チャウリバザールから地下鉄で一駅、ニューデリー駅で下車。バックパッカーが良く泊まると言う安宿が多いメインバザールを目指す。ところが・・、そこはニューデリー駅のちょうど反対側にあり、駅を突き抜けようとするとセキュリティが厳しく、相当遠回りすることになる。しかし駅構内を通過するため、何故か切符もないのにホームに降りられ、インド鉄道の車両を写真に納める。何だか仕組みはよく分からない。
ようやく反対側に辿りつくと、そこには両側に商店、両替屋、安宿が連なる道があった。欧米人の姿が多く見られ、安物を買い込んでいる。ここがメインバザール。昼時になったので、レストランを探す。すると一軒のお茶屋が見えた。
ホワイトティー、シナモンティー、バニラティー、など多彩な紅茶が並んでいる。とても興味があったが、空腹でお茶を飲むのは堪えると思い、話だけ聞く。しかしこのお茶が何処で採れ、どのように運ばれてきたかは分からない。
お茶屋のおじさんに美味しいレストランを聞くと「そこに日本人がやっているのがある。日本食も食えるぞ」と言ったので、行って見る。クラブインディア、は目の前の建物の3階にあった。お客は韓国人の若者。音楽も若者向け。ここはバックパッカーのたまり場なのだろう。後で見ると地球の歩き方にも一番先に載っている。
メニューを見ると確かにさるそば、唐揚げ、オムライスなど日本食が並ぶ。インド料理、ウエスタンもある。折角なのでチキンカツ丼を注文したが、答えは「ない」。注文を取りに来たおじさんによれば、そばもうどんも、そして白米もすべて日本から輸入していたが、震災原発後はその輸入を止められ、日本食は作れなくなっていた。
おじさんは最初英語で話していたが、私が日本人と分かると(普通は日本人と分からないらしい)、流暢な日本語で説明してくれる。店の壁には日本語で「病気などのお手伝いします」といった張り紙もある。インドで苦労しているバックパッカーの見方であろう。おじさんから「震災、原発大丈夫か」と聞かれた。ラダックでは震災を考えることもあったが、デリーでは日本のことなど忘れていた。突然現実に引き戻された気分。結局カレーとナンを食べた。

広大なラール・キラーをだらだらと見学し、外へ出た。さてこれからどうしようかと思っていると沢山のリキシャ-が近寄ってくる。面倒なので適当に歩き出す。少し歩くとジャマ-・マスジットという大きなイスラム寺院が目に入る。中に入り階段から上を見上げて写真を撮っていると、おじさんが「今日は金曜日の礼拝。午前中は入ってはいけない」と注意しに来た。
しかしこのおじさん、それから「どこから来たのか」「何日滞在するのか」「午後まで案内してやる」などとまるでガイドのように声を掛けて来る。いや、ガイドのようにではなく、ガイドなのだ。観光客目当てのこんなガイドに引っ掛かっても仕方がないと思い、振り切って外へ。
この寺院の裏手は人ごみがすごかった。そろそろ疲れて来たので、リキシャ-に乗ろうとしたが、全く動きそうもない。取り敢えず適当に歩き出す。デリーでもオールドデリーと言われるこの付近は、私の思い描いていたインドの雑踏。細い道の両脇には昔ながらの2階建て商店が並び、鋼材や木材、胡椒などを扱っている。問屋街であろうか。道にはリキシャ-や自動車から大八車までがひしめき合い、まさに全く動かない状況。インドの喧騒。
私はどこへ向かって歩いて行くのか、何をしているのか、なぜこんな所に居るのか、しばしば立ち止まって考える。しかし考えても、何も出てこない。ただ一つわかることは「生きている感じがする」ということ。東京を思い返すと「あの震災ですらが、何だか他人ごとであり、テレビドラマのように現実味がない」のである。日本の暮らしは便利であり、不自由はないが、しかし生きている実感は掴めない。震災のような大災害時にはっと目を覚ますものの、またすぐに夢の中へ埋没する。
このデリーの古い町は全てオールドファッション。しかし人々の生み出す活力、むせ返る熱、漲る汗、作り出される喧噪が、古い映画の一場面のようでいて、しかし生きている。歩き疲れ、幻想を見ているかのようでいて、しかし生きている。不思議な空間だった。
歩いていたのは15分か、20分。もう耐えられないと思った瞬間、目の前に地下鉄チャウリバザールの駅が出現した。科学技術の進歩は人を救うのか、それとも退化させるのか。
チャンドニーチョックで降り、上に上がるとデリー駅がある。ここはコロニアル風の駅。雰囲気は良い。しかし人は多い。トイレはデラックストイレ、などという有料トイレが見られる。駅前の雑踏にはリキシャーがたむろし、チャパティなど朝ごはんを売る屋台が沢山出ている。しかしいくら探しても、ラール・キラーへ行く道を示す表示はない。
この辺が中国同様親切ではない。むしろわざと分からなくしており、リキシャーなどに乗せる作戦・・とも思えない。分からない場所に行くのに値段交渉も怖い。リキシャーと言っても昨日のオートと違い、自転車を足で漕ぐ、サイクルリキシャ-が多く見られる。ということは目標物は近いと判断できる?
一台のリキシャ-が近づいてきた。値段を聞くと20rpという。首を振るとすぐに次がやって来た。乗る気のない振りをしながら近づき、15rpで妥結した。動き出すとなかなか快適。しかし坂道では登りきらず、自ら押して動かしている。これは結構な労力。これで15rpはきつい労働だ。
運転するにいさんの後姿を見ながら、彼の人生を考える。今の日本ならとてもやってられないようなこの仕事、彼はどう考えているのだろうか。ここで数年頑張れば、オートリキシャーが買え、それからは楽な生活が出来る、などとはとても思えない。恐らくは一生涯、サイクルリキシャ-ではないだろうか。何だか老舎の「駱駝祥子」の祥子を思い出す。「現世は前世のカルマによりこんな人生だが、来世は違うぜ」などと思っているのだろうか。
10分ほどで、ラール・キラーに到着。にいさんは決められた15rpを受け取ると文句も言わずにさっさと立ち去る。代わりにおじさんが地図を売りに来た。普通なら見向きもしないのだが、地図が欲しかったので、買うことに。ところがそのおじさんの持っている地図は何とホテルなどで無料で配られる物。それに40-50rpの値段を付けている。信じられない。交渉により20rpまで下がったが買う気もなく、立ち去る。すると後ろからおじさんが10rpでいい、手間賃だ、という。確かに無料の物でもここまで持ってくるのだから、それぐらいはと支払う。
それを見ていたゲートの警備員が「お前、気を付けろよ。財布取られるぞ」と忠告してくれた。確かにそうかもしれない。ラダックでの生活から完全に抜け切れていない。誰が良い人で誰が悪い人が全く区別できない。中国ではなかった混沌を肌で感じる。
16.デリー2日目
地下鉄
朝ホテルで朝食を取り、その足で地下鉄へ。デリーは2002年の開設以来、地下鉄の整備が進み、現在6路線が運行。街のかなりの部分がカバーされてきている。ただ外国人にはちと分かり難い。例えば私が泊まっているコンノートプレースは地下鉄名ではラジブチョックという名前であり、知らなければピンとこない。
今回初めてのデリーながら、「進化するデリーと進化しないデリー」をテーマに動いてみた。一番良いのは地下鉄に乗り、観光地や繁華街などいくつかの場所に行って見ることだと思い、実行する。
ラジブチョック駅はYMCAから徒歩5分ぐらい。地下に潜ると荷物検査があり、大勢の人々が足止めされる。そしてチケット売り場はかなりの混雑。私も観光地カールキラーに行くための路線を窓口で聞いたが、英語がよく分からず、窓口で時間をかなり使った。耳寄りの情報があった。それは3日間乗り放題のトラベルパスが300rp(50rpはデポジット)販売されており、いちいち行列しなくてよいこと。但し1回の料金は15-25rp程度。とても使い切れるものではない。結局余ることを覚悟の上で、購入。
因みに駅には飲み物などを売るキヨスク、書店、そしてCitibankのATMもあった。この辺は現代的で違和感はない。
ここの地下鉄は色で分けられている。私はイエローラインに乗り、チャンドニーチョックへ向かう。ここはデリー駅(ニューデリー駅とは別)であるが、駅名はチャンドニーチョック。何でだ?地下鉄の車両はきれいだが、混雑しており、中国同様?降りる人に譲る姿勢はない。インド人の風貌からして、どいてくれないと結構痺れ、怖い感じがする。これはやはり「他人に隙を見せない」ためであろうか。
この地下鉄、日本のODAで作られたと聞いていたが、車両は韓国製とか。車内には携帯やPC用の電源も備わっており、良い。が、いつも混んでいる車内で充電している人を見かけることはなかった。
夜はデリーの大学教授M先生のお話を伺った。M先生は日本語の教師と言うことで紹介を受けていたが、お会いしてみると、日本語は実に堪能であり、かつ専攻は近代日本史、特に明治末の思想。また最近に日本企業のグローバル化を研究しているとのこと。
昨日日本から戻ったばかりだとは聞いていたが、某大学に客員教授として呼ばれ、何と2か月半も日本に滞在していた。何という偶然か、まさにドンピシャなタイミングでお会いできたわけだ。しかもわざわざホテルまで迎えに来てくれ、そしてご自宅に招いてくれた。
以下M先生の言葉。
「日本企業のトップは分かっているが、下が着いて行かない」
「雇用を維持して日本の技術の良さを出すためには、日本国内で薄利多売生産しかない」「日本人は日本が必ず再生すると信じている。しかし誰がやるかは明確ではない」
「あと10年すれば日本の技術の優位性はなくなる。その時中国・韓国には勝てない」
「タタの会長は来年引退。海外利益が65%の企業グループ、当然次期会長は海外から招へい。現在今後20年できる人を募集中。日系企業は・・」
「日本企業の研究拠点は本社中心。グローバル企業は世界の数拠点で並行して開発を行っており、ニーズの取り込みのスピードが違う」
「韓国企業は技術的に優れているとは思わないが、冷蔵庫、洗濯機のインド市場を独占した。日本企業に出来な訳はない」
至極もっともなお話ばかり。先生は日本滞在中に何度も企業経営者などを前に講演したと言うが、反応ははかばかしい物ではなかったらしい。「分かってはいるけれど、出来ない」ということが、日本には多過ぎると感じられた。
厳しい話ばかり書いてきたが、先生は実に温和な方で、話し方は上品。夕食も私の為に、奥様が家庭料理を作ってくれた。それにしてもインド人から「明治末の思想」「水平社」「幸徳秋水」などの言葉が出る度、正直唖然となる。今や日本人でこのあたりを語れる人はどれほどいるのだろうか。文化人と称している人でも難しいのではないだろうか。
そばでは先生の愛犬が常に吠えていた。2か月半も留守にして、更に今日もおれを構わないのか、といった不満が爆発していた。そういう意味では奥様や息子さんも同じだったはずで、その中を招いて頂いたことには実に感謝したい。
Nさんのお店を辞して、ホテルへ戻る。今度はリキシャーに乗り、黙ってメーターで行く。80rp。私は少しデリーに身構えていた。デリーはある意味では普通の都市になっていた。ホテル近くで降りる。コンノートプレースを歩く。
横断歩道を渡っていると「危ないぞ」と声を掛けてきた若者がいた。少し話していると、友人と称して、日本人から金を貰おうと言う輩だと気が付いた。かなりしつこかった。ようやく我を振り払うとまた別の人間がやって来る。皆が私に声を掛けて来る錯覚に陥る。必ず国籍を聞いてくるので思い付きで「香港から来た」というと、彼らの態度が全く違うものになったのには、驚いた。日本人は本当に御しやすいカモなのだ。
お腹が空いたのでどこかに入ろうとして、ケンタッキーの前で足が止まった。ラダックでは考えられないこのジャンクフードの店で。この店、なかなかハイカラなのである。マックカフェを模したケンタッキーカフェがあり、若者が楽しそうにおしゃべりしている。
しかし注文しようにもシステム的にずさんでなかなかオーダーを聞いてもらえない。順番を無視する客についに声を荒げてしまう。ラダックの魔法はここで解けてしまったようだ。ようやく席について周囲を見ると、デートに使っているカップルが多い。隣は韓国人と日本人、そして西洋人が怠惰な姿勢でだらだら話している。これはインドか??
ホテルの周囲を歩いてみたが、近代的なビルが立ち並び、地下鉄もあり、車も多い。人がインド人であることを除けば、ここはインドか、首を傾げるほど、私の想像していた街とは異なっている。
今回紹介されたNさん、日本食スーパーを経営されている。電話で確認し、オートリキシャーで来るようにと言われる。ホテルの外へ出ると、待ってましたとばかり、ターバンを巻いたおじちゃんが近づいてくる。どうみても、観光客向けの客待ち。この手には乗らない。さっと身をかわし、通りかかったリキシャ‐に飛び乗る。
Nさんから100rpあれば行けると聞いていたので、100rpで行くかと聞くと、首を縦に振り、しかも横についていたメーターを作動させる。場所も何回も確認していた。これはいい運転手だと・・。
30分ぐらい走っただろうか、結構遠いなと思っていると、いきなりここだと言われ、有無を言わせず降ろされる。メーターでは70rpだったが、100rpの支払いを要求される。確かに私も口にした数字だからまあいいかと支払って。ところが・・・。指定された場所はどこにもない。周囲の人に聞くと「ここから2㎞は離れている」と言う。何ということか。
そこからお店を探すのに悪戦苦闘した。人に聞くと皆答えてくれるが土地勘がないので正しいかどうか皆目わからない。とうとう例の携帯電話を取出し、確認する羽目に。それでも携帯があったのでよかった。もしなければ、途方に暮れていかもしれない。
ようやくお店に着き、延着を詫びるとインド在住20年を超えるNさんは一言、「インドは生きているだけで価値があるんです」非常に納得。そして「インドは発展していくが、その変化は100年、1000年単位で見て行かなければならない。自分の目の黒い内に大きく発展することはない。来世で見られるかな」「インドは変化していくが、変化しない頑固さもある」などと。うーん、これは奥が深い。
元々お坊さんであったNさん、仏教界への意見は厳しい。「日本の仏教界は既に死んでいる。 仏教がビジネスになっている」「ラダックの仏教は生きている。洪水に遭っても、皆が理解できるベースがある」「世界は今末世であり、この状態は一万年続く」「戦後アメリカの愚民政策により、日本は仏教を捨てた。基地問題など、アメリカ依存を捨てない限り、日本は立ち直れない」と次々私がラダックで考えていたようなことが飛び出す。
また教育では「子供はインドの環境で育てるのが正解。英語力やインドの泥臭さ、人間臭さが身に付けば、世界で怖い所はない」とも。また「日本人は英語は上手いが、執念が無いので韓国企業に負ける。韓国人は物怖じしないし、インドに合わせた商品を用意する」と日本企業の弱点もズバリ。インドで最近成功しているピザのようにインド人好みに合った商品提供が必要のようだ。
難なくYMCAに到着。タクシーンの運ちゃんは結局よい人だった。まだ午前中ではあるが、チェックイン可能とのことで待つ。これも普段であればかなりイライラしてしまう所だが、ただジッと待つことはが出来るようになっている。
ようやくチェックインがやって来て、非常に厳格なフロントのおじさんから内容を聞く。ところが、宿泊価格が2倍になっている。その点を指摘するとそのおじさんは、リストを指さし、「お前はこれだろう」と全く違う名前を指す。よく見るとその下が私。単に一段違っていただけ。おじさんはニコリともせず、謝ることもなく、金額を半分にして、再度最初から説明を始めた。これは一つのインドだな、と思いながら、この説明を楽しむ余裕がある。
そして客室へ向かう。エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押す。ところがどうしたわけか動かない。少し慌ててドアを開くボタンを押すがやはり反応が無い。流石に慌ててベルを押す。昼間だし、警備員も居たし、誰か気が付くだろうと心に余裕はある。しかしエレベーター内の扇風機も停まってしまい、ちょっと息苦しくなる。
そこへ外から音がした。手でドアを開けている。よかった、とその助けに来てくれたスタッフを見て、ビックリ。どう見ても日本人に見える。まさか日本人エンジニア?彼は英語で大丈夫かといい、エレベーター内を点検、3階のボタンが反応していないだけだと言う。そして私に乗れと言う。嫌だったが、言う通りすると、何の問題もなく動き出す。彼は一体何者?
部屋は広かったが、ドアのカギは壊れそう。値段が半分なのは、実はトイレとシャワーが共同だから。ということはイチイチトイレに行くのに鍵を掛けることに。本当にシャワーを浴びたかったが、約束があり、直ぐにホテルを飛び出す。
15.デリー1日目
携帯とプリペイドタクシー
2度目のデリー空港。何となく慣れた気分で荷物が出て来るのを待つ。怖い物が無くなったような気分。今日のホテルは予約されているし、交通手段はプリペイドタクシーを使えば、安全とのこと。何の問題もない。
ただラダックで果たせなかった携帯のSimカードを購入してみたいと強く思う。空港を出た所に携帯会社のカウンターがあった。試に聞いてみると「買える」との答え。半信半疑ながら手続きを進める。係員はジョークなど交えて非常に愛想がよい。
「写真持ってる?」と聞かれ、困る。持ってないと答えると何と自分の携帯で私の写真を撮り、処理してくれた。実に臨機応変、この機敏さが日本に欲しい。結局20分ほど掛けて書類に5枚ほどサインして、手続き完了。しかし料金は1000rp。カードは10年有効だが、3か月に一度チャージしないと、無効になる。3日の為には高過ぎたかもしれないが、これが危機を救うことに。
携帯ブースの隣にプリペイドタクシーカウンターあり。この場所は分かり難い。何故もっと分かり易くしないのか。何となく既得権益のにおいがする。市内YMCAまで320rp。タクシー番号が指定され、白黒のタクシーを探せと言う。正直初めての人間には不親切か。
ようやくタクシー乗り場を見付けると、係員が愛想よくレシートを受け取り、誘導してくれる。と思うと、彼は実は運転手で、番号の違う自分のタクシーに乗せようとする。流石、インド。その手には乗らずに、番号の所へ。この運転手はなかなか真面目そう。
クラシックカーのようなタクシーに乗る。料金所まで来ると誰かがいきなり乗り込んできた。「いいか」と聞かれたので、素直に首を縦に振る。中国ではこれは危険な行為。助手席に乗り込んだ人間がグルで、法外な料金を取られる可能性もある。しかしこの時はまだラダックの慈悲の心が残っていた。結局運転手とその男は楽しそうにお話、彼は途中で降りて行った。何度も私に感謝していた。不思議なものだ。
空港までは僅かな時間、沈黙が流れる。突然インドの空港ではチケットがいることを思い出す。Eチケットに慣れた我々は直ぐに忘れてしまうが、チケットなしでは空港入り口すらクリアーできない。慌てて鍵を開けようとしたが、間に合わず入り口到着。しかし何故か車はフリーパスで侵入。ここではお坊さんは信用がある、ということ。
そしてターミナル入口。P師が付いてきてくれたが、ここまで。有難う、すら言えない内に中に引きこまれる。何だか全てが終わったような気分になる。気を取り直して、チェックインへ。多くの人が並んでいる。カウンターは2つしかない。ここでP師の言葉が頭をよぎる。「急ぐ必要なんかない。ゆっくりやりなさい」
いつもなら、どちらのカウンターが早いとか、イライラして待つのだが、今日は完全に無の境地?もう一つのカウンターが相当早く手続き出来ているのを見てもゆっくり待っていた。そうしたら何とチェックイン最後の1名になってしまった。だが、カウンターの女性が「ビジネスクラスにアップグレードします」というではないか。何だかいきなりのご利益に仰天。
今回は比較のため、ジェットエアーを選んでいた。好感度は急上昇。というか、いつものようにちょろちょろせずにいたことが、この結果か。そして手荷物チェックを経て、待合室へ。出発時間より早く何回かアナウンスがあったが、気にせずにいる。しかしどうも変だと思い、係員の居る外へ出てみた。するとそこには何とさっきチェックインした私の荷物が2つ、取り残されていた。何かまずい物でも入っているのだろうか?
係員がチケットを確認、そして荷物に印をつけて終了。ようするにチェックインした荷物が本当に搭乗する人の物か再チェックしていたのだ。そこまでするか、と思うと同時に、やはりここは国境紛争地帯の一つなのだと再認識。これまでの穏やかな生活の陰で、全く危険が無いとはいない状況もあると言うこと。
更に搭乗時には再度手荷物検査、バスで移動する際にもボーディングパスの検査。そして搭乗時にも再検査と、都合5回のチェックがあった。いや、空港入り口で検査が2回あったから、合計7回ものチェックを潜る。国内線でここまでやる地域は珍しい。
座席は一番前の窓際。離陸時からラダックの余韻に浸る。上空でもあそこが、スピトクなどと地名を思い出し、何故か感激。ジェットエアーは格安航空会社ではあるが、キングフィッシャーより何となく雰囲気が良く、CAも美人ぞろい。段々俗世に引き戻される。
隣のインド人が話し掛けてくる。「お前の持っている本は中国語か、日本語か」何故そんなことを聞くのかと思えば、彼は中国語を半年勉強したのだと言う。それで本の漢字に反応したらしい。ラダックにオフィスがある、と言っていたが、何の会社だろうか。中国語学習は仕事ではなく遊びだと言っていたが、本当だろうか。インド人にも中国語ブームが来たのだろうか。
飛行機はあっと言う間に下界に降りてしまった。僅か50分で、私のラダックは全く視界から消え去った。 (完)