチェーンに泊まることはないだろう。WIFIが繋がったことがせめてもの救いだった。
4月30日(火) チャイナタウンを歩く
翌朝はビュッフェの朝食を食べる。宿泊客は中東系、インド系、そして中華系、韓国人もいて、インターナショナル、席がないほど超満員だった。やはり料金が安い割にはきれいなのが、集客の要因だろうか。
食後、外へ出る。チャイナタウンを目指した。グロドゥと呼ばれる地区が中華系の住むところと聞いていた。地図で見ると近かったが、ホテルから歩くと30分近くかかった。朝はそれほど暑くはなかったので助かる。グロッゥにはバンドン同様、漢字の看板はあまり見られなかった。大通りに面した場所にホテルの看板があったので、中へ入ってみた。フロントで普通話を使い話しかけたが返事はなかった。
すると横にいたおばさんが『どっから来たんだ』と普通話で問いかけてきた。そして色々と話した。彼女の父親は広東系で、若い頃から苦労して働いたが、インドネシア国籍がもらえず困った話。1965年の革命、1998年の通貨危機、いずれも華人は排斥され、辛酸をなめた。お金持ちはどこへでも脱出できるが、彼女のような庶民は『ただじっと嵐が過ぎるのを待つだけだった』ようだ。『華人は一度外へ出ればそこで骨を埋めるもの』という言葉が重かった。尚このホテルは1泊100元、中国大陸から商売のためにやってくる人々が泊まるらしい。今も夢を追いかける華僑がいるのだ。
それからぐるぐると歩いて見たが、狭い路地に家がぎっしり詰まっているところはチャイナタウンらしいが、漢字の看板もレストランなどで偶に見られるだけで、華人が住んでいるのかどうかわからないほど、同化していた。
列車でジャカルタへ
午後1時にホテルをチェックアウト、荷物を引いて駅に向かう。切符を買った時に入った場所は実は裏口だった。ホテルからもっと近い場所に正面玄関がある。駅にはオランダベーカリーなどもあり、小さいながらも悪くない。
出発の40分も前にホームへ入る。既に私が乗る列車はそこにあった。バンドン、ジャカルタ間を実質ノンストップで走る特急だったのだ。そして全席が一等席。外国人だから売られたチケットではなく、はなからこれしか席がなかった。ようやく納得。座り心地は悪くない。
列車に乗客が乗り込み、ほぼ満員で出発。外国人に見える人はほとんどおらず、インドネシア人ばかり。子供も乗っていた。座席は広く、非常に快適。窓からは山や畑の風景が過ぎていく。これはなかなか良い列車旅だ。確か茶畑も見えると聞いていたので、目を凝らしてみていたつもりだが、見付からなかった。
車内販売もやってくる。きれいなお姐さんが注文を取る。私は頼まなかったが、食事を頼んでいる人もいた。見ていると料理はなかなか出てこない。結局ジャカルタ到着30分ぐらい前に食べている人もいた。これは偶々だろうか。
列車は途中で停まることもなく、ジャカルタ近郊まで来た。ここまではゆったりしていたが、そこからは各駅のように停まり、人々が下りて行った。私は一つの勘違いをしていた。この列車はコタという駅まで行くと。ところが無情にもひとつ前のガンビル駅で全員が下りた。私も下ろされた。チケットをよく見るとガンビルの文字が見えた。しまった。
さて困った。コタ駅からホテルの行き方を調べていたが、この駅がどこにあるのかすらわからない。そうか、各停に乗ってもう一駅行こうとしたが、駅員は外へ出てバスに乗れという。仕方なくバス停を探す。バス停はよくわからなかった。そこへちょうどタクシーが来たので手を上げると停まる。住所を見せて何とか乗り込む。夕方6時前の退勤ラッシュを予想したが、案外スピードを出していたがかなり走った。日が暮れていく。そして運転手は場所が分からないと言い出す。これは料金を割り増しする作戦か。仕草を見るとそうでもなさそうだ。さてまた困る。運転手も懸命に探す。コタ駅を通過して大体の位置をつかんだが、それからも分かり難い。ようやく見つけたそのホテルはかなり古びた街には場違いな40階建て。不思議なところだった。
4月29日(月) AAに嫌われる
バンドン最終日。Tもいなくなり、今朝は一人で朝食、そして一人で散歩。ホテルを出るとすぐ横にガンダムショップを発見。こんなところでオタク文化にぶつかるとは。そういう目で見てみると、この街には日本のアニメあり、ガールズファッションありと、日本的なサブカルが溢れていた。何故AKBの姉妹グループがジャカルタにできたのか、分かる気がした。
そして昨日も歩いたバンドンのメインストリートを歩く。目的はアジアアフリカ会議の会場に入ることだ。過去2回、入れずにいた。今日は休みでないことを確認していたので、午前10時頃、行ってみた。ところが、ドアは閉まっていた。理由は全くわからない。私同様ここを訪れた観光客も納得がいかないという顔をしたのが、その場に数人いた。しかし如何ともし難い。ご縁がなかったということで諦めて去る。
ジャカルタに行く前に両替しようとしたが、両替所が見つからない。どうせ銀行に行くなら、CITIバンクのカードで現金を下ろしてみようと思い、歩いてショッピングモールへ行く。そこの地下にCITIがあることを確認していたので、問題なくルピーをゲットできると考えていたが、甘かった。ATMにカードを入れてもエラーになってしまう。そこにいた職員も首を傾げる。これまた仕方なく去る。実は後で香港のCITIに行って確認したところ、香港の制度が変更されてATMカードを海外で使用する場合には、事前登録が必要となっていたが、それを知らなかっただけだった。
駅の付近へ行くと倉庫街が見えた。倉庫の壁にはなぜか上手にアニメが描かれていた。いったい誰が描いたのだろうか。それにしても上手い。そういえばAA会議場のすぐに近くには画廊があり、路上で絵描きが絵を描いていた。その雰囲気はヨーロッパをイメージさせる。そのような文化があったのだろうか。オランダの影響か。ここバンドンには大学も多くあり、バンドン工科大学など優秀な学校も多いと聞く。
バンドンスキで
ホテルに帰り、一休みした。Tはこれから休暇でバリ島に行くといい、分かれる。今回は本当に彼の世話になった。そして何より面白い旅ができた。感謝。
夜は昔仕事上で知り合ったAさんと再会した。Aさんは学生時代インドネシア語を学び、現在はこの地の銀行経営に携わっている。インドネシアでは希少な日本人だと言える。
プラガ通りのバンドンスキという店に出向いた。ホテルからはそう多くはないが、歩いていくとそれなりの距離があった。プラガ通りはバンドンではおしゃれというか、画廊などもあり、絵描きが道端で絵を描くなど、少し洋風な雰囲気が漂う。
バンドンスキ、という店名が面白い。タイスキと呼ばれる鍋にあやかって付けられたものだろうか。実際食事の内容はあのタイスキと同じだった。ワゴンに乗せられた具材から食べたいものを取り、鍋に放り込む。このシンプルさが良い。Aさんは焼酎を持参し、氷を貰って飲み始める。持ち込み可、それもよい。
最近日本ではインドネシアが注目されており、ビジネス視察も増えている。だが、マスコミ報道と実際とはかなりの開きがあり、インドネシアのビジネスはそう簡単ではない。またその報道は首都ジャカルタ中心で、バンドンなどは念頭にない。労働、教育、政策がない政府など、経済成長という言葉とは裏腹に問題は多い。それでもインドネシアには可能性を感じる。日本に戻るつもりはない。Aさんの言葉には重みがある。
午後6時から店が閉店になるまで焼酎を飲み続けた。久しぶりに再会ということもあるが、アジアという視点で語ることは楽しい。日本での狭い議論は実にむなしく思われた。
ついに茶畑へ
そしてチアトルの火口から先ほど来た道とは別の道を降りていく。10分も走ると茶畑が見えてきた。これは規模が大きい。驚いた。私は茶畑を見学できればと上出来と考えていたが、おばさんがこの辺に茶工場があるはずだから探そうという。
茶工場は直ぐに見つかった。だが今日は日曜日、工場は当然休みだと思っていた。ところが不思議なことに茶摘みは休みだが、工場は動いているというではないか。更に工場見学も歓迎だと言われ、招き入れられる。工場のおじさんがガイドとして付いてくれた。工場はかなり大きい。いわゆる大量生産の紅茶工場。だだっ広い。機械化は進んでいるが老朽化も。茶葉を自動で運ぶ工夫などもなされていた。昨日摘まれた茶葉が大量に寝かされている。
おばさんの通訳で話を聞く。1942年にできた工場だとか。そうだとすると日本占領下なのだろうか。恐らくはオランダ時代に作られた工場を日本が接収したのかもしれない。現在従業員は1500人、これも多い。工場内は100人程度で、あとは茶葉を摘む担当だと。如何に茶畑が広いとはいえ、これは正直かなり効率が悪い。紅茶が主体だが、緑茶も生産している。後で見ると、何と『Sencha』と書かれたパッケージがあった。日本からも注文があり、蒸し器を日本から持ち込んで生産しているとのこと。『ジャワストレートティ』という名称の缶飲料の原料もここから来ているようだ。
事務所で試飲もさせてくれた。BOPを豪快に淹れてくれる。香りは控えめ、味は悪くはなかった。基本的に90%以上を輸出する。ティパックの原料などになるものが多いのだろう。またここにも芽だけで作ったというWhite Teaがあった。こちらは淡い中にもしっかりとした味わいがある。
工場を離れて茶畑に繰り出す。ここは斜面ではなく、ほぼ平らな場所に広大な茶葉が存在する。向こうの方に山並みが見える。密集した茶畑がずっと続いている。観光客用に馬が用意されている。子供たちが馬に乗ってはしゃいでいた。その昔、茶葉を運ぶのに馬を使ったのだろうか。
因みにインドネシアと言えばコーヒーが有名。バタビアコーヒーが世界を席巻した時期もあった。一般インドネシア人の飲料として、茶は定着せずにコーヒーが残ったと言われた。勿論他の植民地と同様に、一番低級のダストのみを飲んでいたのだろう。オランダ時代のインドネシアのお茶の歴史、興味深い。是非今後勉強してみたい。
お昼はおばさんが行きつけのレストランへ。インドネシアの伝統的な家をレストランにしている。庭もある。吹き抜けの風が心地よい。隣に魚の養殖場があり、山の中としては格別に新鮮な魚が味わえるという。この辺は華人の味覚にマッチしている。魚ベースのスープは最高だった。何度もお替りしてしまった。そして焼き魚。まるで日本を思い出す味。太古の時代、日本とインドネシアは海で繋がっていた、ということだろうか。茶旅+グルメ、大いに満足した。
4月28日(日) チアトルへ
昨晩の夕食会で皆さんに『茶畑、茶畑』と騒いでいたところ、Tのおばさんの一人が、『明日連れて行ってあげよう』と言ってくれた。これは有難い、おばさんは普通話も出来るので、コミュニュケーションにも不自由はない。
朝ホテルで迎えの車を待っていたが、約束の7時を過ぎても一向にやって来ない。ホテル前の道に出てみて、その訳が分かる。何と大量の自転車が道を占拠している。サイクリングの一団だが、果てしなく続いて行く。先日日本のテレビでガールダインドネシア航空の社長が山梨に来て、サイクリングしている映像を見た。その時は、観光イベントだと思っていたが、本当にインドネシアはサイクリングブームなのだろうか。この圧倒的な自転車を見ては、頷かざるを得ない。ただ後で皆から話を聞くと『あれは労働組合が動員を掛けているだけ。一種の福利厚生』と言われ、ちょっと納得。いずれにしても、健康には良いかもしれないが、市民からは交通渋滞を理由に不評。
Eが漸くやって来た。次におばさんを拾っていざ出発。日曜日の朝、こんなに早く出て来たのには訳がある。ここバンドンは比較的涼しく過ごしやすいため、空気の悪いジャカルタから週末になると多くの人々がバンドンに避暑にやってくる。彼らは我々がこれから行くチアトルの火山などを見学するため、毎週末大渋滞が起こっている、とのこと。自転車の次は車の渋滞か。
山道を登ると道沿いにホテルやレストランが並んでいた。確かに観光地なのだ。幸いまだ渋滞はない。片道一車線の山道、渋滞すれば身動きできなくなる。1時間ちょっとでチアトル火山へ到着。この火山の火口、思っていたより迫力があり、また美しい。午前9時を過ぎて続々と観光客が詰めかけて来る。
火口に沿って土産物屋が並ぶ。何となく素朴な風景だ。馬に跨って喜ぶ観光客。朝からトウモロコシやお菓子を頬張る人々。山の人々が売りに来ている感じだが、中には台湾人が経営している土産物屋まであった。オジサンはきれいない国語で話す。『12年前にやって来て、現地の嫁さんを貰い、有機農業を始めたんだ。ここの暮らしはのんびりしていていいよ。漢字の看板出しておくと中国人や台湾人によく声を掛けられる。珍しいのが良いんだよ』。確かにのんびりとあくせくせずに暮らすなら、こんな所が良いかもしれない。最後にオジサンは『こんな所でも、地元の人とは色々とあるんだ。簡単ではないよ、田舎は』とつぶやいた。
3世代の夕食会
夜、Eが迎えに来てくれた。住宅街の一角にあるレストラン、そこは漢字の看板はないが、バンドン在住華人が集う人気スポットだった。夕方6時前でも既に予約で一杯、辛うじて入り口付近に席が確保できた。すると次々にTの親戚が集まって来た。その数10名以上。
Eは料理の注文を済ませるとどこかへ消えてしまい、あとは皆適宜話を始める。私の横にはTの伯父さんの娘とその旦那、そして幼い女の子が座った。40代の旦那は英語で話し掛けて来る。インドネシアの経済情勢などを聞く。その向こうでは60代の二人のおばさんが何と広東語で話している。あれ、この一族は客家系ではなかったのか。聞けば、広東系の女性がTのおじさんの所にお嫁に来たのだそうだ。この二人のおばさんは私に対しては普通話をまさに普通に話してくる。数人いた幼い子供達は普通話は勿論、英語も出来ず、完全にインドネシア語のみで生活している。面白いのはTと親せきの会話。従弟たちとは全て英語、おじさん、おばさんとは普通話。この2世代が混ざって話すときは従弟たちが懸命に普通話を使おうとする。そこには既にルーツである客家語は出て来ない。
Eの妹は彼氏を連れてやって来ていた。親戚一同に顔見世だろうか。皆興味津々で話し掛けるが、それは全てインドネシア語。インドネシア語と言ってもバンドンの方言らしいが。この会の共通語はインドネシア語である。若い世代は中華系の学校に行けば、普通話も習うというが、今や基本はインドネシア語、そして英語だろうか。華人が生きていく上で必要な言語を習得するのであって、アイデンティティだけでは生きていけない。歴史がそうさせている面もある。
Eが自分の父親を連れて戻ってきた。たった今台湾から戻ったのだそうだ。華人の代表団に参加し、台湾の高官とも面談したという。元学校で普通話を教えていたというこの老人、一体どんな人なのだろうか。確かに普通話の発音は格別上手かった。娘がお父さんに彼氏を紹介している。これは意外と重要な場面に遭遇したのかもしれない。
料理は中華ではなく、インドネシア料理。華人も既に百年単位で暮らしていると、母国の味より、現地の味となるのだろうか。何だか焼き鳥が実に美味かった。日本の味にも近いようで、こちらの方が故郷を懐かしんだ感がある。
巨大ショッピングモール
Tが言う。『確かバンドンには大きなショッピングモールがあるはずだ。そこには日本企業も出店している』と。行ってみることにした。だが場所は分からない。TがEに電話して、場所を聞き、タクシーに乗ってみた。運転手は英語は出来ないが、意味は通じたようだ。狭いバンドンなのに、何処をどう走っているのかさっぱり分からない。誤魔化されて遠回りされているようにも思えたが、どうやらこの街は一方通行が多いようで、イメージと反対方向へ行くこともある。その内、渋滞にはまる。バンドンでも渋滞か。なかなか進まない。理由は道が片道一車線で、多くの車がショッピングモールへ入るために並んでいたからだと分かったのはかなり時間が経ってからだった。
ショッピングモールの規模はかなり大きかった。建物前の広場ではイベントが開かれ、土曜日ということもあってか、人だかりが凄い。お客の層も若者や子供連れが多く、非常に活気がある。レストランも沢山あり、どこも満員の盛況。比較的空いているシンガポール系の麺屋に入ったが、『XX麺、1つ』という頼み方ではなく、『麺はこれ、具はこれ』と全て一つずつオーダーする方式に戸惑う。恐らくは街中と比較して料金が高いため、細かい価格設定をしたのだろうが、店員は片言の英語しか出来ず、コミュニケーションに苦労した。
このモールにはSogoとMujiが入居していた。Sogoはあくまでもブランドを借りているだけで日本企業ではないだろう。高級品を売るデパートのようになっていたが、お客は多くはなかった。一方無印良品が出て来ていたのは意外ではなかった。トルコのイスタンブールでも中国の田舎都市でも、今や無印を見ることは多い。無印の出店戦略はどのように決められているのだろうか。従来の日本企業とは明らかに違う何かがある。香港系などの動向を見ながら決めているように見えて、頼もしい。ただ殆ど全てを日本から持ち込み、日本より高い値段で売る戦略、これがヒットするのか、実に興味深い。
それにしてもモールに来るインドネシア人は何となく楽しそうだ。子供達も浮かれている。それは私が子供の頃にデパートへ行く、という感覚に似ているような気がした。何を買う訳でもない、アイスクリームを1つ食べたら十分満足だった。モールの中庭でクジャクが子供の人気を集めていた。遠い昔を思い出していた。
4月27日(土) 漢字が無い街
翌朝、Tと朝食を食べる。Tは昨晩従弟のEと相談してくれたが、Eは土曜日の今日も忙しく、また茶畑の情報もあまりなく、進展はなかった。『今晩バンドンの親族が集まる予定だから、そこでなんか出て来るでしょう』というT。そう、そんなものだ。
二人でバンドン市内見学に行く。先ずはチャイナタウンを探そうと思ったが、Eからも『バンドンにはチャイナタウンはない。華人は点在して暮らしている』と聞いていたので、ホテルの近所を歩いて見ると、『華人菜館』と漢字で書かれたレストランがあった。午前10時でお客はいなかった。店員に普通話で話し掛けたが、全く反応しない。カウンターの向こうにいた60代の華人と思われる男性に話し掛けると流暢な普通話が返ってきた。
『インドネシアはスハルト時代に中国語禁止、華人学校も閉鎖された。今の30-50代の華人は基本的に普通話は出来ないよ』と簡単に説明してくれた。2000年以降、華人学校も再開され、漢字の看板を出すことも可能となったが、スハルト時代の弾圧の後遺症か、現地化が非常に進んだせいか、未だに中国語には抵抗があるという。これがインドネシアの華人史だ。その後街を歩いて見てが、本当に漢字はほとんど見当たらず、小さな看板が出ていても普通話が出来る人は限られていた。因みにレストランの味もかなり現地化していると、ここのオーナーは述べている。
昨日見付からなかった駅へ行く。実は反対方向に歩いてしまっただけで、駅はホテルから歩いて10分も掛からなかった。古びた小さな駅。何となく好感が持てた。『ジャカルタへ行く時は電車で行こう』と決め、明後日の切符を買う。紙を渡され、氏名など必要事項を書き込む。窓口では英語も通じて問題はなかったが、何故か一等車しか売ってくれなかった。6万p。これは外国人だからだろうか?
バンドンと言えば1955年、周恩来、ネルー、スカルノなど第三世界の盟主を集めたバンドン会議が開かれた場所。歴史の教科書を思い出し、その会場へも行ってみたくなった。市内と言っても大きくはない通りを歩いて行くと、ようやく会場が見付かったが、何と今日はイベントが開かれており、一般公開はされていなかった。残念。